日本人の観光訪問が多いタイには長期滞在者も多い。日本外務省が発表している海外在留邦人数調査統計(令和7年10月1日現在)では永住者を含め7万2113人の日本人がタイにおり、日本以外で日本人居住が多い国の4番目にあたる。

タイで現地女性と国際結婚した69歳日本人男性。勘当・失業を乗...の画像はこちら >>
 90年代後半には日系企業進出も増え始めたタイなので、長期滞在者の中には20年を超えて居住する人も少なくないが、それよりもずっと前から移住している人もいる。タイ在住40年選手のひとりである杉森美仁さん(69歳)のタイ人生を聞いてきた。

初めてのタイは1978年のころ

タイで現地女性と国際結婚した69歳日本人男性。勘当・失業を乗り越え、タイの屋台店主にたどり着くまで
タイに移住直前の杉森さん。まだ20代のころだ(提供写真)
 1957年生まれの杉森さんの初タイは1970年代も終ろうとしているころだ。東南アジアはまだベトナム戦争が終結したばかり、隣国カンボジアはポルポト政権による国民虐殺が世界に知られずに行われていた時期でもある。東南アジアの国々を日本では「発展途上国」と呼んでいた時代で、「タイ」といっても台湾と混同されてしまうほどマイナーだった。

「大学に入学したものの1年で中退し、観光専門学校に入りました。観光業に入れば旅行にタダで行ける。そんな考えからです」

 当時はまだ卒業すれば誰でも採用してくれるような就活に最高の時代だ。卒業生が大手旅行社に散らばっていき、卒業旅行シーズンには母校へさまざまなパッケージツアーを提案してくる。

「東南アジアとかアメリカ、ヨーロッパとかですね、日本国内もあるんですけど、ワタシは東南アジアに行きたかったので親にねだって申し込み、卒業旅行として初めてタイに来たんです」

 卒業後、杉森さんも旅行社に就職したものの、理想とのギャップに悩まされる。営業所に配属された新人は経理関係から始まって、国鉄の切符を販売したりなど、「これじゃあ旅行にタダで行けないじゃないか」となってしまった。

 他方では実はしっかりとタイと繋がっていた。卒業旅行で泊まったタイのホテルで働いていたタイ人女性スタッフと仲よくなっていて、文通をしていたのだ。
当時はメールもないし国際電話も簡単にできるものではなく、いわゆるエアメールで互いに手紙を送りあっていたのだった。

旅行社の恩恵で親に内緒で恋人を呼び寄せる

タイで現地女性と国際結婚した69歳日本人男性。勘当・失業を乗り越え、タイの屋台店主にたどり着くまで
1979〜1986年の大手旅行会社勤務時代。添乗業務が大好きだった(提供写真)
 就職したのは79年のころ。杉森さんはまだ21歳のときである。

「70年代は旅行業界・航空業界が大量輸送時代に入っていました。ジャンボジェットが導入され、俗にいわれるチャーター便が多く運行されていたのですね」

 チャーター便は航空会社がジャンボの座席を旅行会社数社に分割して販売する便だ。旅行社はそれを利用してハワイやバンコクへのパッケージツアーを組む。まだ個人旅行でチケットを購入する時代ではなかったというのもある。

「でも、完売はできないです、キャンセルが出ますから。そんなとき、支店長にワタシはタイ人とつきあってると話したら、チャーターに空席があれば5000円でいいといってくれて、バンコクに何回か来ました」

 当初の目論見どおり、旅行を安くできる恩恵を受け始めた。しかもそれだけではない。パッケージツアーの大全盛期だ。国内外問わず、とにかく客が集まる。すると添乗員不足となって、杉森さんのような社員も駆り出されることになる。


「国内ばかりでしたが、行けば行くほど給料を使わないんです、一銭も。逆に添乗の手当て、土産店からのコミッションが入って貯金が膨れましたね。残業も法律があってないような時代でしたけど」

 若くして収入・貯金が増えた杉森さんはこう思った。「タイ人彼女を日本に呼んじゃおうかな」と。そして彼女にホテルを辞めさせ、本当に日本へ呼び寄せたのである。

両親に黙って国際結婚。しかし日本には壁があった


 彼女を日本に迎え、杉森さんの祖母宅に部屋を無料で借り、日本語学校へ通わせながら2年ほど東京で暮らした。しかし、順調とはいえなかった。まだ80年代に入ったばかり。国際結婚を杉森さんの両親が納得しない。

