「本物の豊かさ」とはなにか。富裕層マーケティングを長く手掛ける西田理一郎さんは「“寿司屋の選び方”という一つのレンズを通すことで、答えが見えてくる。
海外の高級寿司屋で一晩数百万円を溶かす“新興の富裕層”がいる一方、まったく別の選択をする富裕層もいる。見栄やステータスでの消費をとうの昔に卒業し、成熟の域に達したトップエリートたちが行きついたのは、意外な場所だった」という――。
■「高級寿司」はハレの日に
われわれ日本人にとって、寿司という食べ物は極めて特殊な位置づけにある。普段は一皿100円の回転寿司チェーンで合理的に胃袋を満たしながらも、「特別な日には回らない寿司屋に行きたい」という強烈な憧れを抱いている。
日々の仕事に追われながら堅実に生きる多くのビジネスパーソンにとって、客単価1万5000円から3万円の高級な鮨屋の暖簾をくぐることは、誕生日や結婚記念日、あるいはプロジェクトの打ち上げなど、年に数回の「ハレの日」のイベントである。
数カ月前から予約を入れ、緊張しながらカウンターに座り、職人の手元を見つめる。そして、目の前に出された美しいウニや大トロの握りをスマートフォンで撮影し、「最高の記念日になった」「自分へのご褒美だ」と満足して店を後にする。
この消費行動自体は、何ら否定されるべきものではない。自らが汗水垂らして稼いだお金で、大切な人と美味しいものを食べ、非日常の空間を楽しむ。それは極めて健全で、ささやかで美しい幸せの形である。
マーケティングの観点から見れば、彼らは「コストパフォーマンス」と「ハレの日の特別な体験」というバランスの中で、極めて合理的な消費を行っているマジョリティ層だと言える。
しかし、世の中にはこの常識や金銭感覚がまったく通用しない、バグのような別世界が存在する。
それが、一晩の食事に数百万円という途方もない金額を平然と投じる「新興富裕層」たちの世界と、そこからさらに独自の境地へと達した「成熟した富裕層」たちの世界である。
鮨屋の選び方という一つのレンズを通すことで、人が持つ資産の多寡だけでなく、「本物の豊かさとは何か」という教養と知性の残酷なまでの差が浮き彫りになるのだ。
■「一晩400万円会計」シンガポール高級店の実態
金融街のエリートや、暗号資産で巨万の富を得た新興の成功者たちが集う海外の超高級鮨店。たとえばシンガポールなどの最高級ホテルに入る日系の鮨店では、にわかには信じがたいスケールの会計が日常的に叩き出されている。
カウンター数席の個室を貸し切り、一晩で支払われる金額が「400万円」に達するようなケースだ。
極上のマグロやウニを世界中から空輸しているとはいえ、魚と米の原価だけで数百万になることは物理的にあり得ない。
彼らは一体何に対してそれほどのお金を払っているのだろうか。
会計の大きな内訳を占めるのは、ロマネ・コンティをはじめとする超高級ワインや希少なシャンパンの代金である。彼らは、繊細な江戸前鮨のカウンターに何本ものグラン・クリュ(特級畑)のワインを持ち込み、次々と栓を抜いていく。
彼らが買いたいのは、鮨の純粋な「味」ではない。巨額の資金を投じて買っているのは、「カウンターという閉鎖された密室空間での圧倒的なライブ感」であり、「日本から招聘された一流職人を自分たちだけで独占しているというステータス」であり、それを可能にする「自分たちの圧倒的な購買力の証明」なのである。
■資産家としては間違いなく「成功者」だが…
目の前で職人が刃を振るい、極上の素材が鮨へと姿を変えていく。
その神聖な儀式のような空間を、超高級ワインのアルコールとともにある種の「エンターテインメント・ショー」として消費する。これこそが、自己顕示欲と承認欲求に突き動かされた新興層の行動原理である。
彼らは資産家としては間違いなく成功者だ。しかし、富裕層マーケティングの視点から見れば、彼らの行動は「誰もが分かりやすい高価な記号(高級店、高級ワイン)」を足し算しているにすぎない。ステータスを誇示するためにお金を使っているうちは、本質的な文化へのリスペクトは育たず、最終的に残るのは「高い金額を支払った」という領収書の事実だけである。
一口に富裕層と言っても、まったく別の世界もある。
見栄やステータスでの消費をとうの昔に卒業し、成熟の域に達したトップエリートたち――いわゆる「オールドマネー」と呼ばれる代々の資産家や、教養を備えた本物のエグゼクティブたちは、シンガポールで400万円のワインを開けることにも、銀座で予約半年待ちの高級店でマウンティング合戦をすることにも興味を持たない。
では、彼らは一体どのような鮨の食べ方をするのか。
■プライベートジェットで向かう先
彼らが冬になると、新幹線やプライベートジェットに乗ってまでわざわざ目指す場所がある。
それが、富山県の氷見(ひみ)をはじめとする地方の港町の鮨屋である。
訪れるのは、一人数万円もするような煌びやかな高級店とは限らない。地元の人々も足を運ぶような、一見すると大衆的で、庶民にも手が届くような価格帯の店であることも珍しくない。
それは決して「コスパが良いから」ではない。数百万円の交通費と宿泊費という見えないコストをかけてまで、わざわざ富山へ足を運ぶのには、極めて知的でダイナミックな理由が存在する。
彼らが求めているのは「美味しい寒ブリ」という“結果”だけではない。「奇跡の地形で育まれた究極のエネルギー」そのものを、現地で直接摂取しに行っているのである。
ここで、少しだけ地理の授業のような話にお付き合いいただきたい。富山湾がなぜ「天然の生簀(いけす)」と呼ばれるのか、その理由を知れば、成熟した富裕層たちが何を面白がっているのかが見えてくる。
■「4000mの壮大な大自然の循環システム」
富山県には、標高3000m級の立山連峰がそびえ立ち、そこからわずか数十kmという極めて短い距離で、水深1000m以上にも達する富山湾の深海へと急激に落ち込んでいく特異な地形がある。冬になり、立山連峰に降り積もった大量の雪は、やがて雪解け水となり、広大な森林の豊かな腐葉土を通ってたっぷりと有機質(ミネラル)を蓄えながら、海へと一気に流れ込んでいく。
このミネラル豊富な雪解け水が、富山湾の複雑な海底谷の地形と交わり、プランクトンを爆発的に発生させる。そして、その豊富なエサを求めて、ブリをはじめとする多種多様な魚たちが定置網に飛び込んでくる。つまり、目の前の一貫の鮨は、3000mの山頂から1000mの海底に至る「4000mの壮大な大自然の循環システム」が作り出した、奇跡の結晶なのである。
成熟した富裕層たちは、この地球科学的、あるいは地理学的なメカニズムという「圧倒的な情報(コンテクスト)」を事前にインプットしている。

