「ある香りから特定の記憶が呼び起こされる」といった経験をしたことはないだろうか。実は"匂い"がもつ特徴のひとつとして、過去の出来事と結びつきやすいという性質がある。

かつてSNSを中心に話題を呼んだシンガーソングライター・瑛人氏による楽曲『香水』も、その匂いによる効果を題材にした作品のひとつだ。

 そんな"匂い"がもつさまざまな力を生物学的な観点から紐解くのが、今回紹介する書籍『匂いが命を決める──ヒト・昆虫・動植物を誘う嗅覚』(亜紀書房)。著者のビル・S・ハンソン氏はスウェーデン出身の神経行動学者で、昆虫の嗅覚に関する研究に力を入れてきた人物である。

 ハンソン氏曰く、すべての生物にとって嗅覚とは「周囲の状況を理解したり、たがいにコミュニケーションを取ったりするため」のものだという。その一例として挙げられるのが、キクイムシの生態だ。

 キクイムシは体長数ミリ程度の小さな生き物だが、樹齢100年の巨木でさえも数週間で枯らしてしまうほどのパワーをもつことで知られる。

「木のそれぞれの種に、最低一種類のキクイムシがいるため、キクイムシの種は何千種類もある。その小さな触角でさまざまな種類の匂い分子を検知することによって、おたがいを認識したり、宿主とする木を見きわめたりしている」(本書より)

 小さなキクイムシが巨大な木を攻撃する方法のひとつが、"仲間を呼ぶ"こと。例えば1匹のオスのキクイムシがある樹木へ攻撃を仕掛ける際、樹皮に小さな穴を開けるのと同時に"匂い"の信号を用いてメスの個体に交配を呼びかける。

 信号に引き寄せられたメスがオスの個体と無事に交配し終えると、2匹はさらに仲間を呼び寄せるため多くの集合フェロモンを放出。するとそこへ別のキクイムシが集まり、同じように樹皮に穴を開けて交配をはじめる。

「そして同じことが何度も繰り返される。

やがてキクイムシは膨大な数に膨れ上がり、木はついに彼らの大規模攻撃から身を守りようがなくなる。もはやこれまで、である」(本書より)

 キクイムシの匂いを用いたコミュニケーションは、これだけでは終わらない。交配を終えたメスが樹皮の下に大量の卵を産み付けている間、オスはそれまでと異なる匂い物質を放出。この匂いは、樹木への攻撃が最終段階に入ったことを知らせる停止信号の役割を持っている。つまりこの匂い物質によって、今度は仲間に対し「この木は"満員"である」と周知できるというのだ。

 なおハンソン氏によると、"満員"になったことをキクイムシが理解するプロセスについて詳しいことはまだよくわかっていないのだそう。とはいえ小さな虫が樹木を攻略し命をつないでいく過程において、匂いや嗅覚といった要素が重要な役割を担っているのは事実だ。「匂いが命を決める」とは、まさにこのことだろう。

 キクイムシの営みと"匂い"が密接に関わっているのと同様に、私たち人間の世界においても嗅覚を通じた体験はさまざまな場面で影響を与える。

「嗅覚は常に分析しつづける知覚だ。食べられそうな物の品質を吟味し、周囲に危険が潜んでいないか調べる一方で、イチゴを食べたときやお気に入りのマルベック・ワインを飲んだとき、恋人の腋の下に身を寄せたときの喜びに繊細な色合いを添える。

もしも嗅覚が人の生存に重要な役割を担っていないのなら、なぜ鼻や鼻孔が顔の真ん中に陣取っている必要があるのか? そう、嗅覚はいくつかの状況で重要な役割を果たしているのだ」(本書より)

 人間が匂いから分析できる要素は、食べ物の鮮度や環境の変化だけに限らない。

過去の多くの研究から、人間は相手の匂いから"不安・恐れ"といった情報を感じ取ることができることも示されている。

「いくつかの実験で、被検者にコメディ映画やホラー映画の一部を観せたあと、腋の下の汗を採取し、その後別の被検者に汗が染み込んだガーゼの匂いを嗅がせて反応を測定する方法が採用された。

たとえばある実験からは、志願被検者には、『楽しんでいる』男性と『恐れを感じている』男性の汗の匂いを偶然以上の確率で識別できることがわかり、少なくとも人は不安や恐怖に関連した化学信号を出している可能性があることが示唆された。さらには、わたしたち人間は、どうやらその信号を検知することもできる、ということも」(本書より)

 現代を生きるうえで、嗅覚からの情報を根拠に他者とコミュニケーションをとる機会は少ないかもしれない。しかしハンソン氏曰く、私たちは普段から無意識のうちに周囲の"匂い信号"を受け取り、分析した結果を意思決定や行動に反映させている。

 想像以上に奥深い"匂い"の世界。本書を読み解くことで、生き物にとっての嗅覚の重要性を再確認できるのではないだろうか。

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