「近いんですが……いいですか?」
真夏の午後、70代くらいの女性が申し訳なさそうにそう言ってタクシーに乗り込んできた。行き先は300メートルほど先のマンション。
口の悪いSNSユーザーから、「そのくらい歩けばいい」とでも書かれそうな距離である。後部座席に腰を下ろすと、エアコンの風にほっとした表情を見せ、小さく「助かりました」とつぶやいた。

その姿を見ていると、「歩けばいい」の一言で済ませてはいけない事情があることを思い知らされる。

「ワンメーターだけ乗る客」は迷惑?配車アプリの普及で激変した...の画像はこちら >>

「ワンメーター客」に対してドライバーは…

「ワンメーター客は迷惑か否か」という話題は定期的に盛り上がる。筆者は10年以上、タクシー業界に携わり取材を行ってきた。「今日はワンメーターばかりだったよ」と苦笑するドライバーがいる一方で、「短距離でも気にしない」と話すドライバーも存在する。そして過激なところでいうと「近距離で乗るのはマナー違反だ」と決めつけるドライバーもいる。ドライバーに嫌な顔をされたとて、「料金を払っているのだから問題ない」という意見もあり、結局のところ結論は出ない。

実際のところ、現場はどうなのか。ぶっちゃけて言えば、「人による」が正解である。歩合制で働く以上、「もう少し乗ってくれたら売り上げになるのに」と思っても仕方がない。生活がかかっている以上、ごく自然な本音だ。

ドライバーからすると、「やっぱりロングのほうがうれしい」というのが本音ではないか。
一回の乗車が長ければ長いほど売り上げは伸び、短距離が続けば焦りも出る。ただ、その本音だけを切り取って、「ワンメーター客は迷惑」と決めつけることはできない。ドライバーが目の当たりにするのは、「楽をしたい人」ではなく、「歩けない事情を抱えた人」だからである。

それぞれにやむを得ない事情が

炎天下のアスファルトを避けるように乗り込んでくる高齢者、病院帰りで診察券を握ったまま深く息をつく男性、保育園帰りに子どもとベビーカーと買い物袋を抱えた母親、ヒールで足を痛めた女性、夕立から逃げ込むようにドアを開ける若者……誰も「ぜいたく」でタクシーを使っているわけではない。その日だけ、その数百メートルだけ、歩くことが難しかっただけのことである。彼らにとってタクシーは特別な乗り物ではなく、生活を支えるインフラになっている。

こうした乗客を見ていると、ワンメーター客は「街の健康診断」なのではないかと思う。元気なら歩き、少し疲れれば自転車を使い、それも負担になればタクシーを頼る。もちろん現実はそこまで単純ではないが、その背景には高齢化だけでは説明できない変化がある。

ここ数年の猛暑は、人々の行動を確実に変えた。気象庁が「命に関わる危険な暑さ」と呼びかける日が珍しくなくなり、健康のために歩いていた数百メートルが、今ではタクシーへ置き換わっているのではないか。ワンメーター客が増えたのは、人が弱くなったからでも、わがままになったからでもない。気候が変わり、ひいては暮らし方そのものが変わった結果である。
興味深いのは、若い世代の近距離利用も広がっていることだ。

みんな、時間を買っている。「数百円で徒歩10分を3分に短縮する」ことに抵抗を感じない人が増えたということだろう。動画は見たい時間に見られ、食事は玄関まで届き、買い物もスマートフォン一つで済ませられる時代である。私たちは知らないうちに、「時間」と「手間」をお金で買う暮らしを当たり前のものとして受け入れてきた。タクシーも、その延長線上にある。乗客が料金を払っているのは、移動する距離ではなく、歩く時間を短縮し、体力を温存し、その日を少しだけ楽にするという価値なのだ。

配車アプリの登場でかつての価値観が一変

ドライバーの本音は今もひとつではない。ただ、取材を続けるなかで確実に変わってきたものもある。以前なら「今日はハズレだった」の一言で片づけられていた1回の乗車を、そう考えないドライバーが増えているのだ。タクシーという仕事そのものが、「運任せ」から「積み重ね」へと変わってきたからである。

かつての営業は「流し」が中心だった。どこへ行くか分からない客を拾い、長距離なら運がよく、近距離なら運が悪い。
ある意味、くじ引きのような世界だった。だからこそ「次こそロングが来るかもしれない」という期待が生まれ、ワンメーター客が外れくじのように感じられたのだ。

配車アプリが普及した今は、その前提が崩れ始めている。乗車場所も降車場所も事前に分かることが多く、短距離と承知のうえで迎えに行くケースも珍しくない。ワンメーター客を嫌う最大の要因だった「過度な期待」を、ドライバー自身が抱かなくなったのだ。利用履歴やドライバー評価が積み重なることで、1回1回の営業よりも、高い評価を維持することのほうが重要になってきている。

タクシーは「一発勝負」の仕事から、「積み重ね」の仕事へと少しずつ変わっている。売上額より乗車回数を重視する会社もあり、回数さえこなしていれば売上が多少悪くても咎められない。近距離だからと態度を変えることは、むしろ自分の評価を下げる行為になりかねない。そんな感覚を持つドライバーも増えてきた。

乗客が料金を払っているのは…

もちろん、現場では今でも「短距離は勘弁してほしい」という本音は消えない。歩合制という仕組みで働く以上、それを否定することはできない。
それでも、タクシーという仕事を長く見ていると、「ワンメーター客」という言葉自体が、少しずつ時代に合わなくなってきているようにも感じる。乗客は距離ではなく、「移動できた」という価値に料金を払っている。ドライバーもまた、距離ではなく「次につながる仕事」を積み重ねる時代になりつつある。駅からマンションまでわずか数百メートルの乗車も、猛暑の午後に病院から自宅まで走る数分間も、終電を逃して数十キロを走る深夜のロングも、本質的には同じサービスなのだ。

タクシーは、人を運ぶ仕事ではない。その人が、その日、その瞬間に抱えている事情を運ぶ仕事でもある。高齢化が進み、猛暑が日常となり、「時間を買う」ことが当たり前になった街で、ワンメーター客が映しているのは、ケチな利用者でも、効率の悪い営業でもないのかもしれない。車窓から見える景色は昔と変わらなくても、後部座席に座る人々の事情は、確実に変わってきた。

<TEXT/二階堂運人>

【二階堂運人】
物流ライター。ライター業の傍らタクシードライバーとして東京23区内を走り回り、さまざまな人との出会いの中から、世の中の動向や世間のつぶやきなど情報収集し発信する。また、最大手宅配会社に長年宅配ドライバーとして勤務した経験とネットワークを活かし、大手経済誌のWEB版などで宅配関連の記事も執筆する。タクシー・宅配業界の現場視点から、「物」・「人」・「運ぶ」・「届ける」をそれぞれハード(荷物・人)だけではなく、ソフト(心と気持ち)の面を中心に記事を執筆中。
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