■大反響だった日経新聞「私の履歴書」
日本経済新聞の看板連載「私の履歴書」がスタートしたのはいまから70年前、1956(昭和31)年3月のことである。
著名人が半生を回顧する自伝的エッセイ。第1回の登場者は新聞記者出身の政治家、鈴木茂三郎(第2代社会党委員長)だった。鈴木は前年の衆院選で社会党を大躍進させ、時の人となっていた。
その後、松下幸之助(パナソニック創業者)や武者小路(むしゃのこうじ)実篤(さねあつ)(作家)、石橋(いしばし)湛山(たんざん)(元首相)、岸信介(元首相)、本田宗一郎(本田技研工業創業者)、東山(ひがしやま)魁夷(かいい)(画家)といった各界の大御所が続々と登場。
「私の履歴書」からお声がかかれば、それは一流の証――いつしかそんなブランドが形成されていった。
■現役幹事長による「自伝」
連載開始から10年後の1966(昭和41)年、異色の政治家が登場を果たした。当時、自民党幹事長だった田中角栄である。
それまでの登場者のほとんどが連載開始時に60歳以上であったのに対し、当時の角栄はまだ48歳。すでに郵政大臣(就任時39歳は当時の最年少記録)、大蔵大臣を経験していたものの、これから総理大臣を狙おうかという政治家が、半生を振り返る連載に登場するのは極めて異例だった。
現役幹事長による「自伝」の反響は大きかった。
連載終了からわずか3カ月後の6月、早くも『田中角栄 私の履歴書』(日本経済新聞社)が単行本として出版されたのである。
「私の履歴書」はそれまでも単行本化されていたが、1冊のなかに10人ほどが詰め込まれたオムニバス形式だった。単独で1冊の本になったのは角栄が初めてである。
■手紙の差出人に編集部がどよめいた
2月1日から3月7日まで毎回約1500字、計35回にわたった連載では、出生から少年時代、上京、兵役、そして代議士になるまでの約30年間が描かれている。
それだけではない。当時、この連載を読んで日経の編集部にこんな手紙を送った人物がいる。
〈貴紙連載中の田中角栄氏による『私の履歴書』を愛読しております。文章は達意平明、内容また読む者の胸を打つ。筆者によろしくお伝えください〉
まがりなりにも相手は自民党幹事長である。“筆者によろしく”とはいったい何者か――。
差出人を見て、日経の編集部がどよめいた。「日本を代表する知性」と目され、近代批評の創始者として名高い文芸評論家の小林秀雄その人であった。
■「小林秀雄って誰だ?」
小林の手紙は、すぐに田中角栄のもとに転送された。だが、角栄の反応は意外なものだった。
「小林秀雄って誰だ?」
秘書の早坂茂三が端的に説明した。
「日本でいちばん偉い批評家です」
すると角栄は相好を崩し上機嫌になった。
「そうか。それなら眞紀子に自慢できる」
■記者の聞き書きではなく直筆の原稿
当代随一の批評家も絶賛した角栄の連載は、日経の記者や秘書らによる聞き書きではなく、角栄本人による直筆原稿であったと早坂が証言している。
その内容はまさに「達意平明」だった。冒頭はこんな調子で始まる。
大正七年五月四日、私は新潟県刈羽郡二田村に生まれた。越後平野の真ん中、唄で名高い柏崎から、越後線で新潟に向かって五つ目、西山駅が二田村(現在は刈羽郡西山町)の駅である。
私の村は、海岸線に沿った小高い山並みと、柏崎から長岡に続く山並みとの間にある小さな平和な村だった。私の家は、四、五百年前に開村した二田村坂田の十八戸の一軒として続いてきた古い農家である。
■読み手を魅了する語り口
角栄の原稿は、決して美文ではない。だが余分な装飾が省かれ、エピソードをもって人生の機微を語らしめる手法が、読み手を魅了する。功なり名を遂げた人物の自伝にありがちな自画自賛の類もほとんど見受けられない。
私は小学校では級長をやっていた。からだがじょうぶでなく、気も弱かったが男の子たちは結構、私の言うことをきいた。ところが女の子(三年まで共学だった)の方がどうもうまくゆかない。
あるとき先生が「きょう先生は出張するから、あとは級長の君が適当に授業をやって、時間がきたら皆を帰すように」と言い置いて出かけられた。それを私はどうしたことか「君が授業をやりながら待っていなさい」という風に聞き違えてしまった。
