2004年の球界再編騒動では、日本プロ野球史上初のストライキが決行された。渦中では、選手会と経営側の攻防だけでなく、経営側内部でも激しい対立が起きていたという。
交渉の最前線に立ち続けた瀬戸山隆三さんに、ノンフィクションライターの日比野恭三さんが舞台裏を聞いた――。(後編)
【前編のあらすじ】2004年の球界再編騒動で経営側の交渉窓口を務めた瀬戸山隆三。パ・リーグの経営難を背景に、渡邉恒雄ら一握りのオーナーが「1リーグ10球団制」を目指し密室で球団合併を進める中、ロッテ代表の瀬戸山も濁流に呑まれていく。現場を無視した強行突破に疑問を抱きコミッショナーに直談判するも激高され、世間からは「悪人側の番頭」として激しいバッシングを浴びる。そして9月、選手会との本格的な団体交渉が始まった。
■史上初ストライキへのカウントダウン
2004年9月、球界再編騒動は最大の山場を迎えた。
攻勢を強めたのは選手会だ。オリックスと近鉄の合併差し止めを求める仮処分を東京地裁に申請。9月3日に「却下」の判断が示されたものの、引き換えに「選手会は労働組合であり、NPBには誠実な団体交渉の義務がある」という司法のお墨付きを得た。これを追い風に、6日の選手会臨時総会で「交渉決裂時には週末ストライキを決行する」と決議。実力行使へのカウントダウンが始まった。
9日、ようやく開かれた労使交渉の席で経営側の実務トップを務めたのが、瀬戸山隆三である。
当時はロッテの球団代表に加え、NPBの選手関係委員長を兼任する立場にあった。
選手会側の要求は、主に「オリックス・近鉄の合併1年間凍結」と「新規参入促進」の2点だった。当初はわずかながらも合併阻止の可能性を信じて交渉に臨んだが、やがて「新規参入による2リーグ制の維持」が実質的な目標へと変わっていくことになる。
翌10日まで続いた協議には、直接の対話が始まったことに伴う歩み寄りの気配があった。経営側は交流戦の導入や、新規参入枠の検討といった妥協案を提示。そこに一定の成果を認めた選手会はひとまず週末のスト回避を決断した。
両陣営が並んで臨んだ共同会見。記者からの質問が締め切られ、息詰まる2日間の攻防は一時休戦を迎えた。場の空気がわずかに緩んだ直後――それは起きた。
■「古田さんの握手拒否は当然のこと」
瀬戸山が差し出した右手を、選手会長の古田敦也が無視した。手を伸ばしたままの瀬戸山と、背を向ける古田。会見場に無数のシャッター音が鳴り響いた。

瀬戸山は言う。
「要するに、協議を継続しましょうというのがあの日の結論。私は『引き続きよろしくね』と、それだけの気持ちで手を差し出しました。けれども古田さんにしてみれば『まだ何も決着していない』という思いだったでしょうから、握手なんてできないと考えたのも当然だったと思います」
「引き続きよろしく」と手を差し出す振る舞いは、通常のビジネス交渉であったなら、ごく当たり前の所作だった。だがあまりに「普通」だったからこそ、職場や歴史を失うかもしれない選手会側が抱く切迫感との落差が際立った。
この期に及んで平熱を保つ経営側と、張り詰めた表情を崩さない選手会長。翌日の新聞写真が示した対比に、世間は経営側の「不誠実さ」を見た。実務者として実直に職務を遂行する姿勢が、かえって瀬戸山に非難を集中させる結果となった。
■“古田の発言”を巡り不穏な空気に
9月16日から始まった次回交渉は、歩み寄りの気配から一転、会議室には不穏な空気が漂った。経営側は冒頭、前回交渉後の記者会見で古田が「近鉄存続の可能性が出てきた」と発言したことを問題視。「合併は覆らないと分かったはず。それなのに、あの発言はどういうことか」と謝罪を要求したという。

