▼第1位 そりゃ浅井長政は負けるわ…秀吉でも光秀でもない、険しい小谷城を攻めあぐねた信長を救った戦国武将の名前
▼第2位 あと数年長命だったら豊臣政権はなかった…NHK大河ではチョイ役だった"戦国最強武将"の死の大きな意味
▼第3位 織田信長が見込んだ"中途社員"だったのに…期待に応えられず、妻子も家臣500人も見捨てた戦国武将の末路
織田信長が将来を見込み、家臣になってわずか4年で摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)一国を任せた武将がいた。しかし彼は信長に反旗を翻し、妻子や家臣500人を残して城を去る。なぜ期待された男は「逃げ腰の裏切り者」と呼ばれる結末を迎えたのか。江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。
■秀吉・孝高・信長が信じた男の裏切り
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、秀吉・秀長が播磨行きを命じられた。天正5(1577)年のことだ。
播磨は現在の兵庫県南西部を指す。そのさらに西には西国の雄・毛利氏がいて、播磨への進出を本格化させていた。そこで信長は毛利を阻むべく、豊臣兄弟を派遣した。松永久秀を討った同年10月の信貴山(しぎさん)城の戦い直後だった。
秀吉は即座に、播磨の中央に位置する姫路城に入った。姫路城は、播磨に勢力を持っていた小寺政職(こでらまさもと)の家臣・小寺孝高(よしたか)、のちの黒田孝高(官兵衛)が城代を務めていた。
秀吉の姫路入りにさかのぼること5カ月前の天正5年5月、孝高はわずか500の兵で毛利の進軍を止めている(英賀(あが)合戦)。孝高と交流のあったある武将が、この合戦の経緯を信長に伝えると、信長は孝高を高く評価したと『黒田家譜』(黒田家の公式史書)にある。
この「ある武将」の名は、荒木村重(あらきむらしげ)。播磨の東にある摂津(兵庫県南東部および大阪府北中部)の武将だ。
孝高―村重―信長のあいだには、強いパイプがあったと考えられる。ところが村重は翌年の天正6(1578)年10月、突然信長に反旗を翻し、毛利に与(くみ)してしまうのである。信長と孝高、そしてもちろん秀吉にとっても、予期せぬ裏切りだった。
■信長から「摂津国一職」を許可された実力者
荒木村重とはどのような出自を持ち、信長との出会いはいつだったのかを、簡単に整理しておこう(天野忠幸『戦国期三好政権の研究 増補版』および天野忠幸「有岡城の戦い」『信長軍の合戦史』より、以下天野)。
信長の伝記『信長公記』の著者・太田牛一は、村重の出自を「一僕の身」(雑用係)としているが、荒木氏はそもそも丹波の守護代・波多野氏の一族であり、その後は摂津の有力豪族・池田氏の重臣になったという。
池田氏の勢力に翳りが見えた元亀元(1570)年頃、村重は畿内に進出してきた信長と一時的な対立を経て、天正元(1573)年には服属した。『信長公記』には「(信長から)摂津国一職を仰付けらる」とある。
天正2(1574)年、村重は伊丹城(兵庫県伊丹市)に入城すると「有岡城」と名を改め、本拠地とした。さらに城を中心に家臣の屋敷群や城下町を築き、周囲を堀や土塁などでぐるりと囲んだ惣構(そうがま)えを持つ、城塞都市として整備した。その都市を率いる男が、突然裏切ったのだ。
こうして、この後約1年、村重は籠城し信長に徹底抗戦するのである。
■孝高幽閉のウソ・ホント
約1年にわたった有岡城の戦いは、村重を説得するため単身で乗り込んだ黒田孝高(官兵衛)が、城内に幽閉されたことでも知られる。6月19日から公開される映画『黒牢城』も、この出来事をテーマとしている。
有岡城から戻らない孝高を疑い始めた信長は、孝高から人質として取っていた子の松寿丸(しょうじゅまる)(のちの黒田長政(ながまさ))を殺せと、秀吉に命じた。
松寿丸は秀吉の居城・長浜城にいた。困った秀吉が竹中半兵衛に知恵をあおぐと、半兵衛は松寿丸を匿い、別の子供の首を信長に提出した。秀吉―半兵衛―孝高の信頼関係を物語る逸話であり、『黒田家譜』に記された史実とされている。
なお、孝高が幽閉から解放されるのは有岡城開城まで待たねばならず、半兵衛はその約5カ月前の天正7(1579)年6月に没した。
俗説では、孝高は城内の光がわずかしか射し込まない土牢に幽閉されたというが、兵庫県立考古学博物館による城の発掘調査では、土牢の存在は確認されなかった。
つまり「劣悪な環境での幽閉」とは創作であり、実際には世話人もいた状態で閉じ込められていたのではないかと、考えられるという。
■「播磨は自分に」村重の誤算
村重は、なぜ信長に背いたのだろうか。さまざまな説があるが、前述の天野忠幸氏は「石山本願寺との連携説」を挙げており、説得力も高いと思える。
村重と本願寺とのあいだで交わされた「契約」を示す、天正6(1578)年10月17日付文書があるという。10月17日は、村重が謀反を起こす直前だ。主な内容は次の通りだ。
・本願寺は武家の所領には関与しないので、信長滅亡後に村重が摂津を有することに異存はない
・村重が摂津の他にも領地が欲しいなら、本願寺は元室町幕府将軍の足利義昭や毛利輝元に口添えする
完全な裏取引である。しかも本願寺のみならず、足利義昭や毛利輝元の関与もうかがえる。
実際、村重は信長に対し、不満を溜め込んでいた可能性が高い。例えば天正3(1575)年頃、信長に味方するよう播磨の土豪たちを説き伏せ、信長に取り次ぎ、人質の徴収などを行っていたのは村重だった。
この流れでいけば、信長はいずれ「自分に播磨を与えてくれるだろう」と、村重が皮算用しても不思議ではない。
