10月24日の施行後は、旧宮家の男系男子を皇族の養子として迎え、皇族となった後、結婚した女性との間に生まれた男子には皇位継承資格が認められる一方、愛子内親王に皇位継承資格が認められない現行制度は維持される。
皇室のあり方に改めて注目が集まる今こそ、52年前の1974年8月14日には、昭和天皇の暗殺を企て、暴力によって天皇制を破壊しようとしたテロ計画が実行に移されようとしていた事実を確認しておきたい。
東アジア反日武装戦線の「狼」による「虹作戦」である。
本稿では、鉄橋に巨大な爆弾を仕掛けて昭和天皇が乗る特別列車「御召(おめし)列車」を爆破しようとしたこの計画が、どこまで具体化されていたのかを追う。(ライター:ミゾロギ・ダイスケ)
皇室を標的とした戦後の襲撃事件
戦後、皇室を標的とした襲撃や妨害事件は複数発生している。1969年にはドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』でも知られる元日本兵・奥崎謙三が、新年一般参賀で昭和天皇に向けてパチンコ玉を発射した。
1975年には、沖縄を初めて訪問した当時の皇太子明仁親王(現・上皇)夫妻に対し、ひめゆりの塔で活動家が火炎瓶を投げつけた。
1990年には、舞踊家の花柳幻舟(はなやぎげんしゅう)が即位祝賀パレードに爆竹を投げ込んでいる。
しかし、これらはいずれも小規模で単発的な襲撃、あるいは政治的な抗議や示威行動だった。
その一方で、昭和天皇を爆殺し、昭和という時代そのものを終わらせようと考えた若者たちがいた。
地下ゲリラグループ・東アジア反日武装戦線「狼」である。
学生運動の衰退と武装闘争への転換
戦後のベビーブームに生まれた「団塊の世代」が大学進学期を迎えた1960年代後半、ベトナム戦争への反対や、1970年の自動延長を控えた日米安全保障条約への反対、大学の管理運営をめぐる不満が重なり、新左翼系の学生組織が主導する学生運動は全国に拡大した。当初は大学改革や反戦を訴える運動だったが、大学の封鎖や占拠、街頭での機動隊との衝突が相次ぎ、火炎瓶や鉄パイプまで使われる激しい闘争へと発展していった。
しかし、1969年に入ると、大学当局が機動隊を導入して封鎖や占拠を次々に解除した。
学生運動の内部でも組織間の対立や内ゲバが激化し、暴力化によって世論の反発も強まり、学生運動は同年後半から急速に沈静化した。
その一方で、新左翼のごく一部は、武力を用いなければ社会は変えられないと考え、爆弾や銃を用いる武装闘争へ向かった。
1970年には赤軍派のメンバー9人が日航機「よど号」を乗っ取り、北朝鮮へ渡る。
その後、赤軍派の流れから連合赤軍や日本赤軍が生まれ、1971年から1972年にかけて、連合赤軍が仲間12人をリンチで殺害した「山岳ベース事件」、1972年には連合赤軍メンバー5人が人質をとって山荘に10日間立てこもった「あさま山荘事件」が起こる。
さらに同年5月には、中東でパレスチナ武装組織と共闘していた日本赤軍のメンバーとされる3人がイスラエルの空港で自動小銃を乱射し20人以上の死者を出した「テルアビブ・ロッド空港銃乱射事件」が起きた。
一方、武装蜂起によって世界同時革命の実現を目指した赤軍派系のセクト(分派)とは異なり、アナーキズム(無政府主義)の影響を受け、日本国家への破壊攻撃を実践すること自体に重きを置く勢力も現れた。
こうした集団の一つで「都市ゲリラ」の道を選んだのが、のちの「東アジア反日武装戦線」だった。
少人数のユニットを組み、表向きは普通の市民として暮らしながら、密かに爆弾を製造した。
大道寺将司と「狼」の原点
東アジア反日武装戦線の中心人物が北海道出身の大道寺将司である。1969年に法政大学文学部へ入学した大道寺は、同じクラスの片岡利明らと、ノンセクト系の学生運動グループ「Lクラス闘争委員会」を結成した。「Lクラス」とは、二人が所属していたクラスの名称だ。
学生運動が勢いを失い、Lクラス闘争委員会が活動を終えたあとも、大道寺と片岡ら数人は集まりを続けた。そのなかで、次のような思想を形成していった。
- 戦前・戦中の日本によるアジア侵略は、敗戦後も、日本企業の海外進出などを通じた経済的な侵略として続いている。
- 戦後日本の経済成長と豊かな暮らしは、アジア諸国の人々を搾取し、抑圧することで成り立っている。
- 日本人は、そうした支配を「許容・黙認」し、その豊かさを享受している。
- アジア諸国に進出する日本企業に対して、武装闘争を行うべきである。
大道寺、駒沢、片岡らは爆弾製造の実験を重ね、1971年12月、いよいよ爆弾テロに着手。
興亜観音および殉国七士之碑(静岡県熱海市)に時限爆弾を仕掛けたのである。
さらに1972年4月に總持寺(そうじじ、横浜市鶴見区)の納骨堂、同年10月には風雪の群像(北海道旭川市)に、相次いで爆弾を仕掛けた。標的となったのはいずれも、彼らが「日本の侵略や民族抑圧の象徴」とみなした施設や記念碑だった。
興亜観音は不発に終わったが、殉国七士之碑や總持寺、風雪の群像では爆弾が爆発した。ただし、一連のテロで死傷者は出なかった。
東アジア反日武装戦線の誕生
