「統一教会の解散命令」最高裁確定。「信教の自由」を一切議論せ...の画像はこちら >>



  



 統一教会の解散命令裁判で、6月23日、最高裁は教団の特別抗告を棄却した。これによって解散は確定した。

教団の信者たちはこれから名誉回復と復活に向けての終わりの見えない闘いを強いられることになり、私たち外部の支援者も何か協力をすることになるだろうし、海外の人権活動団体への訴えも本格化すると思われるが、一つの締めくくりとして、最高裁の決定の概要とその問題点を伝えておく。



 決定は五頁ほどの短いものだ。担当したのは第三小法廷だが、既にBEST T!MESで三回にわたって論じたように、この小法廷に属する沖野眞已判事が、東大教授時代に全国弁連のセミナーで過激な反統一発言をしていたことが問題になった。その沖野判事の名前は入っていなかった。忌避申立は一日で棄却したものの、流石に沖野氏の名前を連ねたら、公平性が疑われると判断したのだろう。



 教団側は、憲法学者等の意見を参照して、宗教法人の解散は単に法人格を喪失して税制上の優遇を失うだけでなく、信者等の信仰生活に多大な影響を及ぼすことを主張したが、これに対し、最高裁はその言い分を聞いているようで、事実上無視する判断をしている。曰く、





 「解散命令は、宗教法人の法人格を失わせる効力を有するにとどまり、信者の宗教上の行為を禁止したり制限したりする法的効果を一切伴わないものであるけれども、宗教法人の解散命令が確定したときはその清算手続が行われ(…)、宗教法人に帰属する財産で礼拝施設その他の宗教上の行為の用に供していたものも処分されることになり(…)、これらの財産を用いて信者らが行なっていた宗教上の行為を継続するのに何らかの支障を生ずることがあり得ることから、憲法の保障する精神的自由の一つとしての信教の自由の重要性に思いを致し、憲法がそのような規制を許容するものであるかどうかを慎重に吟味しなければならないというべきである」



 



 出だしと文末が食い違っている変な文である。では、実際に「憲法の保障する精神的自由の一つとしての信教の自由の重要性に思いを致し、憲法がそのような規制を許容するものであるかどうか慎重に吟味」しているかというと、そんな高尚な議論は一切していない。



 近年、高額献金による“被害”が件数・金額とも激減していることを認めながら、教義を“根拠”に、ほとぼりが冷めたらまた不当な献金を信者等に要求する恐れがあり、そのための実効性のある措置が取られていない、という高裁の論理ーーBEST T!MESに掲載の「統一教会に解散を命じた東京高裁はまさに〝異端審問〟だった。異議を唱えない「劣化した法律家たち」こそ亡国の徒」を参照ーーをそのままなぞって、だから解散不可避と主張しているだけだ。献金の総額が減り、被害の申立てが減っているというのは、普通に考えれば、実効的措置が取られているということではないのか?



 



 そのうえで、信者に対する影響について、



 



 「本件解散命令によって宗教団体である世界平和統一家庭連合やその信者らが行う宗教上の行為にも何らかの支障を生ずることが避けられないとしても、その支障は、解散命令に伴う間接的で事実上のものであるにとどまる(…)。また、解散命令は宗教法人の法人格を失わせる効力を有するにとどまり、法人格を有しない宗教団体として存続することは妨げられないのであるから、本件解散命令が宗教的結社の自由に及ぼす影響についても、同様に間接的で事実上のものであるということができる」



 



 と述べて、高裁の判断は憲法違反ではないとしている。

「間接的で事実上の」というのは、どういうことか? オウム真理教の解散命令の時に使われた言葉であるが、当の決定を見ても、一切説明がない。幹部等が重大刑事事件を引き起こしたオウム真理教と、献金の額が問題にされている統一教会を比較すること自体がヘンだが、ごく普通に考えて、信者の信仰活動が事実上著しく制約されたら、信教の自由に対する侵害ではないのか? 最高裁は、法人としての統一教会が存続した場合、社会全体あるいは信者にとってどういう不利益が生じ、それが、解散した場合に信者たちが被るであろう信仰生活上の不利益を上回っているとどうして言えるのかまともに考えていない。思考放棄している。



 非訟事件であるがゆえに、信教の自由をめぐる重要な問題が、公開の対審法廷で審理されていない、宗教法人法の欠陥ではないかという教団側からの問題提起については、



 



(解散命令とは)「公益の確保の観点から、裁判所が所轄庁の請求により又は職権で当該宗教法人を強制的に解散するものであり、当事者の主張する権利義務の存否を確定することを目的とするものではないから、その性質は固有の司法の作用に属しない非訟事件についての裁判であるということができ、純然たる訴訟事件の裁判として口頭弁論を経ることを要するものということはできない」



 



 としている。要するに、通常の訴訟ではなく、所轄庁(文化庁)による行政的措置として扱うことが法律で決まっていて、当事者の権利義務を確定することを前提としていないから、これでいいのだ、と言っているだけである。憲法上の重要な問題として受けとめていない。結局、信者の信教の自由について本気で考えようとせず、法学を学びたての法学生の答案のようなひどい作文をしているのである。



 これが日本の最高裁の水準かと思うと、本当にがくっと来る。国際社会はこれをどう評価するだろう。



 



文:仲正昌樹

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