「両親は昔の人ですから、結婚するなら日本人だと。それで彼女に嫌がらせをするんです。
冬に住まいの階段を上から下まで掃除させるとかね」

 自分が思ったら突き進むタイプの杉森さんだ。当時は若い。そのため、「逆に結びつきが強くなっちゃったんですね」という。ただ、慣れない外国で恋人の親からいろいろいわれるうちに彼女も思うところがあり、1回日本から離れることにした。

「男としては責任がある。タイに戻ったときにあちらの両親の了解を得て、タイのお寺で仏前結婚式をしました。もちろんワタシの両親には内緒で」

 日本とタイで籍を入れるので、当然そう時間が経たないうちにこの事実が発覚する。両親もご立腹であり、その時点で勘当されることになった。さすがに祖母の家には帰れないので、都内にアパートを借りて住むようになる。

「結婚して一緒になれば子どももできる。出産はタイでしましたが、当時日本の健康保険組合から出産手当が出て、航空券とタイの病院費用を合算してもお釣りがくるんですよ。これはいいなと」

 1人目が生まれ、ある程度首がすわった段階で日本に戻ったが、すぐに2人目もできた。
保険組合からまた出産費用が出るので、「何人でも子どもがほしい」と杉森さんは思う。しかし、妻の考えは異なっていた。

「やっぱりタイ人なんです。タイに戻りたいといい出しまして」

 先述のように今と違って当時は国際結婚が身近ではない。特に東南アジアの人と結婚すると、「騙されてるのではないか」といわれたり、子どもを連れて公園で遊んでいても誰も寄ってこない。

「それを見たときに、これはしまったと思いました。ワタシがタイに行かなければ、閉鎖的な日本では家族が長く続かない、と」

 同時に、杉森さんは20代後半の30歳が見えてきたタイミング。このまま今の会社でいいのかという葛藤が心にあった。そして29歳の終わりに決断。タイに本社がある旅行会社が日本にあって、そこに転職して、タイに赴任した。ここでタイ移住生活が始まったのである。

なかなかいい職場に出会えない日々


 移住時に貯金をはたいてタウンハウスというタイ式長屋のひとつを購入した。就職先も決まっているので、これで安心と思いきやタイもいろいろ大変だ。


「タイで働き始めたのはいいんですが、給料が安い。日本で採用されたけれど駐在員ではなく、タイの本社で現地採用の扱いでしたから」

 80年代後半や90年代前半は日本のバブル景気時代。バンコクは売春全盛で、日本人男性がたくさんバンコクに押し寄せてきた。パッケージツアーで来るのはまだ変わらなかったが、「半日観光だけしかついていないパッケージで、あとはオプションでそういった場所に行くんです」という流れがほとんど。ばんばん金を遣う日本人がいる一方、杉森さんはすっからかんな状態が続く。

「1年ほど過ぎたころにタニヤという日本人向けのカラオケ街が人気になり、そこにかわいい女の子がいっぱいいるんです」

 アテンドの仕組みを知りあいのガイドに訊いた。ガイドは「これはというツアー客を個々に誘って、知りあいの店に連れていけばキックバックがもらえる」と教えてくれた。

「そこにお客さんを何人も連れていきました。そういう男性は女の子にもたくさんお金を遣ってくれるので喜ばれたし、ワタシも店からコミッションが入りました。もう給料以上に儲かりましたね」

 しかし、これが会社にバレてクビになった。ポン引きのようになってしまったわけで、当然の結果といえばそれまでだが。

「今は就職を斡旋する会社が複数ありますが、当時はありません。
タニヤで儲けたお金で1年過ごしていました。すると知りあいのガイドから、あるホテルの支配人が辞めたためポジションが空いているという連絡があったんです。ワタシでもいいかなと、すぐに行きました」

 このホテルは日系航空会社のパイロットやCAが泊まるホテルで、当時は2泊ほど宿泊し、ゴルフやショッピングをしてから日本に帰った。そのため、チェックイン・アウトのときだけ日本人支配人がいなければならず、それ以外は自由だった。3年ちょっとほど、気楽に働くことができた。

 当時バンコク在住の日本人は少なかった。日本の旅行社時代に国内航空券のセクションにいたこともあり、タイに関わる観光業者にあっという間に「杉森がタイにいる」と広まる。すると、別の日系航空会社のバンコク支社から誘いがあり、杉森さんは航空業界に入った。

