古代ヤマト政権は、どのようにして富を築いていたのか。歴史学者の武光誠さんは「桜井茶臼山古墳の石室には、当時、貴重だった水銀朱(朱)が厚く塗られ、その量は200キログラムを超えていた。
辰砂は猛毒の鉱物でありながら、ベンガラよりはるかに美しく、古代の朱は大そう貴重だった」という――。
※本稿は、武光誠『直近20年の新発見で解き明かす 古代史の真実』(青春出版社)の一部を再編集したものです。
■前方後円墳からみるヤマト政権の発展
大型古墳の出現と共に、古墳時代が始まる。日本各地の前方後円墳は、ヤマト政権の発展を物語る考古資料だと考えられている。大阪大学名誉教授で考古学者の都出比呂志氏は、箸墓(はしはか)古墳が築かれてまもなく、ヤマト政権が次のような身分制を定めたと唱えた。
「大王とそれに準じる者のために、全長200メートル以上の前方後円墳をつくる。そして有力な王族や主要な中央豪族には全長150メートルぐらいの前方後円墳を築かせる。さらに地方の有力豪族をそれより下位に位置づけて、全長120メートルの古墳に葬らせる。中級の地方豪族には全長100メートル以下の、下級の地方豪族には全長50メートル以下の前方後円墳をつくらせる」
都出氏はこのような秩序を、「前方後円墳体制」と名付けた。つまりヤマト政権に従った豪族が、大王にならって前方後円墳を築くようになったというのだ。
そのため前方後円墳の分布を手掛かりにして、ヤマト政権の勢力圏の拡大を知ることができる。
都出氏のような意見にもとづいて考古学者の多くは、このような考えをとっている。

「箸墓古墳が築かれた250年あたりに、古墳時代が始まった」
纒向遺跡には、「纒向型古墳」と呼ばれる箸墓古墳より古い5基の前方後円墳がある。それらの全長はいずれも278メートルの箸墓古墳の全長の約3分の1にあたる90メートル代である。
■古墳時代開始以前の古墳
最古の古墳は、220年頃につくられた纒向石塚(まきむくいしづか)古墳になる。今では、纒向石塚古墳の出現をもって古墳時代の開始とする説をとる者は少ない。
纒向遺跡にある箸墓古墳より前の5基の古墳は、「古墳時代開始以前の古墳」もしくは墳丘墓として扱われているのだ。
箸墓古墳が築かれてから纒向遺跡が消滅するまでの間に、纒向遺跡の近くに5基の大型前方後円墳がつくられた。
250年から330年頃までの間に、纒向遺跡の北方に渋谷向山(しぶやむかいやま)(景行(けいこう)天皇陵)古墳、行燈山(あんどんやま)(崇神(すじん)天皇陵)古墳、西殿塚(にしとのづか)(衾田陵(ふすまのだのみささぎ))古墳が築かれた。そして同じ時期に纒向遺跡の南方に、桜井茶臼山(さくらいちゃうすやま)古墳とメスリ山古墳が出来た。
ここにあげた5基の前方後円墳は、いずれも全長200メートルを超える古墳である、この5基と箸墓古墳をあわせた6基の古墳は、3代の大王と、その大王に仕えた3人の「王族の巫女(みこ)」を葬ったものだったとも考えられる。天照大神(あまてらすおおみかみ)の祭祀(さいし)を担当する斎宮(さいぐう)は、この「王族の巫女」の系譜をひくものだ。
■都市の南方に築かれた巫女の墓
倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ)が特に優れた巫女であったために、纒向の人びとは彼女の墓を都市の中につくり、自分たちの守り神として祀ったのであろうか。さらに、こういった推測もできる。

「倭迹々日百襲姫の没後の大王の墓は都市の北方につくり、巫女の墓は都市の南方に築いた」
纒向遺跡の北方に墓のある3代の大王が、『日本書紀(にほんしょき)』などに出てくる10代崇神天皇、11代垂仁(すいにん)天皇、12代景行天皇に相当する可能性もある。『日本書紀』などはこの3代の大王の時代に、2人の有力な巫女がいたと伝える。
その2人とは、崇神天皇の娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)と垂仁天皇の娘にあたる倭姫命(やまとひめのみこと)である。
『日本書紀』に、崇神天皇が宮中で祀っていた天照大神を笠縫邑(かさぬいむら)に遷(うつ)し、豊鍬入姫命にその祭祀を担当させたとある。
そして垂仁天皇の時代に倭姫命が、豊鍬入姫命に代わって天照大神を祀るようになったとも記されている。この倭姫命は、日本武尊(やまとたけるのみこと)に三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授けたことでも知られる。
ここにあげた3人の大王と2人の王族の巫女は倭迹々日百襲姫に対する敬意を表すために、纒向の都市の中に墓を作るのを避けたのだろう。
■古墳から出土した200キロの水銀朱
桜井茶臼山古墳は、メスリ山古墳より古い。そうだとすれば桜井茶臼山古墳が、崇神天皇の治世の後半から垂仁天皇の治世の前半にかけて活躍した「王家の巫女」を葬る古墳であった可能性も出てくる。
桜井茶臼山古墳は、豊鍬入姫命の墓だったのだろうか。今となっては、そのことを確かめるすべはない。しかし桜井茶臼山古墳が、ヤマト政権の特別重要な人物を葬っていたことは明らかだ。