先生は四時になっても五時になっても帰ってこない。とうとう皆を六時ごろまで残らせたことがある。サアみんなが怒った。「適当にやれないようなバカな級長は折檻(せっかん)してやる」と言い出した。
■お金を貸す際の「作法」
「金権政治」と批判された角栄であるが、カネにまつわる逸話も多い。
あるとき、新潟競馬に父の馬が出ることになり「こんどこそ勝てる」という話だった。
ところが運悪く、勝つはずの馬がレース中にけがをした。父は家に電報で「五、六十円のカネを送れ」と言ってきた。それだけのカネをどうやって作るか、思案のあげく、親類の近藤という材木屋に借りに行くことにした。
この家の娘を、ゆくゆく私の嫁にという話があったくらいで親しい間柄の家である。母は「カネを借りにお前を行かせたくはない」と嘆いていたが私はそう気にもとめず借金に出かけた。
近藤のおやじさんは快くカネを貸してくれたが、そのとき「お前のおやじもなかなか思うようにはいかんネエ」とつぶやいた。この一言が、今も私の耳に残っている。自分の父がほめられたのではなく、その不運を指摘された――という苦い思いが胸にしみた。
現在の私は、ひとにカネを貸してくれと頼まれたとき、できないと思ったらキッパリ断わる。貸すときは、返ってこなくてもよいという気持ちで一言も言わずに貸す。こういう考え方は、父のことを言われたあの瞬間につちかわれたものかも知れない。
■政治家になっていなかったら…
角栄は大変な読書好きで、「もし政治家になっていなかったら、私は小説家になっていた」とも語っている。
少年時代の角栄は新潮社の雑誌『日の出』(1932年創刊)が募集した懸賞小説に『三十年一日の如し』と題する小説を投稿。この作品が「佳作の下くらいにはなった」ことで5円の賞金を獲得した、と本人が明かしている。
もっとも、作品は雑誌に掲載されていないため、どんな内容の小説だったのかは分からないのが残念である。
■電子版で復刻された「私の履歴書」
角栄が好きだった作家は国木田独歩、高山(たかやま)樗牛(ちょぎゅう)、姉崎(あねざき)嘲風(ちょうふう)、久米正雄。そして徳冨(とくとみ)蘆花(ろか)の『思出の記』を「忘れることのできない1冊」に挙げている。
1901(明治34)年に発表された『思出の記』は、没落した旧家の1人息子が、落ちぶれようとも誇り高く生きようとする母と、みじめな現実の間で葛藤する物語である。
「今太閤」と呼ばれ、下剋上人生を体現した角栄がいかにも好みそうな小説だが、こうした少年時代の乱読が、角栄の文才の土台となったことはおそらく間違いないだろう。
■60年を経ての「復刻」
角栄が「私の履歴書」に登場してから60年の歳月が流れた。
日本経済新聞社は今年2月、電子版で角栄の連載を復刻。有料読者向けではあるが、伝説の「私の履歴書」を手軽に読み返すことができるようになった。(https://www.nikkei.com/topics/25071502)
田中角栄の色褪せぬ物語はいまなお、日本人の心のなかに生きている。
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欠端 大林(かけはた・ひろき)
ジャーナリスト
1971年千葉県生まれ。筑波大学卒業後、1998年に宝島社入社。『宝島』『別冊宝島』編集部で広くノンフィクションを担当。2021年に独立し、戦後史をテーマに取材を続ける。山本皓一氏との出会いを機に、田中角栄の豪快な生き方と人間的魅力に着目。85万部のベストセラーとなった『田中角栄100の言葉』をはじめ、田中角栄関連の書籍を多数企画・編集し、現代における「角栄再評価」のムーブメントを牽引している。
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(ジャーナリスト 欠端 大林)

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