本能寺の変はなぜ起こったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「主要因とされるのは長宗我部元親をめぐる『四国説』だ。
そこでは、首謀者の明智秀以上にメンツをつぶされた武将がいた」という――。
■本能寺の変の最大の原因とされる「四国説」とは
織田信長(小栗旬)は、土佐(高知県)を統一した長宗我部元親(磯部寛之)に、四国全土を自由に切り取って(征服して)いいと、明智光秀(要潤)を通して伝えていた。ところが、天正9年(1581)になって突然、方針を変更した。
信長は、これまで敵対していた阿波(徳島県)の三好一族の訴えを聞き入れ、臣従した彼らに阿波を治めさせる代わりに、長宗我部との約束は反故にした。そして、方針が変わったので、四国の切り取りをあきらめるように、光秀に元親を説得させた。だが、元親は、これまで膨大な労力を費やした事業をいきなり中止にすることを、断固として拒んだ。
これを受けて信長は四国の討伐を決断し、三男の信孝(結木滉星)に準備を、今井宗久(和田正人)に鉄砲の調達を命じた――。このように光秀が、信長と元親のあいだに挟まって苦慮する姿が描かれたのは、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第26回「信長を笑わせろ!」(7月5日放送)だった。
長宗我部家の「取次」(仲介役)を務めていた光秀が、信長の四国戦略の変更によって苦慮し、それが本能寺の変の最大の原因になったという「四国説」は、光秀が謀反を起こした動機として、現在、もっとも有力視されている。
それがドラマでこれほど正面から取り上げられたことは、なかったかもしれない。感情的な私怨に落とし込むケースが多いなかで評価できる。ただ、「四国説」は光秀だけが苦慮したという話ではない。
むしろ、光秀以上に追い詰められた家臣がいて、光秀にはその家臣を慮る義務があった。そんな事情もあったのである。
■斉藤利三の重要な役割
「豊臣兄弟!」も第27回「本能寺の変」(7月12日放送)からは、光秀の筆頭家老の斎藤利三(内藤剛志)が重要な役割を果たすようだ。天正10年(1582)6月2日未明、光秀は利三に「みなに伝えよ、出陣じゃ。これは上意である。敵は本能寺にあり」と伝える。それを受け、利三は軍勢を率いて本能寺に宿泊する信長を襲撃する。
ドラマの斎藤利三が、この襲撃にどれくらい前のめりに描かれるかわからないが、史実においては積極的だったと思われる。それには複数の理由があった。
最初の理由は、前述の「四国説」と強く結びついている。というのは、利三は縁戚関係で長宗我部家と深く結びついていたのである。
長宗我部元親の妻は、美濃(岐阜県南部)の豪族出身で室町幕府の奉公衆だった石谷光政の娘である。
この石谷家と斎藤利三が深い関係にあった。というのは、光政は利三の母の再婚相手だったから、光政は利三の義理の父に、元親の妻は義理の妹に該当した。また、利三の実兄は光政の養嗣子となって石谷頼辰を名乗り、光政の娘を娶っていた。
このように石谷家は斎藤家とほぼ同体で、その石谷家は元親との婚姻関係を通じて長宗我部家と切っても切れない関係にあった。
■長宗我部との難交渉
最初はこの関係がうまく機能した。光秀は斎藤利三が元親と縁戚関係にあればこそ、信長から長宗我部家の取次を命じられ、その当時は大坂本願寺(大阪市中央区)を後方支援して信長をてこずらせていた阿波の三好一族を、元親を通じて牽制できた。光秀も利三も、この縁戚関係がゆえに、信長から評価されたのである。
天正6年(1578)10月、元親の嫡男は信長から「信」の字を偏諱(へんい)としてあたえられ、信親と名乗ることになった。このころは信長と元親の戦略が一致し、それをつないだのが光秀だったから、光秀は鼻高々だったはずである。さらに細かくいえば、両者のあいだを直接的に取り持っていたのは斎藤利三で、現場での交渉役は実兄の石谷頼辰だった。
いわば、光秀は筆頭家老たる斎藤利三の縁戚関係のおかげで、自分が織田家中で存在感を示すことができ、利三は一族を総動員することで、光秀の御恩に対して奉公することができた。
ところが、信長の方針転換で状況は一変した。
とりわけ利三にとっては、斎藤家と石谷家の存立基盤であった長宗我部家に対して、筋の通らない話をぶつけて、受け入れさせなければならないことになったのである。
■信長に振り回され続ける
元親の嫡男に「信」の字をあたえた3年後の天正9年(1581)、信長は元親に、土佐一国と阿波南部の2郡の支配は許すから、制圧したそれ以外の領土は差し出すよう命じた。これに元親が難色を示すと、さらに条件を厳しくし、統治を許すのを土佐一国に制限した。
これに対して光秀と利三は、長宗我部家を存続させるためにも信長の命令に従うように必死の説得を試みている。さすがの元親もそれなりに観念したようだ。平成26年(2014)に発見された『石谷家文書』には、本能寺の変のわずか10日ほど前、元親から利三宛てに譲歩案が送られてきたと書かれている。その内容は、阿波からの撤退は検討するが、阿波の一部の城だけは自分のものとして残せないか、というものだった。
ところが、信長はそれを無視し、三男の信孝を総大将にして四国への出兵を決めてしまう。光秀と利三はそれまでも大いに苦慮させられてきた。だが、元親の討伐を目標とした四国出兵となると、もはや次元が異なる。利三にとっては、一族の拠り所が滅ぼされることを意味した。
ここまでが、斎藤利三が信長の襲撃に前のめりになった理由の1つ目である。

