フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。
リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○写植への社会的注目集まる

ここでいったん、時計の針を巻き戻そう。
石井茂吉による新しい書体「細明朝体 (のちの石井細明朝体LM-NKS)」が1951年 (昭和26) ~1956年 (昭和31) にかけて刊行された平凡社『児童百科事典』ではじめてその姿を世にあらわしたことは、前回 (第87回【茂吉】新しい原字) で書いたとおりだ。

平凡社創業者の下中彌三郎は『社会科事典』を1948年 (昭和23) 11月から刊行開始し、これが成功したことを皮切りに、『家庭科事典』『職業科事典』(いずれも1949年刊)など、写真植字組版とオフセット印刷による新企画をつぎつぎと出版した。

ことに写真植字による初の本格的組版の出版物だった『社会科事典』は、印刷業界の注目を集めた。印刷会社の集まりである印刷同友会は、同書の刊行が始まって約3カ月後の1949年 (昭和24) 2月15日、当時、銀座にあった印刷図書館 (現在は中央区新富) を会場に「写真植字は活版にとってかわるか」をテーマにした討論会を開催した。

講師として招かれたのは、写真植字機研究所社長 石井茂吉、東京印書館専務取締役 和田栄吉、東京印書館常務取締役 高橋周兵衛、凸版印刷 浅野長雅の4名。凸版印刷の技術課長をつとめていた山岡謹七の司会で、(1) 写真植字機の長所、(2) 写真植字機に対する抱負、(3) 設備費、能率、技術、(4) 写真植字機は活版にとってかわる可能性があるかという順序で進められた。出席した4名がそれぞれ講師となってこれらの問題について説明がなされたあと、出席者による活発な質疑討論がおこなわれた。会場には、写植に関心をもつ印刷会社の技術者が40人以上出席し、満員の印刷図書館会議室は熱気に包まれた。[注1]

のちに東京印書館の社長となる下中彌三郎の三男・下中直也は、この会のことをこう語っている。

〈その当時の業界に衝撃を与える会であり、戦後、写植が社会に与え出した影響のはじまりだといえる〉[注2]

茂吉も同様の感想をもったようだ。
彼はこの会の企画を聞き〈写植がやっと活字のまま子の位置から脱した〉と思った。同時に、意欲的な写植ユーザーたちの努力あってこそこうした注目を集めたのだと、彼らの努力に感謝し、同友会がこうした企画で写真植字機を積極的に支援してくれたことをありがたく思った。それで茂吉は討論会当日、金一封を用意して会場に赴き、会の終了後に同友会に寄付したのだった。[注3]

〈散会のあとで石井茂吉氏から金一封を会にくれた。あとであけたら一万円入っていた。催しをして金を貰ったのはこれが初めてであっただけに、大いに驚きもし、喜びもしたのだった〉
『印刷同友会20年史』には、驚きとともにそんなふうに綴られている。[注4] 義理堅い茂吉らしいエピソードである。
○『児童百科事典』の新機軸――MC型写植機の使用

下中彌三郎が東京印書館で写植組版とオフセット印刷をおこない、平凡社からつぎつぎに事典を刊行したのは、印刷業界の熱い視線がこんなふうに写植に注がれるようになってきた時期だったわけだ。

こうしたなか1951年 (昭和26) から刊行開始した『児童百科事典』(平凡社) は、編集・印刷上の工夫と技巧をさまざまに凝らした出版物だった。ひとつは、石井茂吉による均整のとれたあたらしい書体「細明朝体」を使用したこと。もうひとつは、写真植字機による本文に横組みを採用し、全ページをオフセット印刷2色刷りにしたことなどだ (下中彌三郎はこのために東京印書館にB全オフセット自動2色印刷機を導入した)。こうした工夫が評価され、この事典は第10回毎日出版文化賞、第3回産経児童出版文化賞、文部大臣奨励賞などの各賞を受賞した。
[注5]

これより前に平凡社から出版された『社会科事典』『職業科事典』『家庭科事典』などが縦組みだったのに対し、『児童百科事典』は横組みだった。そこにもひとつの新機軸がある。実はこれは写真植字機研究所が戦後つくっていたA型機ではなく、おそらくMC型という、信夫が開発したあたらしい写真植字機で組版されたものなのだ。この機械はA型機に比べ、横組みを能率的におこなえるものだった。

A型写植機は横組みを苦手としていた。それは茂吉自身も把握しており、1948年 (昭和23) の雑誌のインタビュー記事で〈現在の機械では縦組専用というわけではないが、横組にする場合はどうしても能率が落ちるので縦横同じ能率になるよう努力しようと思います〉と語っている。[注6]
○食い違う記述

本連載の読者のなかには、モリサワが1974年 (昭和49) に刊行した馬渡力 編『写真植字機五十年』を読んだ方もいるだろう。モリサワの社史のひとつともいえるその書籍には、「MC型写真植字機が最初に使われたのは、1955年 (昭和30) から刊行開始した平凡社『世界大百科事典』の2巻から」と書かれている。筆者もそうなのだと思っていた。『東京印書館の50年』(東京印書館、1998) にも同様に書かれている。[注7]

