「判断の基準は“嫌じゃないか”どうか」「何事も一朝一夕ではどうにもならない」。世界を制した男の哲学は、驚くほどシンプルだった。


 2021年公開の映画『ドライブ・マイ・カー』で第94回米アカデミー賞®国際長編映画賞を受賞するなど、映画ファンのみならず、その名を知られている濱口竜介監督(47)。


 日本人として、あの黒澤明以来となる、米アカデミー賞®と世界三大映画祭のすべてで受賞を果たした監督でもある。さらに、公開になった新作『急に具合が悪くなる』は、5月に開催された第79回カンヌ国際映画祭にて、主演のヴィルジニー・エフィラと岡本多緒が2人揃って最優秀女優賞を獲得(岡本は日本人初の快挙)し、大きく報道されたばかりだ。


 そんな世界の第一線を走り続ける濱口監督の仕事論、人生哲学とは。


 ──以前『偶然と想像』(2021)でお話を伺った際は「40代は短編をライフワークにしたい」とおっしゃっていました。ですが『ドライブ・マイ・カー』『悪は存在しない』と長編を発表され、今回の『急に具合が悪くなる』は3時間16分の長編です。


「確かに言いましたね(笑)。でもまだ40代は残っていますし。今回これだけ長いものを撮ったので、また短編をやりたいという気持ちがむしろ強まっています」


 ──監督としても予想外の展開だったともいえるわけですね。当初の予定とは違っても「進めてみよう」と考えた判断軸は?


「“嫌じゃないか”どうかです。私は嫌なものは『やりたくない』とはっきり思う。だから嫌じゃないということは、それだけでも強烈な手がかりなんです。

『嫌だ』という違和感には、このままいったらきっと良くないことが起きるという匂いがする。それを無視した結果、『やっぱりこうなったか』と思う経験も、実際にありましたから」



本当に「変えたい」なら10年はかかる

 ──商業映画デビュー作となった『寝ても覚めても』(2018)以前から多くの作品を手掛けられており、海外でも評価を得ていました。とはいえ、商業映画デビューに至るまでの期間、焦りはありましたか。


「全くなかったわけではきっとないのですが、ある程度は楽観的でした。他者からはくすぶっているように映る期間だとしても、自分にできうる限りの努力はしているという自負はあったので、これでダメならダメだろうと」


 ──なるほど。


「何の問題も感じずヘラヘラ過ごしていたわけではなくて、その時々の問題を、本当に少しずつ解決してきた。必要なのは毎日の着実な変化です。今、自分が受けているような評価だけを見て『どうすれば映画祭に選ばれるんですか?』と聞かれることがありますが、何事も一朝一夕ではどうにもならない、ということは言えます。


 十数年にわたって映画を撮り続けた期間が必要だったとは思います。その質問に答えるなら、本当に変えたいのなら、最低10年はかかるということを受け入れるかどうかではないか、と思います」


 ──カンヌ、ヴェネチア、ベルリン、そして米アカデミー賞®と、国際的な評価を重ねてきました。ご自身の中で変わったこと、変わらないことはありますか。


「変わったのは、自分は知らないのに自分のことを知っている人が増えたとか。

そんな時に、どう振る舞っていいかわからないというのはありますね(笑)。ありがたいなと感じるのは、ある種のワガママみたいなものが通じるようになったことです。結局できあがるまでは自分の感性を信じてもらうしかない局面もあるので」


 ──評価、実績があると、大きな挑戦もしやすくなる。


「そうだと思います。今回も3時間16分の映画が許されたのは、今までの実績が加味されたのであろうと」



着想から約5年。監督を突き動かしたもの

 ──変わらないことは。


「家が狭いとか(笑)。まあ、それはそれとして。あまりに大きなものに巻き込まれてしまうと、自分の直感を通すということが難しくなります。先ほども少し話しましたが、自分の中での“これは違うな”という違和感は大切です。


 挑戦も必要だとは思いますが、そうした違和感をキャッチするためにも、自分の能力の限界を見極めて、明らかに限界を超えているようなものについては距離を置くようにしています」


 ──そんな監督が取り組んだ新作『急に具合が悪くなる』が公開になりました。がんを患った哲学者・宮野真生子と文化人類学者・磯野真穂の往復書簡集を原作に、介護施設ディレクターのフランス人女性と、日本人の舞台演出家の魂の邂逅を描いた作品です。

着想から5年の月日をかけ、監督にとって初の海外ロケ作品になりました。改めて、監督を突き動かしたものとは。


「原作の中で磨き抜かれた言葉のやりとりがあり、まずは単純に感動したわけです。その感動自体が大きな原動力になりました。そこから、松田(広子)プロデューサーに『濱口さんにしかできません』と言われ、『じゃあやってみようか』みたいな気持ちに(笑)」


 ──そこも「嫌じゃない」という直感、ひいては自分自身を信じたということですか?


「自分というか、あらゆる人の直感を信じています。基本的には考えるより正しいものだと。どちらかというと、計画を維持するために直感を歪めてしまうことが問題です。誰かが違和感を持っているのに、それを無視してプロジェクトが進行してしまうと、その違和感はどこかで花開いてしまう。


 特に映画は集団芸術ですから、スタッフ、キャスト、みんなが違和感なく、直感的に動けるような状況をどう作っていくかということが大事だと思っています」


▽映画『急に具合が悪くなる』は6月19日よりTOHOシネマズ 日比谷ほかにて全国公開。


(聞き手=望月ふみ)


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