平成22年(2010)に桜井茶臼山古墳から81面の銅鏡がまとまって出土した。そのなかの26面は、「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」と呼ばれる当時の最高の技術を用いてつくられた大型の鏡であった。
さらに令和5年(2023)になって、桜井茶臼山古墳の竪穴式石室(古墳の頂上に穴を掘って石で囲った空間を作ったもの)の壁や天井が真っ赤に塗られていたことが明らかになった。当時、貴重だった水銀朱(しゅ)(朱)が厚く塗られていたのだ。
桜井茶臼山古墳の石室に用いられた水銀朱の量は、200キログラムを超えていた。古代の日本で朱は、お清めに使われていた。赤い色には、悪霊を退ける力があると考えられていたからである。
豊鍬入姫命は、倭迹々日百襲姫が亡くなった後を承(う)けて、ヤマト政権を守る首長霊の祭祀を担当するようになったのであろう。そのような有力な巫女の墓が大量の水銀朱で飾られたうえに、副葬品としての多くの銅鏡が供された。
■宇陀や熊野の水銀鉱山を支配していた
赤色の顔料によるお清めの習俗の最盛期は、4、5世紀であった。その時代につくられた古墳の大部分に、赤色の顔料が用いられていた。
さらに古墳を飾る人物埴輪の目や口の周囲が赤く塗られていた例も多い。

古墳時代には、頬などに半円形などの模様を描いた人物の絵や彫刻が幾つか見られる。これは祭祀の時に、赤い顔料で顔に化粧した姿を表すものだともいわれる。
古墳時代の赤色顔料として、水銀朱とベンガラがあった。水銀朱の原料である辰砂(しんしゃ)は、古代に「丹(に)」と呼ばれた。「丹」が採れる所に、「丹生(にう)」の地名がつけられた例も多い。
水銀と硫黄(いおう)の化合物である硫化水銀が、辰砂である。これに対してベンガラは、酸化第二鉄から成る赤鉄鉱を主成分とした顔料である。
辰砂は猛毒の鉱物であり、赤鉄鉱はおおむね無害であった。しかし水銀朱は、ベンガラよりはるかに美しい。古代の朱は、大そう貴重であった。ベンガラはあちこちで採れるが、水銀の産地はそう多くないからだ。
九州に多くみられる装飾古墳の石室の内部を赤く塗った顔料の大部分が、ベンガラであった。
桜井茶臼山古墳のような、朱を贅沢に使った古墳は珍しい。
日本列島の水銀の鉱脈の多くは、近畿から四国にかけての「大地溝帯(フォッサマグナ)」にある。日本の本州を横断し、東北日本と西南日本を分ける火山帯が、「大地溝帯」である。
この大地溝帯のなかの最大の水銀鉱山の1つが、奈良県宇陀(うだ)市にある大和(やまと)水銀鉱山である。
熊野(くまの)地方にも、水銀朱の採れるところが多い。ヤマト政権は早い時期に、宇陀や熊野地方の水銀鉱山を支配した。そこを開発して、水銀朱を手広く交易するようになったのであろう。
■不老長寿の霊薬としても用いられた
ヤマト政権から朱を入手した各地の豪族が4世紀に自分たちの古墳を、水銀朱の赤色顔料で飾るようになっていった。このような朱は、海外との貿易でも用いられたとみてよい。
水銀は、金メッキの触媒として欠かせない。また中国では、水銀は不老長寿の霊薬としても用いられた。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の中に、倭国の「山には丹(水銀朱)がある」という文章が見える。
また『魏志倭人伝』の倭人の習俗を記した部分に、このように記されている。
「倭人は朱丹(しゅたん)を体に塗っている。それは中国の白粉(おしろい)のようなものである」
こういった記述は、古代中国の人びとが倭国の水銀に強い関心をもっていたことをうかがわせる。
ヤマト政権は多くの水銀鉱山を経営し、そこから採れる朱を各地の豪族や朝鮮半島の小国と交易していたと考えられる。あるていどの量の朱は、朝鮮半島の小国を経由して中国に持ち込まれたのではあるまいか。
■250年に「倭国の交易の核となる都市」に
初代天皇となった磐余彦(いわれびこ)(神武(じんむ)天皇)が、熊野を出て吉野(よしの)を通り、大和の宇陀に入ったとする伝説がある。これはヤマト政権が早い時期に、宇陀や熊野の水銀鉱山を征服したことを踏まえてつくられた物語であるのかもしれない。
箸墓古墳が築かれた250年あたりの段階で纒向は、「倭国の交易の核となる都市」としての地位を確立していたと考えられる。
その時点で九州北部を経由して、大量の青銅器や青銅の素材が纒向に入ってくるようになっていた。そしてヤマト政権は、朱や農工具などの独自の商品も持っていた。
倭迹々日百襲姫の没後に、ヤマト政権は纒向の都市を拡大し、前方後円墳による身分秩序を定めて地方豪族を編制していった。このようなヤマト政権の発展が一段落したところで倭迹々日百襲姫の後を嗣(つ)いだ巫女のための桜井茶臼山古墳が築かれた。
近年の調査によってこの桜井茶臼山古墳に、南あわじ市の沼島(ぬしま)でしか採れない石材が用いられていたことが明らかになった。沼島とは淡路島の南岸にある小島である。
淡路島で松帆銅鐸(まつほどうたく)を残した集団が、3世紀末にヤマト政権に従っていたことになる。かれらは自分たちの勢力圏の石材を、わざわざ大和まで運んだのだ。

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武光 誠(たけみつ・まこと)

歴史学者

1950年、山口県生まれ。東京大学文学部国史学科卒業。同大学院博士課程修了。文学博士。2019年に明治学院大学教授を定年で退職。専攻は、日本古代史、歴史哲学。著書に『渡来人とは何者か』『一冊でわかる仏教とお寺』(河出書房新社)、『古代史入門事典』(東京堂出版)、『図説 ここが知りたかった!神道』『日本史を生き抜いた長寿の偉人』(小社刊)などがある。

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(歴史学者 武光 誠)
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