■10人中10人を見守るということ
トヨタは毎年、長野県の蓼科高原の聖光寺で交通安全の法要を行うとともにタテシナ会議という「交通事故死ゼロ」を目標とするセッションを開いている。2025年のタテシナ会議に参加したわたしはそこで、あいおいニッセイ同和損保の社長、新納啓介に会った。その後、彼には二度、インタビューすることになる。それは、同社が契約者の交通事故を20パーセント減らしたテレマティクス保険を開発したと聞いたからだ。
後のインタビューで新納はこう話していた。
「保険は見守りであり、人の支えになるものだと思う。僕は交通事故死をゼロにしたい。これは亡くなった豊田章一郎名誉会長、そして、現在の豊田章男会長が以前から言い続けていたことです。
私はタテシナ会議へ行くたびに、交通事故死をゼロにしようと決心します。そのために僕らができることは何か。
ところが、テレマティクス保険は違います。10人中、10人の方たちに見守るというサービスをお届けできるのです。僕らは事故に遭わない方たちも見守ります。この保険はトヨタさん、トヨタコネクティッドさんが、つながる車(コネクティッドカー)を開発したからこそできたことです。見守りは人を安心させます。人は見守られていれば孤独ではなくなる。
■チャレンジャーたから他社がやらないことをやる
新納は次のように続けた。
「我々はずっとチャレンジャーだった。僕が入った大東京火災も合併した千代田火災も中堅だった。合併してからも業界で4位が定位置……。チャレンジャーだったから何かしなくてはならなかった。同業他社と同じことをしていたら我々の存在意義はなくなるんです。そんな精神があったからこそ、テレマティクス保険のような、他社がやらない保険を全社でやっていこうとなったわけなんです。
『テレマティクス保険を進めていったら、我々はゲームチェンジャーになれるんだ』と言って、社員を鼓舞してきました。ゲームチェンジをするんだ、この業界を変えるんだ。すぐに売れる商品ではない。
■イギリスでヒットした「モーター一番」
同社はイギリスでも他社が出さないチャレンジングな自動車保険を出している。
「モーター一番」という名称のそれだ。扱っているのは欧州あいおいニッセイ同和損保である。この保険の特徴は日本語でサービス対応すること。
直近に日本の自動車保険契約を持っていて、この保険に入ろうとする人であれば日本の無事故記録または履歴を考慮してもらうことができる。日本から訪ねてきた家族や友人が同じ車に乗りたい場合は追加保険料を支払えば補償対象のドライバーとして認められる。
だが、海外駐在員で車を運転する人にとってはありがたい保険だ。なにしろ事故に遭った時、日本語で説明できるのである。事故でパニック状態になっている時、母国語でコミュニケートできるのは安心だ。わたしは生命保険も損害保険も金融エリートが自らの会社にとって有利な商品を作っているものと思いこんでいた。だが、「モーター一番」は海外の同胞を見守るために作った商品だ。
新納が率いる、あいおいニッセイ同和損保は義理と人情と浪花節を重んじるところのある会社に思える。
■なぜ乱暴な運転が変わったのか
さて、新納の話の続きである。
「モーター一番は駐在の方たちには人気があります。イギリスの道路はアメリカのように広くはないんです。細い道があるから接触事故なども多くなります。長期間、駐在している人は交通違反、交通事故をやってしまうんです。
そのまま保険の話が続いた。
「テレマティクス保険を普及させたいと思ったのは交通事故を起こさないようにしたいからです。お客さまが増えていけば、データがさらに増えていきます。データが充実すればするほど交通事故に遭う確率は減っていきます。私たちがやることは保険の内容を進化させていくこと。
先ほど申し上げたように、交通事故を起こすのが10人のうち1人とします。弊社は事故を起こさない9人の方々の運転挙動データも毎日取得しています。その方たちが急ブレーキ、急ハンドル、急加速をしたら、その地点がわかります。地点を特定して、精度を上げていき、データを地元の警察、地域の自治体にお届けします。そうすれば、急ブレーキが多い地点などに看板を設置したり、視界をよくしたりすることができます。お客さまの走行データ、運転挙動データが、交通事故を防ぎ、ひいてはみなさんの町をよくしていくのです。
テレマティクス保険は加入者全体で事故を減らすことに参画できる保険なんです。
ただ、最初のうちはまったく売れなかった。苦労しました。いや、今もまだ苦労は続いていますけれど……」
■「いや、意味わかんないよ」と言われ…
「2018年にコネクティッドカー向けの『タフ・つながるクルマの保険』を売り出した時、私は執行役員で北陸担当でした。現場で保険代理店さんを回って、テレマティクス保険を売っていただいていました。雪が降っていました。スーツに長靴を履いて、一軒一軒、保険代理店さんを訪ねて説明するわけです。まだ、コネクティッドカー自体も車種が限られていた頃です。当時はまだ事故を20%減らしたというデータもありませんでした。説明も理屈が先行していたかもしれません。
私が熱くなってしゃべっていたら、富山のある代理店の社長さんから『いや、意味がわからない』って言われました。なかなか売っていただけなかった。でも、懲りずに何度も訪ねていき、今では扱っていただいています。
こんな経験もあります。違う保険代理店さんの話です。
『新納さん、この保険はデータ採るんでしょ。俺がどこを走ってるか、わかっちゃうんだ。だったら、やめておくよ。かみさんにデータを知られるのはちょっと困る』
私はもう一度、説明しました。
『いえいえ、誤解です。急ハンドル、急ブレーキ、急発進のデータです。居場所を奥さまに伝えるデータではありません』
そうしたら、『なんだ。そうか』と笑っていました」
■「お父さんの乱暴な運転」が変わった
「売れるようになって嬉しかったのはある奥さまから手紙をいただいたこと。
弊社のテレマティクス保険は運転の挙動に点数がついて、点数がよければ保険料が割り引かれる仕組みになっています。すると運転の挙動が変わるのです。私がいただいた手紙にはこうありました。
『社長様、感謝申し上げます。私が助手席に乗っていて、いつも嫌でした。それはうちのお父さんの運転が荒いからです。乱暴な運転をするからいつも注意していたのに、私がいくら言っても、言うことを聞きませんでした。ところが、社長様のところの保険に加入したら、運転するたびに毎回、65点、70点と点数が出るわけです。うちのお父さん、負けず嫌いですから、「これは許せん」とか言って、「よし点数上げてやるぞ」と言うようになりました。そうしたら、このところ、毎日、乗るたびに百点になりました。急発進もしませんし、スピードも上げません。本当にありがとうございます』
これほど嬉しいことはありませんでした。
弊社のテレマティクス保険はトヨタさんと一緒に作ってきました。トヨタさんは交通事故死ゼロを目指しています。そのために夏にタテシナ会議を開いています。弊社は現会長の金杉(恭三)が社長の時代から出席して、交通事故死ゼロへの決意を強固にしてきました。タテシナ会議では『交通事故死ゼロを目指すにはドライバー、自転車、歩行者の行動変容が必要だ』としています。事故を起こさないようにするには行動の変容が必要だ。そして、テレマティクス保険とはお客さまからの手紙にもあったように、まさしくドライバーの行動を変容させるものなんです」
■事故がなくなったら食べていけないのでは?
