■信長は“無防備”だったのか
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。第27回(7月12日放送)のタイトルは「本能寺の変」。そう、またまた本能寺が燃えるのである。
なにしろ大河ドラマで本能寺が燃えるのは、ほとんどお約束のようなもの。「どうする家康」以来3年ぶり、通算17回目の炎上である(セリフのみで処理された「独眼竜政宗」などは今回、集計から除外している)。日本史上、これほど繰り返し燃やされてきた寺も珍しい。
しかも、燃えているのはドラマの中だけではない。本能寺は1536年の天文法華の乱で延暦寺の僧兵らに焼き討ちされて炎上。天文14年(1545年)に四条西洞院の地に再建されるも、1582年、ご存じ本能寺の変でまたも炎上。変の後、秀吉の命で現在地(寺町御池)に移転するが、1788年の天明の大火で三たび炎上し、さらに幕末の1864年、禁門の変のどさくさで四たび炎上している。
さて、ドラマでも史実でも、本能寺の変で必ず語られる疑問がある。なぜ信長はあんなに無防備だったのか。五万を率いる柴田勝家も、二万を率いる秀吉も遠い戦場にいる中、信長の供回りの数は少なかった。『信長公記』には「御小姓衆2、30人を召し列れられ、御上洛」とあるから、本当に少人数、軽装で滞在していたことがわかる。
では、秀吉の要請に応えて中国へ向かうはずの信長は、なぜ、こんなに少人数で京都に何日も滞在していたのか。
■軽装で出かけた信長、油断していたのか
通説はシンプルだ。「毛利討伐に向かう途中、京都で名物茶器の茶会を楽しむつもりだった。だから油断していた」。
しかし、本当に信長は油断していたのか。
この「油断」という言葉の扱いは難しい。安土から京都までの距離はわずか。
そこで、今回は信長がなぜ軽装で出かけることを決断したのか、から考えて行きたい。
実のところ、信長が少人数で京都まで出たのは理にかなっている。『信長公記』は、この顛末を次のように記している。
芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり。信長公、此等の趣聞こしめし及ばれ、今度間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候間、御動座なされ、中国の歴々討ち果たし、九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、上意にて、堀久太郎御使として……(『戦国史料叢書 第2』人物往来社、1965年)
筆者訳:
安芸から毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が軍勢を率いて出てきて、(秀吉軍と)対陣している。信長公はこの報告をお聞きになり、「今回これほど間近に敵が寄り集まってきたのは、天が与えてくれた機会である。だから自分自身が出馬し、中国の名だたる連中を討ち果たし、そのまま九州まで一気に平定を申し付ける」とのご意向で、堀久太郎(秀政)を使者として秀吉のもとへ遣わされた。
■軍勢が整うのを待っていた
いきなり九州まで進出というのは、いささか大げさだが信長も、備中高松城での戦いを毛利を完全に屈服させるよい機会と考えていたのは確かであろう。すぐに明智光秀のほか、池田恒興や高山右近などにも出陣の命令が下っている。
信長は好機とみているが、信長の動きには意外に時間がかかっている。安土城を出発したのは5月29日の早朝のことである。
信長の上洛を知った公家らは出迎えにいくが、迎えは無用であるとの返事を受けて公家らが引き返したと吉田神社(京都市左京区)の神官・吉田兼見の『兼見卿記』には記されている。
ここからの数日、信長は公家や僧侶、町人などの訪問を受けて、時には歓談をしている。この間、勧修寺晴豊の日記には出陣が6月4日とも言及されている。つまり、この時点で信長は安土城から出陣したのではなく、京都で準備をしている段階だったことがわかる。