三度の爆破事件を起こしたあと、1972年12月、大道寺、駒沢、片岡らは、自分たちが進める反日武装闘争の共通名を「東アジア反日武装戦線」とし、自らのユニットを「狼」と名づけた。翌73年、将司とあや子は結婚した。その後、東アジア反日武装戦線「狼」は、大道寺将司、大道寺あや子、片岡利明、そして、新たに加わった佐々木規夫の4人編成となった。
その生活は「都市ゲリラ」という言葉を地で行くものだった。
薬剤師だったあや子は、病院勤務を経て都内の試薬会社へ転職した。爆弾製造に使う薬品を入手するためだったとされ、勤務先からは逮捕時などに備えた自決用の青酸カリも持ち出していた。
佐々木は、過激な政治運動から転向したように見せるため、創価学会に入信し、熱心な信者を装った。その一方、自宅アパートの床下に秘密の地下室を造り、そこで爆弾を製造していた。
1974年3月、「狼」は地下出版物『腹腹時計 都市ゲリラ兵士の読本』を自主制作した。
本の内容は、爆弾の製造法や仕掛け方、起爆方法などを具体的に解説した実用的な手引きが主であった。
さらに警察の尾行を避ける方法や「表面上は、ごく普通の生活人であることに徹する」「左翼的粋がりを一切捨て去る」「隣人との挨拶は不可欠である」といった、都市ゲリラ活動を続けるための日常生活上の心得も記されていた。
この冊子によって東アジア反日武装戦線「狼」は、アンダーグラウンドなかたちではあったが、初めて対外的に名乗りを上げた。
究極の標的となった昭和天皇
これに先立つ1973年夏以降、「狼」は、それまでとは次元の異なる究極の爆破ターゲットに狙いを定めた。戦前・戦中に現人神として神格化され、戦後は日本国の象徴となった当時の天皇──つまり昭和天皇である。
「狼」は、戦前・戦中の日本によるアジアへの軍事行動を「侵略」と捉え、旧日本軍の最高指揮官だった昭和天皇を、その責任を負うべき存在とみなしていた。
とはいえ、厳重に警備された皇居や公式行事の会場で昭和天皇を襲撃することは容易ではない。しかし「狼」は、昭和天皇の行動には警備の盲点となる瞬間があると考えた。
昭和天皇は鉄道で移動することがあるが、列車が特別列車や貸し切り列車であっても、一般の列車と同じ線路を用いる。長い鉄道路線の全区間に人を配置し、徹底的に警備することは現実的ではない。
昭和天皇は例年、夏を那須御用邸(栃木県)で過ごしていたが、8月15日には東京・日本武道館で開かれる全国戦没者追悼式に出席する。
そのため前日の14日、那須から東京へ戻る。「御召(おめし)列車」は東北本線を南下し、埼玉県川口市と東京都北区の間に架かる荒川橋梁(きょうりょう)を通過する。
鉄橋ならば、線路の下に爆弾を仕掛けることができる。列車が橋の上に差しかかった瞬間に起爆すれば、昭和天皇を乗せた車両を鉄橋ごと荒川へ転落させられる──。
これが虹作戦の概要だった。
荒川橋梁で始まった実行準備
「狼」は御召列車に関する資料や時刻表を調べ、実際に列車を見送るなどして、荒川橋梁を通過する時刻を割り出した。1974年春からは夜間に河川敷へ通い、爆弾を仕掛ける場所や起爆方法を検討した。
8月12日夜、「狼」の4人は荒川河川敷へ入り、起爆用の電線を敷き始めた。天皇陛下の暗殺計画はいよいよ具体的に動き出したのである。
しかし、爆弾と起爆装置を結ぶための電線は長く、湿地や草むらに隠しながら運ぶ作業は想像以上に難航した。足を取られ、作業は大幅に遅れた。夜が明けるまでに、予定していた作業を終えることはできなかった。
翌13日夜、4人は残った作業を終えるため、再び荒川橋梁へ向かった。この夜、爆弾を橋脚付近へ運び、前夜に敷いた電線と接続する予定だった。翌朝には、昭和天皇を乗せた御召列車が通過する。
ところが、現場付近には数人の人影があり、いつまで経っても立ち去らなかった。
「狼」は、警察関係者ではないかと疑った。このままでは作業を始められない。
すでに前夜の遅れがあり、爆弾の設置と電線の接続には、まだ多くの作業が残っていた。
中止された虹作戦
4人は現場近くで、計画を強行するか中止するかを協議した。現場にいた数人を殺害してでも作業を続ける案まで検討した。しかし、作業を再開しても、御召列車の通過までに準備を終えられる見込みは薄かった。
ついに4人は、虹作戦の中止を決め、現場から撤収したのだった。翌8月14日、昭和天皇を乗せた御召列車は、予定どおり荒川橋梁を通過し、昭和は49年で終わることはなかった。
しかし、「狼」のテロ活動はここで終わらなかった。
虹作戦の実行断念により、御召列車爆破のために製造した大型爆弾は手元に残ったのである。そして、それはわずか半月後、別の形のテロとして使用されることになる。
1974年8月30日、白昼の丸の内に血の雨を降らせた「三菱重工ビル爆破事件」で使われた爆弾こそ、本来は昭和天皇を殺害するために用意されたものだったのだ。
(弁護士JPニュース編集部より:「三菱重工ビル爆破事件」については8月30日に記事を掲載する予定です)
■ミゾロギ・ダイスケ
昭和文化研究家、ライター、編集者。スタジオ・ソラリス代表。大学の文学部を卒業。スポーツ雑誌、航空会社機内誌の編集者を経て独立。『週刊大衆』をはじめ、各媒体で執筆活動を続ける。犯罪、芸能全般、スポーツ全般、日本映画、スキー、プロレスなどを守備範囲とするが、特に昭和文化研究はライフワークだ。著書に『未解決事件の戦後史』(双葉社)。

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