精神科を訪れる患者が「私は病気じゃありません!」と、医師の話を全く受け入れないケースは珍しくない。もちろん、実際には要治療の状態であり、緊急を要する場合もある。

とはいえ、無理やり入院させるのは人権の壁が立ちはだかる。だが、時間的猶予はない…。
実は、そうした壁をクリアし、円滑に治療する目的で「精神保健福祉法」という法律がある。
※この記事は、関東X県の精神科救急病院に勤務する現役精神科医・駒木爽氏の書籍『精神科医おどおど日記』(三五館シンシャ)より一部抜粋・構成しています。

只今、神と交信中「悪霊がついております」

X県の中心部に位置するJRの主要駅からクルマで40分ちょっと。市街地のざわめきがゆるやかにほどけていくと道はゆるくカーブし、その先にS病院の白い建物群が現れる。
周囲は民家に囲まれているが、建物の裏手には病院を覗き込むように小山の斜面が迫る。最寄り駅からは徒歩で20分を要するため、来院者はたいていバスかクルマでやってくる。
診察室の呼び出しボタンを押して、受付番号を読み上げると、30代のN子さんが初老の母親に付き添われて入室した。険しい表情で席に腰を下ろした彼女はトレーナーとジーパンという出で立ちだが、上着にはところどころシミ汚れがあり、胸までかかる長い髪はパサついて傷んでいる。
「今日はどうされましたか?」
「私はこんなところに来る必要なんかないと思っています」
N子さんが素っ気なく答えると、隣の母親がおびえた目で訴える。
「この子、霊を感じると言うんです。『悪霊がついているからお祓いをしたほうがいい』って、私も1時間以上も正座させられます。
霊が取りついているからとほとんどご飯も食べません」
「私は“神”から選ばれた特別な存在なので“悪い波動”を感じられるんです。母は凡人だから、私の行ないの重要性がわからない。母も父も不吉な波動が出ているから除霊が必要です」
彼女の眼は真剣で、その口調は疑いを挟む余地を与えない。
「N子さんには悪い霊や波動が実際に見えるんですか?」
「感じるんです。あなたにも悪い霊がついているのがわかりますよ。除霊が必要です。刃物で波動のつながりを断ち切らないといけませんから、あなたからも包丁を隠さないように母に言ってください」
母親があわてて話に割り込む。
「この子は除霊と言って、包丁やハサミを私たちの顔の前で振り回すんです。怖くて怖くて」
「刃物がないと除霊ができないでしょ」
母親がまた彼女の発言を諫めようとするが、N子さんは突然席を立ち、両手で“見えない刀”を構え、母親の頭上でシャッシャッとお祓いの動作を始めた。神社で祈禱師が御幣を振りかざすようにしながら、ぶつぶつ祝詞(のりと)めいた言葉を唱え続けている。
「N子さん」と私が呼びかけると、「静かにしてください。神と交信中です。
邪魔すると悪霊が暴れ出します」と横やりを許さない。
「はい……はい、そうです。この者にも悪霊がついておりますか? では、お祓いが必要ですね」
彼女は顔を虚空に向けたまま、誰かと対話している。おそらく彼女だけに聞こえる幻聴があるのだろう。その言動を精神症状として冷静に査定しながらも“悪霊”という単語に惹かれ、ロシアの文豪を思い出す。私には患者の幻聴や妄想を一種のエンタメとして楽しんでしまう悪い癖がある。

言動から統合失調症と判断

私は母親から詳しく症状を聞き取り、カルテに記載しながら、情報を頭の中で整理する。
自身を選ばれし除霊師と信じ、他人の霊を祓うことが使命だとの思い込みは妄想である。彼女だけに聞こえる神の声は幻聴で、その声に操られているような行動も見受けられる。統合失調症だ。
N子さんは妄想に従って刃物を振り回しており、放っておけば、母親を切りつけるかもしれない。私は入院治療が必要と判断を下す。
「N子さんは統合失調症の可能性があります。
入院して治療を進めたほうがよさそうです」
「先生、お願いします」と母親はすがるように頭を下げるが、N子さんはお祓いをやめ、こちらに食ってかかる。
「私は病気なんかじゃありません! どういう根拠でそんなこと言うんですか」
「今は信じられないかもしれませんが、あなたが霊を感じるのは病気のせいかもしれません」
私が努めて冷静に伝えると、
「病気なのはあんたのほうでしょ。私が除霊しないと世の中の人が困るんです!」
統合失調症の患者で厄介なのは“病識の欠如”だ。自分が病気でおかしくなっているという自覚がない。
「病気だから入院が必要」と伝える医師に、「病気じゃないから入院しない」と患者が反論する押し問答は統合失調症の診察では定番だ。

法律にもとづき、入院を強制

治療をしないと「自分は病気である」という自覚は生まれない。ただ、この場では何を言っても逆効果なので、精神保健福祉法という法律を使って強制的な入院を行う。
「N子さんは入院を拒否されていますのでお母さんの同意による強制的な入院となります」
「はあ? 強制? ふざけないで。病気じゃないのに入院なんて監禁でしょ。犯罪で訴えますよ」
この病気の鉄板フレーズだ。もちろん患者の人権は厳正に保護されているため、入院対応へ不服申し立てがある場合は、然るべき機関に患者自身で退院請求をすることができる。ただ、幻覚・妄順状態で緊急入院した事案で患者本人の希望が通ることはまずない。
一般的に人が病院を訪れる際、何かしらの身体的な不調や痛みを自覚し、「治してほしい」という希望がある。
骨折して痛みがあれば手術をしてほしいし、肺炎で息苦しければ抗菌薬での治療を願う。そこには「治りたい」という患者本人の意思がある。
だが、精神科の患者には、治療への意思が存在しないことが多い。治療を望まない患者に「人体実験をするのか」「おまえは犯罪者だ」と罵られながら治療する。これが精神科医の仕事だ。
もともと外科医だった私はこの科に来て初めて、治療の際に患者に罵倒されるという体験をした。
たとえば、首筋と両腕から物々しい刺青がのぞく男性は、私が入院を通告すると「キチガイ扱いしやがって。おまえの顔、忘れねえからな」と鼻先3センチまで顔を近づけてすごんだ。最初はどう対処したらいいか戸惑い、おどおどと狼狽(うろた)えるばかりだった。
しかし、10年以上この現場にいると、患者が怒り狂おうが、罵詈雑言を浴びようが動じなくなった。患者の言動は病気に支配されているゆえのものだと理解しているからだ。
「私は病気なんかじゃない!」
N子さんはそう叫んで立ち上がった。
私はすぐさま男性看護師を2人、診察室に呼び込むと、「保護室にお願いします」と伝える。“犯罪者”である私に飛びかかろうとするN子さんを看護師2人が両サイドから暴れないように支える。

絶叫を残し、患者を閉鎖病棟へ

「恨むわよ!」という絶叫を残し、N子さんは看護師に両脇を抱えられ、隣の病棟に連れていかれる。向かう先は閉鎖病棟の中の保護室だ。
保護室といえば聞こえはいいが、トイレと布団しかない殺風景な部屋で、部屋から出るためには許可が必要になる、実質的には牢屋だ。
隣室は同じように精神状態が不安定な患者が入室していて、四六時中叫び声やうめき声が絶えない。そんな環境でN子さんの入院生活は始まった。


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