張本勲の死去を伝えるネットニュースを目にした時、私は3年前に亡くなった門田博光の原稿を書いていた。

 突然の訃報に、自分なりの張本の思い出が頭に浮かんだ。

そして、その記憶をたどっているうちに、かつて門田から聞いた「張本話」がよみがえってきた。

【プロ野球】「ハリさんが本気でホームランを打ちにいってたら....の画像はこちら >>

【張本勲はやさしさと気配りの人】

 門田には亡くなるまでの約15年間、定期的に会って話を聞いていた。同世代のエースたちとの勝負や、偉大な先輩たちとの思い出を好んで語り、そのなかには7歳年上の張本の話もしばしば登場した。

「俺らが若い頃のプロ野球は、とにかく豪傑、異端児、一匹オオカミ......クセのある個人事業主の集まりやったんや。そのなかでも秀でた、プロ中のプロいうメンバーが名球会なんかで顔を揃えるやろ。最初は『やあやあ、どうもどうも』いうて楽しくやっとるのが、なんかのきっかけで勝負師のスイッチが入ったら、火ぃついて止まらんようになるんや。

 だいたい、そういう時に先頭切って火ぃつくのがハリさん(張本)でな。一回、ハワイでカネさん(金田正一)と取っ組み合い寸前までやり合った時なんか、そら迫力あったで。俺ら"若手"は『元気なおっさんらやなあ』いうて眺めてたけど、途中で『こら、カド、こっち来んかっ!』って呼ばれたりな。まあ、おもろかったわ」

 一本気で、曲がったことが大嫌い。それでいて、ニコッと笑った時の顔がなんともかわいらしい。

「ああ見えて、やさしさと気配りの人」

 それが、門田の張本に対する人物評だった。

【もしアキレス腱を断裂していなかったら】

 10数年前、大阪球場跡地に建つ商業施設「なんばパークス」で、門田が南海、ダイエー時代の同僚だったカズ山本とトークイベントを行なった時のことだ。

 盛況のため予定時間を延長したイベントの終盤、全身を南海のグッズで固めた年配の男性が門田に質問した。

「もし、アキレス腱の断裂がなかったら、どんなバッターになっていたと思いますか?」

 門田はプロ10年目の1979年、春季キャンプ中にアキレス腱を断裂した。スポーツ医療が現在ほど発達していなかった時代、選手生命の危機を感じさせるほどの大アクシデントだった。しかし、この苦境を乗り越えて戦列に復帰した門田は、1975年にパ・リーグで導入された指名打者として打撃に専念するようになる。

「打つだけが仕事なら、40発は超えなアメリカの戦車(外国人選手)と勝負できん」

 自らに高いノルマを課し、本人いわく「全打席でホームランを狙うようになった」。アーチストとして生きる覚悟を、より強く固めたのだ。

 そうした経緯を知っての質問だった。門田は少し間を置いて、こう答えた。

「アキレスをちぎってなかったら、おそらくハリさんを追いかけて、3000本のほうへいってたでしょうね」

 NPB歴代3位となる通算567本塁打を放った"不惑の大砲"から漏れた意外なひと言に、会場がどよめいた。

 門田の通算安打は2566本。張本の3085本、野村克也の2901本、王貞治の2786本に次ぐNPB歴代4位である。3000安打まで、あと434本だった。

 もし、この男がホームランへの思いを抑え、ひたすらヒットを求めていたら──。

そんな想像をさせる数字ではある。

 イベントからしばらくして、あらためて門田にこの話題を振ると、話はさらに広がった。

「プロに入って8年目の途中で1000本を超えたんや。それも1年目は脱臼して夏にリタイアして、50本くらいしか打ってなくて、それや。なら普通にいけば14、15年で2000本。20年ちょっと現役をやったら、3000本いう数字になった可能性は十分あったわけや」

【門田博光が選んだホームランという道】

 今回、門田との会話を思い出し、あらためて張本の成績を見返してみた。

 張本もプロ8年目のシーズン途中で1000安打を突破している。8年目終了時点の安打数は張本が1125本、門田が1046本。その8年間で、ともに5度、打率3割を記録している。本塁打も張本189本、門田164本だった。

【プロ野球】「ハリさんが本気でホームランを打ちにいってたら...」 門田博光が語っていた張本勲の知られざる打撃力
NPB歴代3位となる通算567本塁打を放った門田博光氏 photo by Kyodo News
 張本は高校から、門田は社会人を経てのプロ入り。その違いはあるものの、若くしてチームの中心打者となり、安打と本塁打を積み重ねていった足跡には、どこか重なるものがある。