〈この戦後初の『世界大百科事典』は、わが国に石井文字とMC型写植機による初めての本格的文字組版とオフセット印刷による事典の誕生をもたらした〉

しかし石井文字とMC型写植機による最初の出版物は、『世界大百科事典』ではなく『児童百科事典』なのではないか。調査を進めるにつれ、筆者はそう思うようになった。
それは、単なる推測ではなく、平凡社にかんする資料――『芳岳 やさぶろ探求雑誌 No.7』下中弥三郎刊行会、1962年 (昭和37) 4月、『下中彌三郎事典』平凡社、1965 (昭和40)、『月刊印刷時報』(476) 所収の下中直也「写植機第1号は成増で組み立て」佐藤行雄「青春の血を燃やした」印刷時報社、1984年 (昭和59) 2月、『平凡社百年史【別巻】下中彌三郎と平凡社の歩み』平凡社、2015――などにそう書かれているからである。[注8]

とくに『芳岳』『下中彌三郎事典』にそのことを書いた和田栄吉、そして『月刊印刷時報』に寄稿した下中直也と佐藤行雄は、『児童百科事典』の写植組版とオフセット印刷が東京印書館でおこなわれたとき、その現場にいた人たちだ。たとえば下中直也はこう書いている。

〈MC型による『児童百科事典』(26年2月) は細明朝を使用し、写植文字の画期的なものとして評価を高めた。この児童百科では、出版のあらゆる賞を受賞し、写植に対する考え方を一変させる影響を与えた〉(太字は筆者による) [注9]

他にも来栖良夫「下中彌三郎と百科事典 2 平凡社百科事典出版50年史」『月刊百科』(1968年3月号 No.66、平凡社) においても、MC型の第一作品は『児童百科事典』だと書かれている (p.14) 。

一度や二度であれば、その執筆者のまちがいかもしれないが、MC型写植機によって最初につくられた出版物が『児童百科事典』だという記述が、当時の現場を深く知る複数の人たちによって繰り返しおこなわれていることをふまえると、まちがいや勘違いとは思えない。

筆者が見るに、MC型写植機の第一作品を『世界大百科事典』としたのは馬渡力 編、モリサワ刊行の『写真植字機五十年』1974年 (昭和49) からではないか。『東京印書館の50年』は参考文献に同書を挙げているが、平凡社や写研の資料は挙がっていないため、『写真植字機五十年』の記述にならってまとめられたものだとかんがえられる。

下中彌三郎や平凡社と写真植字機にかんしては、調べれば調べるほど、写研、モリサワ、平凡社、東京印書館の各社の資料で年代がすこしずつずれたり、記述内容が異なったりしている。とくに写研とモリサワの資料は、本件については他の項目と比べても視線の偏りがひどく大きい。文献を読めば読むほど、筆者が混乱してしまった所以だ。

本連載では次回以降で、下中彌三郎とその周辺にいた人物、平凡社の記述を基準にしつつ時系列を整理し、あらためて1940年代後半から1950年代前半の写真植字機、そして石井茂吉や森澤信夫にまつわる事柄を見直していこうと思う。

(つづく)

「石井太ゴシック (BG) 」に関する補足
前回 (第87回 【茂吉】新しい原字) の後半で「中ゴシック体の誕生」として、1950年代に入り既存の見出し用ゴシック体 (戦前に開発されたもの) が太すぎるため、細明朝体に合うゴシック体として中ゴシック体が開発されたことにふれた。

このなかで〈こうして1954年 (昭和29) に「中ゴシック体 (のちの石井中ゴシックMG-A-KS)」として文字盤が完成。それにともない、戦前のゴシック体は「太ゴシック体 (のちの石井太ゴシックBG-A-KL)」に名称を変更した〉との記述に対し、以前から石井太ゴシックの大がな (KL) 小がな (KS) の具体的な年号や前後関係がわからず疑問に思っていたという読者から質問をいただいた。写研に確認し、前後関係を整理したので、ここに補足として掲載する。

・戦前開発されたのは、いまでいう大がな(KSではなくKL)であった。書体コードは最初は「BG」、1971年ごろから「BG-KL」、1975年から「BG-A-KL」と変遷した。
・BG-KS(小かな)は、大かなよりも後。1974年ごろの見本帳から掲載され始めた。
・石井ゴシックの他のウエイト (細ゴシック LG、中ゴシック MG) は、KSが先に開発された。太ゴシック (BG) のみKLが先となっている。石井太ゴシックは見出し用書体のため、当初、かなを大きくつくったのではないかとかんがえられる。

以上
(2026年6月29日 写研調査による)