つまり、口だけとはいえ「このまま九州まで」などといってるわけだから、やる気満々で西へ急いでいるのかと思いきや、軍勢が整うのを待っていたわけだ。しかし、信長は漫然とまっていたわけではない。というのも、出陣するなら、その前に片付けなければならない問題が、山積みだったのだ。
■茶会・暦・三職推任…京都でしか片付けられない問題
まず茶の湯である。信長は上洛にあわせて、安土から名物茶器38点をわざわざ京都へ運ばせていた。6月1日には博多の豪商・島井宗室らを招いて茶会を開いているが、これは単なる遊興ではなく、さまざまな交渉の場でもあった。
さらに大きいのが、暦の問題である。この年、信長は朝廷の宣明暦と尾張で使われていた三島暦のどちらが正しいかを討論させ、2月に宣明暦でいったん決着させていた。ところが、宣明暦が日食を予測できていなかったことから、問題は蒸し返される。朝廷の専権事項である暦にまで、信長は意見しなければならなかったわけだ。
これに加えて、いわゆる「三職推任」問題がある。朝廷が信長に太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに就任するよう打診していたというものだ。信長がどう返答するつもりだったかは謎のままだが、早く解決しなければならない問題だったのは間違いないだろう。
こうした問題を処理するには、安土城ではいささか遠い。出陣の準備を口実に京都に滞在して処理するのは、効率的だった。
■本能寺にあった塀や堀、町そのものが巨大な要塞
そんな問題を解決する際の宿泊所として、本能寺を選択したのは正しかったのか。
結果的には光秀に攻められてしまったことを知っている我々は、それが間違いだったとも考えてしまう。
まずは、その防御力の高さである。最近では、本能寺が塀や堀などの防御機能を備えていたことが明らかになっている。しかし、それは京都の街中に、ちょっとした城のような施設がぽつんとあった、という話ではない。この時代、京都の町そのものが巨大な要塞になっていた。本能寺は、そんな城塞都市の中に存在していたのだ。
そもそも、京都の人々が敵から身を守るために街中に堀をめぐらすことは、応仁の乱の初期から始まっていた。
河内将芳『信長が見た戦国京都 城塞に囲まれた異貌の都』(洋泉社、2010年。のち法藏館文庫)は、当時の日記類を基に、戦火から我が身と財産を守るため、権力者や町人たちの手によって、京都のあちこちに堀が掘られていったことを明らかにしている。中でも河内氏が紹介する『皇年代私記』の記述によれば、一条大路の東西両陣のあいだに掘られた堀溝は「口二丈、深さ一丈」。つまり、現在も京都市内を走る一条通に、幅約6メートル、深さ約3メートルの堀が横たわっていたというわけである。
■戦国時代に求められた“防御”
応仁の乱が終結すると、こうした堀は埋め戻され、旧来の条坊制に基づいた都市の復興が図られることになった。
そうなれば、必要とされるのは防御である。河内氏は、『後法興院記』に「要害として京中堀、京兆より下知を加うとうんぬん」……管領・細川政元が「要害」として京中に堀を掘るよう命じた、とあることを基に、この時期、京都に再び堀が掘られるようになったことを指摘している。
こうして造られたのが「惣構」と呼ばれる防御施設である。これは、堀や柵を張り巡らして、町や村をすっかり囲んでしまうというものである。それが、戦国時代の京都の町に存在していたのである。
河内氏は、その様子がもっともわかりやすい史料として『上杉本洛中洛外図屏風』を挙げる。
四条坊門西洞院(四条坊門小路と西洞院大路の交差したところ)あたりを見てみると、西洞院側を自然の堀として利用しながら、西洞院大路の東側に土塀が長く四条坊門小路まで続いていたことがわかる。しかもその土塀には、三条大路と四条坊門小路に木戸門、または六角小路に櫓門が備えられていたことも見て取れる。
■城塞の中にあった本能寺
ここで注意したいのは、京都の惣構は町全体を一つの城壁で囲ったものではなかった、という点である。当時の京都は、御所や幕府関連の施設が集まる「上京」と、商工業者の町である「下京」という、二つの市街地に分かれていた。両者は室町小路一本でつながってはいるものの、間には田畑が広がる、いわば二つの都市である。