 門田は若き日を振り返る際、こんな話もよくしていた。

「『3割やったら、いつでも打てます』って、当時プレーイングマネージャーやったノムさん(野村克也)には言うとったんや」

 そして、こうも続けた。

「ノムさんから『おまえが振り回すのをやめて、ヒットの延長がホームランと考えるようになったら、4割も打てる』と言われたこともあったで」

 そう言って、ニヤリと笑った。

 だが、門田の興味は3000安打にも4割にも向かわなかった。実際には、思うように本塁打数が伸びず苦しんでいたアキレス腱断裂以前から、ひたすらホームランにこだわり続けた。なぜだったのか。

「1年目のオープン戦で、王さん、ノムさんとのやりとりのなかで、『俺はホームランでこのふたりを追いかける』と勝手に決めたのがひとつ。もうひとつは、そもそもバッターにとってヒットは完璧な結果やないやろ? そら、ホームランでも当たり損ねや、フェンスギリギリ、風のおかげいうのもあるけど、多くは打者として完璧な結果がホームラン。なら俺らは打撃の職人、プロなんやから、毎打席完璧な打撃をして、最高の結果を求めるのが当たり前いう理論や」

【俺の本塁打数はゆうに超えていた】

 では、張本はどうだったのか。通算3085安打という金字塔があまりにも有名だが、張本は通算504本塁打、319盗塁も記録している。500本塁打と300盗塁をともにクリアした選手はNPB史上、張本ただひとりだ。

 安打製造機でありながら、本塁打を量産する長打力があり、なおかつ走ることもできた。球史でも類を見ないオールラウンドな打者だった。

 ならば、もし張本が「ヒット」ではなく、「ホームラン」を第一に求めていたら、504本という数字はどこまで伸びていたのだろう。

そう尋ねると、門田は即答した。

「ナンバーワン(王貞治)が868本、ノムさんが657本で、俺が567本。そのあとに(山本)浩二さん、キヨ(清原和博)、オチ(落合博満)で、ハリさん。500本を超えとったわけでしょ。あの人がホームランを本気で打ちにいってたら、俺なんかはゆうに超えて、王さんとノムさんの間に入ってた可能性は十分にあったやろうね」

 門田はそう見ていた。だが、張本が追い求めたものはホームランではなく、ヒットだった。

「体重移動は少なく、レベルスイング。俺みたいに打球に角度をつける打ち方やなしに、ライナーでヒットを打つフォームやったでしょ。それに足もあった。回転が速くて、ちょこちょこっとした走り方やったけど速くて、セーフティーバントもうまかった。そういうのが好きやったいうのもあったんかな」

 さらに門田は、「これは俺の想像やけどな」と断ったうえで、もうひとつ理由を挙げた。

「王さんとハリさんは同い年で、プロ入りも一緒の左打ち。

セとパは違うけど、向こうがホームランでトップを目指していくなら、こっちはヒットで頂上を目指す。そこはあったやろうな。とにかく昔は『1番になる』いうのを、どの世界のやつもみんな持っとったんや。

 特にハリさんも長いことパ・リーグでやって、3割20本くらいじゃ給料も上がらん時代に、人と違うズバ抜けた数字を残して、この世界で1番になる。『そのためにはヒットや』となったんやないか。カネさんでも、ひたすら数字を追いかけて、追いかけて、追いかけた結果の400勝や。数字と戦ういうのは、ほんましんどいことやけど、そこに挑んでズバ抜けた数字を残したのがカネさんであり、王さんであり、ハリさん。プロの中のプロやったいうことや」

【ふたりが違う道を選んでいたら】

 張本が東映でプレーしていた時代のパ・リーグには、野村克也もいた。張本のプロ5年目となる1963年、王より1年早くシーズン50本塁打を記録した大打者である。

 対戦を重ねるなかで目の当たりにした野村のホームラン打者としての力量が、張本をより安打へと向かわせた──そんな話もある。真相は本人にしかわからない。

 ただ、張本は自分が最も輝ける道として「ヒット」を選び、その道を突き詰めた。

その結果として残ったのが、「3085」という誰も到達していない数字だった。

 10年以上も前に門田から聞いた「張本話」を懐かしく思い出しながら、そんなことを考えた。

 まだ何者でもなかった若き日に、もし門田がヒットを、張本がホームランを第一に求めていたとしたら──。

 アーチスト・張本勲。
 安打製造機・門田博光。

 ふたりの代名詞は入れ替わり、まったく違った姿で球史にその名を刻んでいたのかもしれない。

谷上史朗●文 text by Shiro Tanigami

編集部おすすめ