米ドルはなぜ「世界のお金」であり続けられるのか。ジャーナリストの池上彰さんは「その裏には、アメリカが半世紀前に交わした“ある密約”がある。
それは今も、世界経済の土台を静かに支えている」という――。
※本稿は、池上彰『そうだったのか!中東』(ホーム社)の一部を抜粋・再編集したものです。
■「税金がない国」という誤解
サウジアラビアは石油の収入があるので税金がないと誤解されてきました。
よく「税金のない国」と言われます。たしかに私たちが考えるような個人の所得税はありませんが、統治基本法にザカート税が明記されています。イスラム教徒にはザカート(喜捨)の義務があり、これは欧米のような税金ではないという解釈になるので、「税金がない国」と言われてきただけなのです。油田が発見される前からザカート税はあったのです。
サウジアラビアで事業を営む人にはザカート税が、外国人には人頭税が課せられます。
国家財政については、石油の売り上げで潤沢でしたが、2010年代後半以降、世界的に原油価格が下落したために財政状態が悪化し、2018年1月から5%の付加価値税が導入されました。日本の消費税のようなものです。さらに2019年7月から税率が15%に引き上げられています。もはや「税金がない国」とは呼べません。

■こうして「貧しい砂漠の国」は裕福になった
サウジアラビアは建国以来、貧しい砂漠の国でしたが、1938年にダーランで「ダンマン油田」が発見されると、急激に裕福な国に変身します。第二次世界大戦中は油田開発が中断しますが、1946年から油田開発が本格化し、世界の中で存在感が高まります。
アメリカは、サウジアラビアの石油を安定的に仕入れる方法はないかと考えます。この年、1974年、当時のファハド皇太子(後の国王)とヘンリー・キッシンジャー国務長官がサウジアラビアを訪問したリチャード・ニクソン大統領との間で、通称「リヤド密約」を結びます。
この密約で、サウジアラビアは原油をどこの国に売るときもドル建てにすることを確約しました。その見返りに、アメリカはサウジアラビアの体制を守り、安全保障に責任を持つことを保証しました。
サウジアラビアは、ドル建てで原油を販売し、入ってきたアメリカドルを使って道路や鉄道、空港や港湾などのインフラ整備を進め、アメリカから大量の最新兵器を購入して軍事力の近代化を進めることになりました。
■なぜ米ドルは「世界のお金」なのか
結局、サウジアラビアが原油の代金として世界中から集めたドルは、アメリカ製兵器の購入代金やアメリカの国債購入などによってアメリカに還流する仕組みです。
サウジアラビアから原油を購入しようとする世界各国はドルで支払わなくてはならないため、一定程度のドルを持っていなければなりません。アメリカのドルが「世界のお金」としての地位を強化することになったのです。原油の購入に必要なドルという構造は「ペトロダラー」(オイルダラー)と呼ばれるようになります。
これは、アメリカにとってはドルが「世界のお金」(基軸通貨)であるための基盤になりますし、サウジアラビアにとっては、イスラム教シーア派の大国イランで起きたイラン・イスラム革命の波及を防ぐ盾を確保したことになります。

その後、現在の湾岸協力会議加盟国のアラブ首長国連邦、クウェート、オマーン、カタール、バーレーンとも同様の密約を締結しました。
■アメリカの弱みが露呈した“ある出来事”
アメリカは、このような密約をサウジアラビアとの間に結んでいることから、サウジアラビアの体制を批判することができません。そんなアメリカの弱みが露呈したのが2018年の出来事でした。
この年の10月、サウジアラビア人のジャマル・カショギ記者は、婚姻届を出すためにトルコのイスタンブールにあるサウジアラビアの領事館を訪ねます。同行していた妻は領事館の外で待っていたのですが、いつまで経っても夫は出てきません。それもそのはず、領事館の中で殺害され、遺体はバラバラにされていたのです。
カショギ記者は帰ったという形を取るものでした。身体つきが似ている男性が領事館から出る姿が監視カメラに写っていました。夫が出てこない、と妻がトルコの警察に相談したことから、事件が発覚しました。領事館が組織ぐるみで殺人と証拠隠滅をしていたのです。
ところがトルコの諜報組織は、サウジの領事館の内部の様子を盗聴して記録していました。カショギ記者が殺害され、遺体がバラバラにされる一部始終が録音されていたというのです。

