ワールドカップの開幕を目前に控え、いま不穏な空気が漂っています。

 日本代表の佐野海舟選手を巡る、過去の不同意性交事件の議論が再燃しているためです。


ワールドカップ日本代表に選出される

 佐野選手は2024年7月、知人男性らと共謀して30代女性に性的暴行を加えた疑いで逮捕されました。

 その後、示談が成立して不起訴処分となり、森保一監督もこの事件を本人の「ミス」と表現。「本人にも反省の意思が見える」として代表への復帰を許可し、今回のワールドカップメンバーにもその名を連ねることになりました。

 しかし、事態は国内だけで収まりませんでした。インドの英字新聞をはじめとする海外メディアや、世界中のサッカーファンがSNS上で改めてこの件を激しく問題視。さらに、森保監督が出演する「Google Pixel」のCMに対しても批判が殺到するなど、大炎上へと発展しています。

 なぜ過去の事件がこれほどまでにぶり返してしまったのでしょうか。その理由を、いくつかの視点から考えてみたいと思います。

他の競技に比べ「大甘」な処置

 1つ目の理由は、他のスポーツ競技における不祥事への処置と比べた際、今回の対応が際立って異質に見える点です。

 記憶に新しいところでは、プロ野球・読売ジャイアンツの阿部慎之助前監督のケースが挙げられます。娘への暴行容疑で逮捕された際、翌日の会見で代理人によって「ここまで大がかりなけんかは初めて」「父とはすでに仲直りしている」などと綴られた娘の手紙が読み上げられ、後に世間で擁護論が生まれるきっかけにもなりました。

 それでも読売グループは、「逮捕された」という事実そのものを重く受け止め、辞任を受け入れる決断を下しています。

 また、バレーボール界でも厳しい対応が見られました。代表合宿中に大麻所持の疑いで逮捕された佐藤駿一郎選手に対し、日本バレーボール協会は逮捕当日の5月28日付で、即座に日本代表登録を抹消する処置を取りました。


 これらと比べるとサッカー界の対応がいかに「甘い」ものかが見えてきます。もし佐野選手が「身に覚えがない」「冤罪だ」と訴えているのであれば話は別ですが、本人も「甘さがあった」と事実関係を認めています。

 つまり森保監督は、故意による犯行だと本人が認めている性加害について、それを「ミス」という軽い言葉で片付け、再び代表ユニフォームを着せているのです。

 これは、どんなに贔屓目(ひいきめ)なしに見ても、相当に寛大な、悪く言えば「大甘」な処置と言わざるを得ません。海外のファンはもちろん、日本のサッカーファンからも強い疑念や拒絶反応が生まれるのも仕方ないことだと言えるでしょう。

森保監督の“配慮に欠けた言葉のチョイス”

 そこで改めて振り返りたいのが、当時の森保監督の記者会見での言葉です。あのタイミングで、なぜ監督は世論以上に厳しい態度で本人の非を認め、たしなめることができなかったのでしょうか。監督は会見で、次のように語っていました。

「チームの一員を家族と考えた時に、指導者として選手と向き合う中、1人の人間としてミスを犯した選手をそのまま社会から放任するのか、サッカー界から葬り去るのかということに関しては、再チャレンジする道を家族として与えることの方がいいのではないか」(『日刊スポーツ』2025年5月23日)

 この発言には、決定的な問題をはらんだ表現が2つあります。それが「再チャレンジ」と「家族」です。

 まず、性加害という被害者の尊厳を深く傷つける事件に対して、安易に「再チャレンジ」という言葉を使うこと自体、被害者女性への配慮を著しく欠いています。

 もちろん、監督が個人的に佐野選手に強い思い入れを抱き、救いたいと願うのは自由かもしれません。しかし、日本代表監督という立場は、極めて公的な職業です。
その発言は、社会にどのようなメッセージとして受け取られ、どんな影響を及ぼすかまで計算されていなければなりません。

 そう考えたとき、「再チャレンジの道を許したい」と公言したことは、あまりにも配慮に欠けた言葉のチョイスだったと言わざるを得ません。

身内をかばう印象を与えた言葉

 さらに危ういのが「家族」という表現です。この言葉は、明確に「身内(内側)」と「他人(外側)」を切り分ける壁を作ってしまいます。

「自分と佐野選手の間には強い絆があるから守る」という身内への情愛は、一見温かく見えるかもしれません。しかしそれは裏を返せば、事件の全体像を客観的に見る視点や、被害者という「他者」が置き去りにされているように映ります。

 だからこそ、身内をかばっているような印象しか与えることができなかったのです。

 今回このように問題が再燃してしまったのは、しかるべきタイミングで佐野選手の非を厳しい言葉で認めさせ、社会的なケジメをつけさせなかったツケが回ってきたからではないでしょうか。

 傷ついた身内をただかばうことだけが優しさではありません。時には厳しい姿勢を示して犯した罪の重さと向き合わせることこそが、本当の意味での「指導者の優しさ」だったはずです。

たとえ結果を残しても、まずい対応は修正されない

 確かに、佐野選手のプレースタイルや実力が、現在の代表チームの戦術に不可欠だったという技術的な事情はあるでしょう。

 しかし、スポーツとはただ試合に勝てばそれでいいというものではありません。ワールドカップは、単に勝敗を競うだけではなく、国の代表がどのような価値観を背負っているかも世界中から見られる場だからです。


 もし日本代表がこのままワールドカップに臨み、仮にベスト8、あるいはベスト4進出という歴史的な快挙を成し遂げたとしても、この問題に対するまずい対応までもが修正されるわけではないのです。

<文/石黒隆之>

【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4
編集部おすすめ