その上で、冷たい冬の空気を感じながら富山のカウンターに座る。「なるほど、あの雪山から流れ込んだ水が、この脂の乗った寒ブリを育てたのか」と、大自然のエネルギーの循環を脳内で立体的に想像し、職人の丁寧な仕事に敬意を払いながら、その一貫を口に運ぶ。
彼らは舌の上の味蕾(みらい)だけで味を判断しているのではない。圧倒的な知識と情報、そしてその土地の空気感という「文脈」を総動員して、「脳で理解しながら食べている」のである。
これこそが、お金だけでは決して到達できない、教養と知的好奇心に裏打ちされた「超一流の知的ガストロノミーツーリズム」の真髄だ。
■なぜ海外VIPが鮨に魅了されるのか
西洋由来のラグジュアリーブランドや高級フレンチは、金箔やトリュフ、煌びやかなシャンデリアなど、豪華な要素を次々と積み重ねる「足し算の美学」で価値を創出してきた。シンガポールで400万円を支払い、高級ワインの酔いの中で職人を独占することに優越感を覚える新興層の消費行動は、この足し算の極致にある。
一方、日本の鮨や和食の文化は、極限まで無駄を削ぎ落とした「引き算の美学」である。白木のカウンターに、米と魚という最もシンプルな要素だけが置かれる。ごまかしの利かないその削ぎ落とされた空間において、最高の価値を生み出すのは「その食材がどこで、どのような自然の摂理(奇跡)によって育まれたか」という目に見えない情報だ。
海外のVIPたちが最終的に西洋の足し算のラグジュアリーに飽き、日本の和食や地方のガストロノミーに熱狂するようになるのは、この「削ぎ落とされた本質に自らの知性でアクセスする」という、より高度な知的好奇心を満たしてくれるからである。
数百万円の旅費をかけて地方の港町へ赴き、一杯の地酒とともに、目の前の一貫に凝縮された奇跡の地形の物語を読み解き、大自然のエネルギーを取り込む。

どちらも同じ「鮨を食べる」という行為に変わりはない。しかし、そこに投じられた資産の使い道と、得ている体験の質(解像度)には、天と地ほどの差がある。
■「本物の豊かさ」とは何か
資産だけでは評価できない「本物の豊かさ」とは何か。
それは、いくら高額なお金を払えるかという購買力の競争ではない。目の前にある事象の裏側にどれだけの壮大な物語を読み取ることができるか、そして、自らの足を使ってその本質に触れに行く「知的好奇心の深さ」に他ならない。
世界を知り尽くした真のエリートたちが最終的に行き着くのは、見栄やステータスの足し算ではなく、本質だけを抽出し、脳で味わうという究極の引き算の美学なのである。
もしあなたに、冬の週末に少しの時間ができたなら。新幹線の切符を買い、富山を目指してみてはいかがだろうか。そこには、数百万のワインを開けても決して手に入らない、本物の豊かさが待っているはずだ。

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西田 理一郎(にしだ・りいちろう)

価値共創プロデューサー、ディープルート 代表取締役

富裕層向けブランド体験の「物語」を紡ぐナラティブ・マーケティングをプロデュース。また、情報伝達を超えた行動を仕組化し、個の全盛時代において、ラグジュアリー市場での持続的成長を実現する知の「価値共創」戦略を構築する。プレミアムブランドの世界観を体現する戦略的プラットフォームの商品化を手がけ、ミシュラン・ガストロノミーから超高級ライフスタイルまで、文化的価値を経済価値に転換するマーケティング、ブランディングを専門とする。
「to create a Real LIFE 敏腕マーケターが示唆するこれからの真の生き方とは」「Life is a Journey」「食と文化の交差点 ガストロノミーへの飽くなき情熱」などのメディア掲載・連載を通じて真のラグジュアリーとは「所有」ではなく「体験」であり、その体験に宿る物語こそがブランド価値の源泉である――という信念のもと、富裕層マーケティングの新境地を開拓し続けている。主要著書に『予測感性マーケティング』(幻冬舎)、『アフターコロナ時代のトラベルトランスフォーメーション』(ゴマブックス)、『GRAND MICHELIN ミシュラン調査員のことば[特別編集版]』(アンドエト)がある。個人サイト

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(価値共創プロデューサー、ディープルート 代表取締役 西田 理一郎)
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