カショギ記者は生前、アメリカの『ワシントン・ポスト』にサウジの現体制を批判する記事を寄稿していました。このために殺害されたと見られています。
■握りつぶされた“報告書の中身”
カショギ記者が領事館を訪れる時間に合わせ、ムハンマド皇太子の警護官たちがサウジから到着し、領事館に入っていました。これは、事件後、トルコが防犯カメラを分析して明らかになりました。カショギ記者は以前にも領事館で手続きをしようとしたのですが、この日に来るように指示されていたそうです。この日、待ち伏せされていたのです。
これだけ証拠が揃っていたのですから、サウジアラビアは、警護官たちが殺害に加わっていたことを認め、「彼らを逮捕した」と発表しました。ムハンマド皇太子は関与してはいないと発表しましたが、絶対的な権力を持っている皇太子の警護官が、勝手な行動を取れるとは思えませんでした。
その後2021年2月、アメリカの国家情報長官室は、カショギ氏殺害事件について、ムハンマド皇太子が「カショギ氏を拘束もしくは殺害する作戦を承認した」とする報告書を公表しました。
実は、この報告書はトランプ政権時代にまとめられていましたが、トランプ前大統領は報告を差し止めていました。バイデン大統領になってから、公表に踏み切ったのです。サウジアラビア政府は、この報告書の内容を全面的に否定。
事件は個人の犯行だとして皇太子の責任を認めていません。
■「人権より石油の方が大事」という批判
アメリカのバイデン政権は、この報告書に基づいて、サウジの情報機関の副長官や皇太子の警備隊の特殊部隊の責任者に対する制裁を発表しましたが、皇太子の責任には言及しませんでした。
トランプ前大統領は、そもそも報告書を握りつぶしましたが、人権重視を標榜しているバイデン政権としては、報告書を公表せざるを得ませんでした。それでも皇太子は別格だったのです。
アメリカに大量に石油を売ってくれて、得たドルでアメリカの兵器を大量に買ってくれるサウジアラビア。そんな関係にあるサウジの実質的なトップを敵に回したくはなかったのです。
しかし、このバイデンの対応を、ムハンマド皇太子は恨んでいたことが、2022年になってわかります。石油をめぐってしっぺ返しをしたのです。
この年の11月、ロシアがウクライナに軍事侵攻したことで、石油価格が高騰。アメリカでは物価が上昇し、11月の中間選挙を前に国内でバイデン政権は無力だという批判が出ていました。そこでバイデン大統領は7月に恥を忍んでサウジアラビアを訪問。ムハンマド皇太子に石油の増産を頼んだのです。

バイデン大統領は、カショギ記者殺害の責任追及を棚上げしてまで、ムハンマド皇太子に膝を屈し、石油増産を頼んだのです。これにはアメリカ国内で、「人権より石油の方が大事なのか」という批判も出ていました。
■屈辱外交のまさかの結果
ところが、そんな屈辱外交をしたにもかかわらず、この年の10月、つまり中間選挙の前月、サウジを盟主とするOPEC諸国は石油の減産を決めたのです。
OPECは石油輸出国機構の英語の頭文字を取った略称。石油の産出国によるカルテルで、協力して石油の産出量をコントロールしています。需要と供給の関係で石油の値段が上がります。そうすれば、石油の値段が下がれば、協調して産出量を削減します。これで利益を確保するわけです。一方で、値段が上がり過ぎると、石油が買えない国が出て需要が減る恐れがあるので、産出量を増やして石油価格を下げます。
このグループに入っているのはサウジアラビアやUAE(アラブ首長国連邦)、クウェートなど12カ国です。でもOPECに入っていない産油国もあるので、OPECが石油の産出量を削減しても、他の国が生産を増やしたら、石油価格がうまくコントロールできません。そこで最近は、OPEC以外の産油国も参加して産出量を決めています。
この集まりのことを「OPECプラス」と呼びます。入るのはロシアやメキシコ、バーレーンなど11カ国です。
とはいえ、OPECの盟主であるサウジアラビアとOPECプラスの中心国ロシアが主導して生産量を調整しているのが実態です。このOPECプラスが石油の減産を決めたのですから、石油の国際価格は大きく上昇しました。バイデン大統領の面子は丸潰れ。ムハンマド皇太子に仕返しをされたのです。
アメリカはサウジアラビアに頭が上がらない。それを象徴する出来事でした。

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池上 彰(いけがみ・あきら)

ジャーナリスト

1950年長野県生まれ。慶應義塾大学卒業後、NHK入局。報道記者として事件、災害、教育問題を担当し、94年から「週刊こどもニュース」で活躍。2005年からフリーになり、テレビ出演や書籍執筆など幅広く活躍。現在、名城大学教授・東京科学大学特命教授など。6大学で教える。『池上彰のやさしい経済学』『池上彰の18歳からの教養講座』『これが日本の正体! 池上彰への42の質問』『新聞は考える武器になる  池上流新聞の読み方』『池上彰のこれからの小学生に必要な教養』など著書多数。

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(ジャーナリスト 池上 彰)
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