対立は「経営シミュレーション」を巡る応酬でさらに鮮明になる。前回交渉時、選手会側は交流戦が実現した場合の収益予測(近鉄存続のケースを含む)などを求めた。ストを回避し1週間の猶予を設けたのはその回答を待つ意味合いも含まれていたが、経営側から示された内容は、選手会が求めたレベルとはかけ離れていた。
たった1枚の紙に、近鉄・オリックスが合併した場合としない場合の赤字額の比較など、「合併すれば赤字が減る」という従来の主張を追認するデータだけが並んでいた。
経営側は、合併は覆りようがない決定事項だと改めて伝えるとともに、「2005年からの新規参入」についても、時間的制約を理由に、現実的でないと突っぱね続けた。
選手会側からは、強硬な姿勢を崩さない経営側は堅固な一枚岩に見えたかもしれない。だが実際には、その裏側で瓦解が始まっていた。12球団の代表者からなる実行委員会では、再編の流れを主導してきた「密室」グループと、蚊帳の外に置かれてきたグループとの間で、激しい内紛が起きていたのだ。当時の内情を瀬戸山が明かす。
■「ええ加減にせえよ!」と怒鳴ったことも
「(球団間で)相当な温度差がありました。ある会議では、当事者球団の代表が『これはあくまで商法上の問題。皆さんには分からないかもしれないが』と突き放すような発言をしたところ、何も知らされていなかった側の代表が激高しました。
『お前のところのために毎日こんなことになってるんだろ! 表に出ろ!』と……。もう掴み合い寸前でした」
選手会の前では毅然とした交渉役を装い続けていたが、その背後では身内同士がいがみ合い、協議の落としどころはまるで見通せなかった。「最もつらかったのはその時期かもしれません」と瀬戸山は振り返る。
自宅に脅迫状が届くほどの苛烈なバッシングに晒されていたが、交渉のプロである瀬戸山にとっては、自陣の足並みが乱れ、解決への道筋を見いだせないでいる状況のほうが遥かに重く、苦しかった。
さらに、周囲の当事者意識があまりに希薄だったことも、瀬戸山の孤立をいっそう深めた。
「深夜まで厳しい折衝を続けて、ようやく記者会見を終えて控室に戻ったら、誰もいない。共に戦っているはずの他の代表たちが、さっさと帰ってしまっていたんです。私は代表の中で一番年下でしたけど、さすがに翌日の会議で言わせてもらいました。『俺一人でやっとるんちゃうやろ。ええ加減にせえよ!』って」
■経営側がこだわった「以降」「誠意」
9月17日。この日妥結できなければ翌日からストライキを決行する、と選手会は予告していた。交渉の期限は17時だ。