※次回は8月4日更新予定です。


[注1] 20年史編纂委員会 編『印刷同友会20年史』印刷同友会、1961 pp.150-151 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2502773 (参照 2026年6月15日)、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.192-193
なお、『石井茂吉と写真植字機』p.193では石井茂吉の代理で裕子が出席したと書かれているが、印刷同友会の記録ではそのことが確認できなかったため、ここでは印刷同友会の記述に従い、出席者を石井茂吉としている。また、『石井茂吉と写真植字機』pp.192-193ではこの討論会を「印刷常識講座」と書いているが、『印刷同友会20年史』を確認すると「印刷常識講座」の開講は1949年(昭和24) 4月からで、討論会とは別企画である。ではなぜ『石井茂吉と写真植字機』では「印刷常識講座」の一環と書かれているのかというと、おそらく同書の執筆の際にも『印刷同友会20年史』を参照したのであろう。昭和24年の出来事全体のまとめとしてつけられた「印刷常識講座を中心に」という見出し内の小見出しとして「写真植字機の討論会」が書かれていることから (『印刷同友会20年史』pp.150-151 )、この討論会も同講座の一環であるとの勘違いが生じたのではないだろうか。

なお、印刷同友会は1940年 (昭和15) に〈ささやかな若い人のグループ〉として生まれた〈まち中の印刷小工場の若い二世、或は経営者から成り立った〉グループである。『印刷同友会20年史』p.1より

印刷図書館は、〈日本印刷学会の初代会長 矢野道也博士の主張に賛同された当時の大蔵省印刷局長 湯地謹爾郎氏を発起人として、印刷業界並びに関連業界各界から推薦された80名余の設立委員が中心となり、昭和22年(1947年)3月、「印刷技術の進歩発展を通して印刷文化に貢献すること」を目的として設立〉された、印刷およびその関連分野の専門図書館。現在の住所は、東京都中央区新富1-16-8 日本印刷会館3F
印刷図書館ウェブサイトより https://www.print-lib.or.jp/ (2026年7月5日参照)

[注2]「写植60年を振り返って」特集内 東京印書館社長 下中直也「写植機第1号機は成増で組み立て」、印刷時報社 編『月刊印刷時報』(476)、印刷時報社、1984年2月 pp.22-23、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11434939 (参照 2026年7月5日)

[注3] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.193、20年史編纂委員会 編『印刷同友会20年史』印刷同友会、1961 p.151 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2502773 (参照 2026年6月15日)

[注4] 20年史編纂委員会 編『印刷同友会20年史』印刷同友会、1961 p.151 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2502773 (参照 2026年6月15日)

[注5] 東京印書館50周年社史編纂委員会『東京印書館の50年』東京印書館、1998 pp.53-54

[注6] 「発明者の幸福 石井茂吉氏語る」『印刷』第32巻第2号、印刷学会出版部、1948年2月 p.25

[注7] 東京印書館50周年社史編纂委員会『東京印書館の50年』東京印書館、1998 p.40

[注8] 和田栄吉「印刷界と下中先生 (三)」『芳岳 やさぶろ探求雑誌 No.7』下中弥三郎刊行会、1962年 (昭和37) 4月、pp.13-14/『下中彌三郎事典』下中彌三郎伝刊行会編、平凡社刊、1965 pp.265-266 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2983112 (参照:2026年6月12日/「写植60年を振り返って」特集内 東京印書館社長 下中直也「写植機第1号機は成増で組み立て」pp.22-23、サトウ印書館社長 佐藤行雄「青春の血を燃やした」pp.21-22、印刷時報社 編『月刊印刷時報』(476)、印刷時報社、1984年2月 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11434939 (参照 2026年7月5日)/『平凡社百年史【別巻】下中彌三郎と平凡社の歩み』平凡社、2015 p.202

[注9] 「写植60年を振り返って」特集内 東京印書館社長 下中直也「写植機第1号機は成増で組み立て」p.23 印刷時報社 編『月刊印刷時報』(476)、印刷時報社、1984年2月、 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11434939 (参照 2026年7月5日)

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
「発明者の幸福 石井茂吉氏語る」『印刷』第32巻第2号、印刷学会出版部、1948年2月
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
東京印書館50周年社史編纂委員会『東京印書館の50年』、東京印書館、1998
下中彌三郎伝刊行会編『下中彌三郎事典』平凡社、1965
和田栄吉「印刷界と下中先生 (三)」『芳岳 やさぶろ探求雑誌 No.7』下中弥三郎刊行会、1962年 (昭和37) 4月
『平凡社百年史【別巻】下中彌三郎と平凡社の歩み』平凡社、2015
下中彌三郎「士魂商才その二 印刷業と私」『月刊印刷時報』昭和34年1月号 (第176号) 、印刷時報社、1959
「写植60年を振り返って」特集 印刷時報社 編『月刊印刷時報』(476)、印刷時報社、1984年2月 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11434939 (参照 2026年7月5日)
20年史編纂委員会 編『印刷同友会20年史』印刷同友会、1961 pp.150-151 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2502773 (参照 2026年6月15日)
印刷図書館ウェブサイトより https://www.print-lib.or.jp/ (2026年7月5日参照)

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
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