食品加工の会社から誘われる

タイで現地女性と国際結婚した69歳日本人男性。勘当・失業を乗り越え、タイの屋台店主にたどり着くまで
タイの旅行社をクビになるも、人づてに日本の航空会社に入社(3列目右から2人目が杉森さん・提供写真)
 日系航空会社に採用されたものの、重要な仕事や接待は任せてもらえない。当時の日本人現地採用スタッフは“日本語ができる現地人”という扱いで、3年半はいたものの辞めてしまった。

 再び無職になった杉森さんだが、航空会社で働いているときに知りあった日本企業の支社長から誘いを受けた。ブロイラーのファームで、鶏肉加工や冷凍食品を作る工場だ。ここで杉森さんは観光業から離れ、食品業界に入ったのである。もう間もなく40歳になろうというころだ。

「工場ではラインに並んでタイ人工員に笑われながらも鶏肉に串を刺したり、からあげを作ったりもしました。そのうち役員待遇になって、車もつけてもらうくらいになったのですが……」

タイで現地女性と国際結婚した69歳日本人男性。勘当・失業を乗り越え、タイの屋台店主にたどり着くまで
ファームから製粉会社と食品関係で働いていたころの杉森さん(提供写真)
 日本のコンビニエンスストア向けおにぎりに使う鶏肉にクレームが入った。日本向け食材ということで、まったく関係なかった杉森さんが減給処分となる。それが不服で、当時現地採用ではかなり高額な10万バーツという給料だったが、「あのころはイケイケ」だったので辞めてしまい、再び職を失った。

 その後、ホテル時代に知りあった人の紹介でフランス系ホテルに入るものの、当時のマレーシア人マネージャーとケンカになった。日本人が増えつつあった地域。ホテルに日本料理店を入れることを主張した杉森さんの意見を一蹴し、マネージャーは中華料理店を入れた。「こっちも鼻息荒いですから、アイツになにがわかるんだって、辞めてしまうわけですよ」。

 一瞬で無職にカムバックし、今度はブロイラーファーム時代の顧客であった会社に入ることになった。国際部長直々に誘ってもらい就職したのだ。その縁もあって、会食した店に通うようになり、その店にいた中里さんという料理人と個人的に仲よくなった。これがある意味、杉森さんの運命を変える出会いでもあった。

永住権を取得してついに独立を果たす


「給料も駐在員とほぼ一緒。ただ、7年目で支店長が変わったんですよ。自分より若い人で、ここで中里くんと一緒に居酒屋をやろうと思いまして」

 みな優しく、現地採用を見下さない職場だったが、杉森さんは飲食業に足を踏みいれた。退職金がないので会社から「なにかほしいものがあれば」ということで、杉森さんは自営業に有利になるタイ永住許可証の取得をお願いした。費用など諸々を退職金代わりに負担してもらったのである。

 最初に杉森さんが中里さんと始めた居酒屋は『田舎っぺ』という店だ。別の老舗居酒屋が別館として始めたものの本館からあまり客が流れず困っていたので、内装などそのままに権利を買い取った。中里さんは元々フレンチのシェフでもあって腕がよく、釜めしなど当時のバンコクでは珍しいメニューも多数。また、当時すでに日本料理店が増え始めてきたタイミングであったがどこも高額で、田舎っぺはそれの8~9割程度の価格設定で人気を博した。

 一時期は日本人居住者の多い駅周辺に5店舗を構えるまでになった。ひとつはフィリピンパブなどタイでは珍しい形態だ。また、最近はやっていないが女装の趣味もあり、そういったイベントなど、とにかくほかではやらないこともやってきた。

 しかし、2013年に日本政府のタイ人に対する観光ビザ免除が始まり、タイ人が本格的な日本料理の味に目覚めたことで多数の日本の有名店がタイに進出し始める。大きな資本と最新のテクニック、またタイ人の所得も上がり、杉森さんのところのような個人店は苦戦を強いられるようになってしまう。