そうした状況下で天正6(1578)年2月、播磨・三木城(兵庫県三木市)の別所長治(べっしょながはる)が信長を裏切った。さらに本願寺は、相変わらず信長に抗っているし、足利義昭と毛利もいる。
どうやら彼らと共に信長と戦った方が得策だ――村重はそう判断したと考えられる。
■戦況挽回を図るが、またしても誤算
有岡城攻防戦は当初、村重に有利な展開を見せた。天正6(1578)年12月8日、信長は城を力攻めしたが、2000人の犠牲者を出すだけだった。有岡城の守りは堅かった。
信長は力攻めを断念し、周囲に付城(つけじろ)(砦)を設置し、兵糧攻めに転じた。大坂湾と有岡城をつなぐ猪名川などの河川も封鎖し、補給も絶った。また、村重配下の高山右近(たかやまうこん)、中川清秀(なかがわきよひで)らの武将も信長に帰属しはじめ、次第に追い込まれていく。
天正7(1579)年9月2日、村重は供の者5~6人を連れ、こっそりと有岡城を抜け出し、約8キロメートル南にある尼崎城に移った(『信長公記』)。この行動が後世、有岡城に妻子や家臣を残したままの“逃げ腰”と捉えられた。
実は、本願寺と有岡城をつなぐ海沿いに位置する尼崎に移り、毛利の援軍を待って戦線を立て直そうとした策であり、決して敵前逃亡ではなかったという(天野)。
だが、誤算が生じた。毛利と結んでいた宇喜多直家(うきたなおいえ)が秀吉に調略され、織田方に付いてしまった。このことは宇喜多が支配する備前・美作(岡山県東部)が実質的に秀吉の影響下に置かれたことを意味する。
村重の尼崎城入りは、確かに戦況挽回をはかるためだったかもしれない。だが、城主不在となった有岡城の士気低下は避けられなかった。ましてや補給がいつ届くかもわからず、西の味方・宇喜多まで失ってしまった。
織田方の方が一枚上手で、村重は先を読む目が甘かった――失態と指摘されても、やむを得ないと思う。
■降伏を拒んだ代償は約500人の命
村重の尼崎城移転は極秘事項だったが、時期ははっきりしないものの10月に入ると露見したようだった。そして同月15日、総攻撃が始まった。すでに滝川一益の調略によって、城内の足軽大将らはことごとく織田に寝返っていた。
城と城下への放火も相次ぎ、京・吉田神社神主の吉田兼見(よしだかねみ)の日記『兼見卿記』によると、城の大半は焼け落ちたという。
11月9日、そのうちの1人、荒木久左衛門が織田と交渉し、村重の降伏を条件に城内の者たちを助命するという約束を得て、尼崎城の村重と会った。だが、村重は降伏を受け入れなかった。久左衛門も万策尽きたのか、そのまま逃亡してしまった。
信長は荒木の当主と重鎮たちが命を惜しみ、家族を捨てたとして、城内に残った約500人を見せしめに処刑した(『信長公記』)。
こうして戦いは終わった。家族・家臣を見捨てた逃げ腰の武将・村重と、数百人を殺戮した残虐な信長という、後味の悪さを印象づける戦いだった。
■信長の実績主義に、村重は耐えられなかった
この記事を書くにあたって、天野忠幸氏の著書を参考にさせてもらった。氏は、村重研究の第一人者である。村重が置かれていた状況を冷静に分析し、一概に敵前逃亡したとはいえないだろうと述べ、その理由として下記を挙げる。
・尼崎城にはすでに本願寺に味方する雑賀衆らも籠城しており、村重1人の判断で降伏を受け入れるわけにいかなかった
・降伏すれば有岡城の者たちの命は助けるという信長の約束を、信じていなかった(つまり、降伏したところで皆殺しにされる)
天野氏の説によって、村重はいくらか「名誉挽回」を図れたといえるだろう。
とはいえ、やはり高評価は与えづらい武将ではないかと思う。
信長は、人を評価するのに時間をかける。例えば播磨攻めが始まった天正5年の時点で、秀吉と滝川一益は信長に臣従して20年以上、明智光秀は約10年、柴田勝家に至っては信長が誕生したときから、織田家譜代の家臣だ。
信長に仕え、地位を得るには、長い時間と忍耐を要するのである。対して村重は、まだ4年足らずだった。村重だけではない。松永久秀も別所長治も、10年にも満たない段階で信長に反旗を翻した。時間が、村重たちには重くのしかかったのかもしれない。
また、信長はすでに嫡男・信忠に家督を譲って次代の体制づくりに着手していた。そうした状況下では、新参者の重用に慎重にならざるを得なかったのだろう。信長から見れば、村重はまだ忠勤が足らなかったのではあるまいか。
課題を次々と与え、乗り越えてから優遇する、徹底した実績主義が信長だ。村重の挫折には、次々と高い命題を課せられ、成果を求められた末に脱落していった人々の姿が重なる。
参考図書
・天野忠幸『戦国期三好政権の研究 増補版』(清文堂出版、2015年)
・天野忠幸「有岡城の戦い」日本史史料研究会監修・渡邊大門編『信長軍の合戦史』(吉川弘文館、2016年)
・太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
(初公開日:2026年5月30日)
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小林 明(こばやし・あきら)
江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表
編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。
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(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

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