『むかしばなし』に、仙台藩の三代藩主・伊達綱村のころの話が出ている。
場所は江戸藩邸である。
布引という相撲取りがいた。あるとき自分の力をためそうと思い、布引は日本橋で牛が荷車を引いているのを見かけると、後ろから車に手を掛け、グイと引っ張った。牛と布引の力くらべである。
ついに、車はなかほどで裂け、壊れてしまった。
その後は、往来で牛を見かけると、その胸に布を巻いて引きとどめる。牛はもう進むことができなかった。これが布引という名が着いた由来だった。
布引は平戸(長崎県平戸市)藩松浦家の抱えの力士となった。藩主は会う人ごとに、「天下広しといえども、布引を投げることのできる者はおりますまい」と、得意がった。
この自慢を聞き、伊達綱村は藩士にふれを出した。
「布引を投げる自信のある者は名乗り出よ」
佐藤浦之助という藩士が名乗り出た。
「拙者は剛力には自信があります。柔術の稽古をして技さえ覚えれば、必ずや布引を投げて見せましょう」
そこで、浦之助に柔術の師範に入門させ、特訓を開始した。その間、毎日、鴨二羽を支給した。鴨の肉を食べて精力をつけよというわけである。
数カ月後、伊達綱村が平戸藩の藩主に言った。
「我が家中に布引と対戦したいという者がおります。いかがですか、勝負させてみませぬか」
「それは面白いですな」
平戸藩主はもとより相撲好きのため、即座に承諾した。
佐藤浦之助は平戸藩邸に招かれ、藩主の上覧のもと、布引と対戦することになった。見ると、大男の布引にくらべて、浦之助は子供のような体格である。誰もが、「これは勝負になるまい」と思った。
ところがいざ始まると、浦之助はひらりひらりと身をかわし、布引に体をつかませない。
平戸藩主は感心して、「苦しゅうない。これへ、これへ」と、浦之助を座敷に呼び寄せた。そして、名器として知られる花活けを褒美としてあたえたあと、座敷に居並ぶ腰元を手で示して言った。
「この座にいる女のうち、そのほうの気に入った者を妻としてつかわそう。遠慮なく望みを述べよ」
浦之助は突然のことで当惑したが、ここで断わるのも失礼にあたる。そこで内心、「自分のような男に気位の高い美人はそぐわない。きっと仲むつまじく連れ添うこともできまい」と考え、居並ぶなかでもっとも不美人の腰元を所望した。
即座に希望は受け入れられ、平戸藩主は腰元を浦之助にあたえた。ふたりは夫婦となった。
もっとも不美人を選択するという佐藤浦之助の心理や考え方が面白い。腰元にしてみれば、本人の意向はまったく無視されて夫婦になるのがきまったことになるが、当時の結婚では珍しいことではなかった。
その後、きっと仲むつまじい夫婦になったであろう。