新納の話は熱を帯びてきた。
「テレマティクス保険は運転挙動で点数をつけるのですが、そのアルゴリズムを開発したのが弊社が買収したイギリスの会社、ITBでした。ITBのデータを日本用にチューニングして、トヨタさんと協議しながら開発したのがこの保険なんです。トヨタさんもまた行動変容型の保険を作って、交通事故死をゼロにしたいと思ったのでしょう。
ただ、この保険を出した当時、叩かれたこともありました。
『保険会社が事故をなくすといったら、それは商売のタネをなくすことになるんじゃないのか? 本当に事故をなくしたいのか? 保険会社は食べていけなくなるんじゃないのか?』
私は言い返したんです。いや、世の中から事故はなくなった方がいいんだ、と。
実はイギリスのITBがテレマティクス保険を出したのは自動車の保険料が非常に高額で、保険に入らない若者が多かったからです。自動車保険料が年間で80万円にもなりましたから、無保険の若者が出てきます。無保険で事故を起こしたら、被害者は補償されません。社会問題になったため、ITBの創業者は若者が入ることのできる保険料の保険を作ろうとしました。それにとどまらず、事故を起こさないために行動変容を促す保険を作ることにしました。とてもいい考えです。
しかし、イギリスでも最初のうち、テレマティクス保険は売れなかった。我々がぶち当たった壁と同じです。『この保険に入れば事故は減るはずです』と。しかし、『減るはず』というのは説得力がない。それでも彼らは売った。すると、普及し始めて、結果としてドライバーの行動が変容し、交通事故が減ってきた」
■危機に笑って立ち向かう
長いインタビューの間、わたしはあることに気づいた。新納は早口にはならない。ゆっくりと確かめながら話す。ひと呼吸、おいて、話す内容を考えてから言葉にする。
部下に話を聞いたら、新納の仕事のやり方は慎重だという。報告を聞いたからといって瞬間的に判断はしない。ひと呼吸おいて、判断する。また、日ごろのスケジュールも詰め込んだりはしない。会議、打ち合わせ、現場への訪問……、すべて、間を空けておく。そうすれば少し、時間がオーバーしても後ろの予定を気にすることなく業務を執行できる。
わたし自身はスケジュールを詰め込むことを快感としていた。移動時間をなるべく少なく見積もって予定を立てていた。すると、毎回とは言わないが、遅刻することがある。遅刻しなくても、移動中に「ぎりぎりの時間になってしまいます。すみません」と相手に連絡しなければならなくなる。予定を詰め込むことで余計な仕事をする羽目になる。
これからは新納を見習おうと思った。ひと呼吸おくことは必要だ。
新納や同社の人たちは日々、事故や災害と向かい合っている。事故や災害と向かい合いながら、保険契約の加入者を見守っている。彼らはつねに、いつ起こるかわからない危険に備えている。だからといって毎日、張り詰めた糸のような生活をしていれば、いつか切れてしまう。
わたしたちは一世一代の大きな危機には腹を決めて対処できるのではないか。戦争や大災害であれば、おのずと心構えができる。
■『あしながおじさん』の教訓に学べ
しかし、毎日の小さな危険、ささいなトラブルにはなかなか対応できない。
『あしながおじさん』(J・ウェブスター)の主人公、孤児のジェルーシャ・アボットはわたしが書いたのと同じ内容をもっと上手に伝えている。同書は子ども向けの小説と思いきや、思索的で、なおかつ含蓄のある言葉が並んでいる。
「こんなに落ちこむできごとが続くなんて、おじさまは聞いたことがありますか。人格が求められるのは、人生における大きなトラブルではありません。だれだって危機的状況に置かれれば立ち上がり、勇気を持って押しつぶされそうな悲劇に立ち向かうことができます。でも、一日のささいな危険に笑って立ち向かうのは――気力がいるとつくづく思います。」
あいおいニッセイ同和損保の社長、新納啓介はジェルーシャと同じだ。毎日のささいな危険に対して笑って立ち向かっている。損害保険会社の社長に休みはない。傍目からはわからないけれど、いつ起こるかわからない危険、災害に備えて一日を送っている。
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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。ビジネスインサイダーにて「一生に一度は見たい東京美術案内」を連載中。
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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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