前日からのしこりを残しながらも、双方はどうにか妥結点を見いだそうと協議を重ね、「新規参入に向けて動く」という大筋の方向性では一致を見ていた。ただ、合意書に載せる文言の調整で紛糾した。
選手会側が求めたのは、「2005年からの新規参入に向けて最大限の努力をする」と明記することだった。対する経営側は、「2005年から」ではなく「2005年以降」、「最大限の努力」ではなく「最大限の誠意」という表現にこだわった。
すでにオーナー会議において、翌2005年シーズンはセ・リーグ6球団、パ・リーグ5球団の計11球団で実施することが決定していた。また、限られた時間の中で急ピッチの審査を余儀なくされれば、新規参入企業の適格性を公正に判断できないという実務上の懸念もあった。これらを理由に、経営側は「以降」「誠意」という慎重な表現に留めるスタンスを崩さなかった。
「なぜ『最大限の努力』と書けないのか」。迫る選手会に対し、瀬戸山はその要求を跳ね除け続けた。だが、内心は違った。
■選手会がストを決行し、12試合が中止に
「私個人の考えとしては、妥結できるならそれくらい入れてもいいんじゃないかと思っていました。仮に『最大限の努力』と書いたところで、何かを確約することにはならない。
でも、一部の球団がどうしてもダメだと譲らなかった」
組織としての答えが「NO」である以上、瀬戸山もその意思に従わざるを得なかった。
わずか4文字の言葉の壁が、最後まで立ちはだかった。タイムリミットを大幅に過ぎた21時近く、選手会はついにストライキ決行の決断を下した。
選手会が発行した書籍の中に、こんな印象的な記述がある。
「やっと着くことのできた同じテーブルで、本当に確かめたかったことは、言葉ではなく、言葉と一緒に感じられる何かだった」(出典:『勝者も敗者もなく』)
その「何か」が、最後まで通い合うことのないままの決裂だった。
9月18、19日の2日間にわたり、日本プロ野球史上初となるストライキが決行され、計12試合が中止となった。交渉を妥結に導けなかった瀬戸山は、当時の心境を改めて問われると、しばらくの沈黙のあとにこう口を開いた。
■「ストライキをしてくれてホッとした」
「あのときの気持ちですか……。今振り返ってみると、正直、ホッとしていましたね。もちろん当時『ストライキをやってくれ』と願っていたわけではないですが、心のどこかで、もうこれほどの事態になった以上は一度ストライキを経なければ、問題は着地しないという思いも募っていました。選手会側としても、あそこまでいったら引くに引けない状況だったのでは」
どう転んでもストは避けられなかった。スト決行でしか、あの局面は打開できなかった。双方の言い分に挟まれ身動きの取れなかった瀬戸山の率直な思いだ。
その後行われた再交渉の席で、経営側はこれまでの強硬姿勢を一転させ、2005年シーズンからの新球団参入を容認する方向に舵を切った。9月23日に妥結。7項目からなる合意書が発表された。
あれほど頑なな姿勢を見せていた経営側はなぜ急転回したのか。ストが実を結んだという見方もできる。ただ同時に、当時の時系列と当事者たちの思惑からは別の背景も浮かび上がる。
ライブドアではなく楽天が参入したワケ
スト直前の9月15日、楽天が球界参入を正式に表明していた。先行して手を挙げていたライブドアに対し、保守的な体質の球界中枢は強い警戒感を示していたが、その後名乗りを上げた楽天については、より実体のある安定企業と受け止めた。
とはいえ、企業の適格性を審査する、いわば“身体検査”は不可欠だ。楽天の参入要件に問題がないという確証を得るまでは、合意書に「最大限努力」と書くわけにもいかなかったのだろう。経営側にとって、身元の確かなオーナー企業を迎え入れるための時間稼ぎはストの回避以上に優先すべきことだった――そう考えれば一連の対応の辻褄が合う。
以降、再編への流れは迅速に進む。審査の結果、楽天の新規参入が承認された。また、「密室」主導で企図されたロッテとの球団統合計画が膠着状態に陥っていたダイエーにも動きがあった。親会社が産業再生機構への支援要請を決断。そこへソフトバンクが機敏に動き、球団の買収が成立した。
1リーグ制への移行という水面下の画策から始まった激動の2004年は、こうして「2リーグ12球団体制の維持」という形で幕を閉じた。
瀬戸山の証言を軸に改めて騒動を振り返ると、彼が強大な権力の思惑に巻き込まれ、悪役を演じざるを得なかった構造が浮き彫りになる。ただ、その理不尽な役回りを拒み、逃れることも不可能ではなかったはずだ。それでも最後まで経営側の窓口という矢面に立ち続けたのは、ほかならぬ瀬戸山自身の意思であった。
なぜ踏みとどまったのか。瀬戸山は淡々とこう語った。
■3年後、密かに交わされた2人の握手
「きざな言い方かもしれませんけど、ああいう役割も含めてきっちりとこなしていくのがフロントの仕事だと思うんです。実際、そういう場面はいっぱいありましたから」
騒動から3年後の2007年。あるパーティーの席上で、瀬戸山と古田は顔を合わせた。居合わせた星野仙一に促されて握手を交わし、形の上での“和解”はそこで成立した。だが二人の間に会話はなく、古田はすぐにその場を立ち去ったという。人の心に刻まれた「憎き者」の印象は、年月を経てなお、容易に薄れることはない。
プロ野球は今、かつての危機をまるで感じさせないほどの盛り上がりを見せている。昨季の年間入場者数は2700万人を突破し、史上最多を記録した。今日の活況を生む契機となったのは、まぎれもなくあの球界再編騒動だ。特定の人気球団の放映権に依存していた体質から脱却し、外部からのビジネス人材の登用や地域密着型のマーケティングなど、各球団が自らの力で収益を生み出す経営方針へと大きく転換。以来20余年にわたり、地道な経営努力が積み重ねられてきた。
今となっては当たり前のように広がる、連日満員のスタジアムの光景。その熱狂の陰には、非難の的となることを引き受け、嫌われ役をまっとうした一人の実務家がいた。

※肩書は当時。

※参考文献『2004年のプロ野球 球界再編20年目の真実』山室寛之著、『勝者も敗者もなく 2004年 日本プロ野球選手会の103日』日本プロ野球選手会著

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日比野 恭三(ひびの・きょうぞう)

ノンフィクションライター

1981年、宮崎県生まれ。東京大学中退後、広告代理店等での勤務を経て、2010年よりスポーツ総合誌『Sports Graphic Number』の編集者となり、同誌の編集および執筆に従事。16年にフリーとなり、野球やボクシングなどの競技、またスポーツビジネスを対象にライターとして活動中。近著に『ホークスメソッド 勝ち続けるチームのつくり方』(日経BP)。

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瀬戸山 隆三(せとやま・りゅうぞう)

実業家・プロスポーツ経営者

1953年生まれ。大阪市立大学商学部卒。1977年ダイエー入社。ダイエー神戸本店室課長などを経て、1988年より福岡ダイエーホークスに出向、球団総務課長となる。1993年シーズンオフに球団代表に就任。1996年より新設された「球団本部長」に就任。1999年球団代表に再登用される。その後、球団を退団するとともにダイエー本社も退社。福岡県内での企業経営を経て、2004年に千葉ロッテの球団代表に就任。2006年より千葉ロッテ球団社長。2011年より、千葉ロッテ取締役顧問。2012年よりオリックス・バファローズの執行役員球団本部長補佐、2013年に同球団の球団本部長になり、2016年に顧問に就任。現在は実業家・プロスポーツ経営者として講演活動を行い、経営者の育成に携わる。

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(ノンフィクションライター 日比野 恭三、実業家・プロスポーツ経営者 瀬戸山 隆三)

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