惣構も、上京と下京それぞれが別個に構えていた。とりわけ下京の惣構が鍛えられたのが、天文年間である。1532年からの数年間、京都の町政は法華宗の門徒たち、いわゆる法華一揆が主導していた。一向一揆や周辺勢力との緊張の中で、町人たちは自らの手で堀をつくり、土塁を築き、町を固めていく。
そして1536年、延暦寺の大軍が京都に攻め寄せた天文法華の乱で、この惣構は実戦を経験することになる。結果は法華宗側の敗北。下京は戦火を免れたものの、上京の大半と洛中の法華寺院21カ寺はことごとく焼け落ちた。冒頭で触れた、本能寺一度目の炎上である。そして1545年、焼け出された本能寺が再建の地に選んだのが、下京惣構の内側、四条西洞院の一角だった。つまり本能寺は、そもそもの立地からして、要塞都市の中に建てられた寺だったのである。
現在の京都といえば、京都駅を降りれば、高層ビルこそないものの、盆地いっぱいに市街地がひしめきあっている。そのため「戦国時代の京都」というと、うらぶれてはいるが町屋や崩れた屋敷が延々と連なっているような姿を想像してしまう。
それは、大きな間違いだ。戦国時代の京都は、盆地のほとんどを荒れ地や田畑がしめ、僅かに上京と下京の町が城塞のように守りを固めて存在していたのである。
■発掘調査が示した“守りの堅さ”
この下京惣構と本能寺の実像は、2002年以降、旧本能小学校の跡地での発掘調査によって、下京惣構の濠が確認されたこともあり次第に明らかになってきている(『平成19年度 財団法人京都市埋蔵文化財研究所年報』)。
以降、断続的に続いている調査報告書では、興味深い指摘をしている。
『寛永一四年洛中絵図』などに書かれた江戸時代初期の西洞院通は、四条坊門以北では通り西側の敷地が東に張り出している。すなわち西洞院川に接しており西洞院の路面は東側にしかない。しかし、四条坊門以南では一四町側の敷地に変化はなく川は道路中央に位置している。このような地形の変化は今回検出した川の改修・整地に起因するものと思われ、この埋立と敷地の東側への拡幅が、この地における本能寺の造営と関連する可能性は高い(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告2007-11「平安京左京四条二坊十五町跡・本能寺城跡」財団法人京都市埋蔵文化財研究所、2008年)
ようするに、本能寺が建つ区画だけ、西洞院川が改修され、敷地が東へ拡幅された痕跡があるというのだ。本能寺は、惣構の内側という好立地にただ入居しただけではない。移転にあたって川筋にまで手を入れ、土地そのものを作り変えていた可能性がある。
こうしてみると、本能寺がかなり堅い守りの中にあったことは明らかだろう。惣構という都市ぐるみの防御に、川と堀と土塁。しかも河内氏によれば、当時の京都では夜になると街路が木戸で閉ざされ、町自体も、時には武士を追い返す程度の武力を備えていた。信長が小姓衆だけで滞在するのに、これほど適した場所はなかったといえる。
■要塞のはずが、信長を閉じ込める“檻”に
冒頭の問いに戻ろう。信長は油断していたのか。答えはこうなる。信長は無防備だったのではない。出陣までの数日間、京都でしか片付かない宿題を処理するために、京都でもっとも守りの堅い一角を選んで滞在していた。判断としては、むしろ合理的ですらあった。ただし、その守りには一つだけ穴があった。堀も土塁も木戸も、外から来る敵を防ぐためのものである。一万三千の軍勢が「味方」の顔をして洛中に入ってくることまでは、想定されていなかった。
光秀は、百年かけて築かれた京都の防御網を、戦うことなく通過した。堀と土塁に囲まれた一角は、外敵を阻む要塞から、信長を閉じ込める檻に変わったのだ。
「是非に及ばず」という言葉は、絶望の叫びというより、正確な状況判断だったのかもしれない。守りの堅さを見込んで選んだ宿所である。その守りが敵の手に落ちた以上、もはや、あれこれ論じても仕方がない。信長は最後まで、合理の人だった。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)

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