 そして、ついに杉森さんは新型コロナウイルスのパンデミックを機にすべての店を手放した。数年ほど日本に戻ることにもなった。

パンデミックを経験し、ホルモン食堂を開業

 客足が厳しかったことだけが理由ではない。パンデミックもそうだし、同時にそのエリアの再開発情報が入ったからだ。

「2020年に最後まで残していた店のエリアが5年後に取り壊されるという情報を手に入れまして、いずれにしてももう続けられないと考えたんです」

 実際にそこは2025年に一斉に封鎖となった。当時メディアでは近隣の大家が一斉に物件を売却し、急な立ち退きをいい渡したという記事が散見された。

 日本人経営店も多く、多くが右往左往するはめになったほどだ。実際には2020年前後にその情報はあり、近隣のタイ人経営老舗店はいち早く別の場所に移転しているので「急に」というのは間違いだ。杉森さんも40年もタイにいるとタイ人の知りあいも多く、情報が入ってくるのである。

 ほかに日本に帰った理由は、母親が高齢というのもあった。また、実は杉森さんにはまだ幼稚園の年齢の子どもが2人いる。田舎っぺ時代の従業員と杉森さんは関係を持ってしまったのである。

「コロナの前に北部のほうに家を買って、コロナのときは娘2人と母親の3人で住んで、ワタシだけ日本で仕事していました」

 文通をしていたあのタイ人の奥さんとは今も離婚はしていない。

「考えはいろいろあると思いますが、男の勝手で新しい家族を作ったものですから、今までいろいろやっていただいた妻と離婚する理由がないんです。田舎っぺが好調だったときにコンドミニアムを買い、移住時に買ったタウンハウスが築30年くらいでしたが買った値段の4倍で売れたので、それらを全部妻にあげて」

 そして今は月に1回、日本に行ったときの土産などを渡すのに会っている。2人の息子たちはすでにアラフォー、2人とも日本国籍もあるので日本で働いているという。

 パンデミックによる鎖国がタイで終り、2023年の暮れにタイに帰ってきた。日本滞在時に七輪の炭火で焼くホルモンに感動した杉森さんは、タイでもやりたいと考えた。

「子どもが小さいので働かないといけない。しかし資金もないし、かけないでやりたい。そう考えていたときに飲食店経営の友人から屋台形式がいいと教えられ、場所探しを始めました」

タイで現地女性と国際結婚した69歳日本人男性。勘当・失業を乗り越え、タイの屋台店主にたどり着くまで
ホルモン食堂の醍醐味はこの炭火で焼肉を楽しめること
 2024年に場所がみつかり、5月に『ホルモン食堂』を開業。オープン当初は病気で10年以上前にタイを去っている中里さんが厨房に立ち、厨房内の指導をした。中里さんはガンでもう長くないことはわかっていて、最後にタイに来るチャンスを杉森さんにもらったことを喜んでいた。そして、ひととおり教え、定期検診のために日本に帰ったが、中里さんは残念ながら他界された。

タイで現地女性と国際結婚した69歳日本人男性。勘当・失業を乗り越え、タイの屋台店主にたどり着くまで
杉森さんのコネでタイ東部の漁師から直送の魚があるので、鮮度のいい刺身も楽しめる
 ホルモン食堂は屋台形式なので、数ある日本式焼肉店と比較すると値段が安いが、SNSでの宣伝に杉森さんが疎かったので当初客足はぼちぼちだった。現在は口コミで満席の日も少なくない。今のバンコクはちゃんとした店がほとんどで、田舎っぺのようなバンコクだけにしかない雰囲気を持つ特殊な店がなかなか現れない。おそらく待ち望んでいた日本人がたくさんいたのだと思う。

「自分が今、声を大にしていいたいのは、タイに来て貯金はできなかったけど、後悔がないということです。いっぱい失敗はありました。でも、結局人生は1回。日本で埋もれちゃうよりタイに来て、そういう経験が糧になった。自分の生きる糧にもなって、生きがいにもなっている。60代、70代になってもこんなのが世にいるんだぜっていうことが読んだ方の参考になればと思います」

 子どもが大学を出るまであと20年弱。杉森さんはまだまだ現役でがんばらないといけないのである。

<取材・文・撮影/髙田胤臣>

【髙田胤臣】
髙田胤臣(たかだたねおみ)。タイ在住ライター。初訪タイ98年、移住2002年9月~。著書に彩図社「裏の歩き方」シリーズ、晶文社「亜細亜熱帯怪談」「タイ飯、沼」、光文社新書「だからタイはおもしろい」などのほか、電子書籍をAmazon kindleより自己出版。YouTube「バンコク・シーンsince1998│髙田胤臣」でも動画を公開中
編集部おすすめ