■変の5日前にあった切腹命令
加えて、『当代記』などの史料によれば、本能寺の変の直前、斎藤利三は信長から切腹を命じられていたという。経緯は以下のとおりだ。
利三は美濃の斎藤家に連なる家柄で、その支配下にあった西美濃三人衆の一人で、信長に寝返った稲葉一鉄に仕えていて、ある時期、光秀に引き抜かれ、筆頭家老にまで引き上げられていた。その後、光秀は、稲葉一鉄の家老の那波直治も家臣にしたが、光秀に2人も家臣を引き抜かれた一鉄は反発。信長に泣きつくと、信長は光秀に、直治を稲葉家に返すように言い渡した。
光秀が直治を引き抜いた際に仲介したのが、元稲葉家家臣である利三だったのだが、なんと信長は、光秀の筆頭家老となっていた利三に切腹を命じてしまう。周囲の取り成しもあって切腹は免れたものの、信長に対する利三の不信感がさらに高まったことは、想像に難くない。
■明智光秀の置かれた立場
ところで近年、本能寺に宿泊する信長を襲撃したのは利三で、光秀は8キロほど離れた鳥羽(京都市南区)にいたという記述が、加賀藩の兵学者だった関屋政春がまとめた『乙夜之書物』のなかに見つかった。斎藤利三の三男で、父と一緒に本能寺を襲撃した利宗が語ったことを、甥の井上重成が書き留めた内容なので、信憑性は高いと思われる。
〈本能寺ヱハ明知弥平次斎藤内蔵人数弐千余キ指ムケ、光秀ハ鳥羽ニヒカヱタリ(本能寺へは明智秀満と斎藤利三が率いる2000余騎を差し向け、光秀は鳥羽に控えていた)〉というのだが、自分の手で信長を討ちたいという利三の思いがくみとれるようだ。
実際、同書によれば、前日に光秀が謀反を打ち明けると、利三は「これまで謀反をずっと延期してきた。先鋒は私が務める」と主張したという。
いつからなぜ延期したのかわからないが、利三が前のめりだったことは伝わる。
では、光秀はどんなスタンスだったのか。むろん光秀自身、信長の四国政策の変更で大いに苦慮したが、利三にくらべればマシだったといえる。というのも、利三の場合は、それが一族の滅亡にもつながりかねなかった。
戦国大名の領国統治にとっては、家臣団または軍団こそが命綱だった。その結束が崩れれば、統治することも戦争を遂行することもできなかったからである。このとき光秀の軍団では、その要である筆頭家老の斎藤利三が、一族が滅びかねないほどの危機に追いやられていた。しかも利三自身が、信長から切腹を命じられるほどの事態も生じていた。
斎藤家を守ることが明智家を守ることだ、という戦国の常識に照らすと、光秀が信長を討った理由も、直接手を下すのは斎藤利三にまかせた理由も、見えてくるように思う。

----------

香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。
著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

----------

(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
編集部おすすめ