山川に囲まれたのどかな街で発生したおぞましい事件発覚の3日前、容疑者はすでに警察と接触していた。
「人を殺した」。任意同行を求められ、署で事情を聴かれた際、そう話したという男。5月16日の深夜、「兵庫県高砂市内の路上で寝ている男がいる」という通報を受け、警察官が駆けつけ、事情を聴いたその相手こそが大山賢二容疑者(42)だった。
しかし、そのまま解放され、その後、事件が発覚する。
ここまでをみれば、疑問ばかりが浮かんでしまう…。なぜ逮捕しなかったのか。報道各社はこぞって「警察の失態」という文脈で報じた。だが、事はそれほど単純ではない。
「具体性がなければ虚言と判断する」——元警官が語る現場の論理
「『人を殺した』と言ってきた人がいたとして、『いつ、どこで、誰を』と聞いたときに『分からない』と答えたなら、虚言と判断する possibility が高い」
こう語るのは、元警察官で 『警察官のこのこ日記』(三五館シンシャ)の著者・安沼保夫氏だ。現場の第一線に立った経験を持つ同氏は、「人を殺した」との申告があった際に虚言か否かを判断する基準として「凶器の所持」や「返り血を浴びているような状況」の有無を挙げる。
証言を裏付ける、確たる“証拠”があれば、当然突っ込んで聴取する。逆にいえば、そうした具体的な裏付けが何もない状態では、「人を殺した」という発言だけをもって身柄を拘束することは難しいという。
今回の事件でも、この論理は一致している。
署員は信ぴょう性が低いと判断し、17日未明、警察車両で本人の実家付近まで送り届けた。そもそもこの時点では殺害事件は明らかになっていない。
マニュアルはあるのか?——「迷ったら上司に相談する」という現実
それでも、「なぜ」の疑念はぬぐえない…。こうした場面における判断基準について、警察には具体的なマニュアルが存在するのだろうか。
安沼氏は「具体的なマニュアルは見たことがない」と率直に語る。判断に迷った場合は、上司や刑事課員などに相談するというのが実態だという。
これは一見、心もとない話に聞こえるかもしれない。しかし、現場で遭遇する状況は千差万別であり、すべてをマニュアルで網羅することはそもそも不可能だ。人の発言の信ぴょう性を判断するという作業は、高度に文脈依存的であり、経験と勘が問われる領域でもある。
もっとも、だからこそ「誰に相談するか」「職場の雰囲気がどうか」という要素が、判断の質に直結してしまう。
安沼氏自身も、警察官になりたての頃に経験した不審者対応のエピソードを次のように振り返る。
「警察官になりたての頃、物陰から私のことをじっと見てくる不審者がいたので、応援要請しました。駆けつけたパトカー勤務員らと職務質問をしたところ、特に何も見つからず、ただの不審者で終わりました。
会話から軽度の知的障害を持っている印象を受けました。そのときに駆けつけた先輩方からは『こういうこともあるよ、気にすんな』と言ってくれる人もいれば、『ただのMD(精神障害者を示す警察の隠語)だろ、こんなんでいちいち呼ぶなよ』という人もいました。もし後者のような先輩ばかりだったら、私は仕事に消極的になっていたと思います」
「失態」なのか、「失敗」なのか——言葉の選び方が問う責任の所在
今回の事件をめぐる、「警察がみすみす取り逃した」という論調の報道について、安沼氏は明確に言葉を分けて次のように論じる。
「ろくに話を聞かなかったのであれば『失態』だと思う。署に同行して、刑事課員や当直責任者も交えて聴取した上で虚言と判断したのであれば、『失敗』だと思う。ただ、どちらともいえない状況にあって、報道の仕方にはネットやメディアの底意地の悪さを感じました」
「失態」と「失敗」は似て見えるが、意味するところは異なる。失態は手続きそのものを怠ったことであり、失敗は正当な手続きを経た上での判断の誤りだ。今回は少なくとも、署に任意同行し、事情を聴取し、所持品の確認も行っている。
その上で「信ぴょう性が低い」と判断したのであれば、それは結果として誤りだったとしても、プロセスとして一概に「失態」と断じることはできないだろう。
「公開捜査」に踏み切ったのはなぜか——二次被害防止という判断
5月24日、警察は全国に公開指名手配に踏み切った。容疑者が特定できても定住先が不明な場合、最初から公開捜査を視野に入れるケースもあり得る。今回はまさにそのケースだった可能性が高い。
公開捜査にはメリットとデメリットが存在する。メリットは第二の被害を防げること。デメリットは証拠隠滅の可能性だ。凶器で人を殺害した疑いのある人物が凶器を持ったまま逃走している可能性がある場合、その顔や人相を周囲に知らせることは防犯上不可欠だ。
「心理的安全性」のなさが命取りになる
安沼氏は「心理的安全性」という概念にも言及した。職場などで自分の意見や気持ちを安心して発言できる状態のことだ。今回の事件を考える上で欠かせない視点といえるだろう。
かつて警視庁本部を警戒中の機動隊員が、特別指名手配されていたオウム真理教元幹部が出頭してきたにもかかわらず追い返すという事案があった。対応者が「悪質ないたずら」と判断したためだ。なお、その元幹部は事件から約17年後の2011年12月に警察に出頭し逮捕、懲役9年の刑が確定し服役している。
安沼氏はこれを「明らかな失態」としながらも、「心理的安全性の確保されていない職場環境であれば、誰でも同じ過ちをする可能性がある」と述べている。
積極的に動いて「余計なことをした」と叱責される職場では、警察官は萎縮する。不審な言動に対して「これは深刻かもしれない」と上司や刑事課員に相談できる雰囲気があってこそ、判断の精度は高まる。
今回の事件が仮に「失態」の側面を持つとすれば、それは個々の警察官の能力の問題というより、組織として安全に判断を持ち寄れる環境が整っていたかどうか——その問いへと行き着く。
残された課題——捜査が明らかにすべきこと
今後は、犯行前後の動きの特定、凶器の発見、そして動機の解明が大きな焦点となる。
大山容疑者はかつて被害者一家の隣人だったとされる。接点がどこにあり、何が事件を引き起こしたのか——それを明らかにすることが、この事件の全貌を理解する上で不可欠だ。
事件発覚から10日以上が経過した現在も、大山容疑者の行方はつかめていない。新宮町内の全6小中学校では集団登下校が続き、地域の日常は今もなお、その影を引きずっている。
一つの判断の難しさが、取り返しのつかない結果を招いた可能性を前にして、問われるべきは「誰が悪いか」ではなく、「次にどう防ぐか」だ。

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