大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)でも本能寺の変発生時の場面として描かれた秀吉(池松壮亮)の備中高松城攻め。古城探訪家の今泉慎一さんは「秀吉が備中高松城の周囲に水を引き込むためには、国境の山城を落とす必要があった」という――。

■前例のない斬新な戦法「水攻め」
第20回:備中高松城・宮路山城(岡山県岡山市)
浮き世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して――。
1582(天正10)年6月4日、清水宗治(しみずむねはる)は舟上にて見事に切腹を遂げた。そのあまりに見事な散り際に、敵将・羽柴秀吉もいたく感動し、後年「宗治は武士の鑑であった」と語ったという。
秀吉の中国攻めの中でも、三木城攻め、鳥取城攻めと並び有名な備中高松城攻め。長大な堤防を築く前代未聞の水攻めの末、宗治の切腹で幕を閉じた展開もご存じの方は多いだろう。
結果的にはその地形を逆手に取られたわけだが、実は低湿地の城は案外手強い。沼に足をとられるため、攻め手の勢いは完全に無力化されてしまうからだ。足軽はもちろん、騎馬隊などはほとんど意味をなさなくなってしまう。平地で見通しも良ければ、スピードを奪われた敵を各個撃破するのも容易だ。
■備中高松城を12日の工事で沈めた
備中高松城(図表2:①岡山市北区高松558-2)は、南西側に開けた扇状地にあった。三方は山、ということはもう一方を塞げば水没が可能だ。と、秀吉は考えたのだろう。
ただしその幅は3kmもある。高さ7~8mもある築堤を、秀吉は12日間で一気呵成に完成させたという。
こういう時の秀吉の決断力と実行力は抜群だ。だが、この決断は決して「いちかばちか」ではなく、れっきとした裏付けがあった。
■作戦の根拠は、ある城の存在
秀吉がなぜ、前代未聞の「水攻め」を決意できたか。この戦いの布陣図を見てみれば、そのヒントが隠れている。
水攻めを成功させるには、築堤と山で四方を囲んだだけでは足りない。その中にいかに大量の水を引き込むかが鍵となるが、備中高松城の西側には、ちょうど足守川が流れている。築堤によってこの川の流路を東に曲げれば、見事に備中高松城一帯を水没させられるのだ。
この戦いの終盤、秀吉本陣は高松城の東側にあった。この石井山陣に移ったのはちょうど、築堤が完成した頃。「これで勝ち確」と確信して、それ以前の竜(龍)王山陣から前進したのだろう。

■なぜ宮路山城が重要だったのか?
ところで、先ほどの布陣図をもう一度見てほしい。足守川を挟んで毛利方の各陣と向かい合っているが、注目すべきは北の端、足守川の上流方面だ。備中高松城から北北東に約6kmのところにある宮路山城(図表2:②岡山市北区大井2485)。この城の攻防戦こそが、秀吉の水攻め決行を裏付ける大きな要因となったのだ。
宮路山城の重要性もやはり、地形を見ればよくわかる。備中高松城の西側を北から南へと流れ、水攻めに欠かせない足守川が、平野へと流れ出すそのとば口にあたるのが、宮路山城のあるあたり。両側から山が迫り、キュッと狭くなっている。
水攻めを成功させるには、豊富な水が不可欠。それをもたらしてくれる足守川を眼下に睨む位置にあるのが宮路山城。ということは、もうおわかりだろう。この地を制さなければ、水攻めは成功に導けないのだ。極端な話、この足守川のとば口を塞いでしまえば下流に水は供給できなくなってしまう。

実はこのとば口を睨む城がもうひとつある。宮路山城と川を挟んで東側のピークにある鍛冶山城(図表2:③岡山市北区足守3010-2)だ。
鍛冶山城は元々、毛利家が押さえていたが、備中高松城攻めの頃には宇喜多家に奪われていたという。当時の宇喜多家は織田方なので、川を挟んで二城が睨み合っていたわけだ。そうなると、毛利家も容易に川を堰き止めたりもできないだろうが、いざ備中高松城がピンチとなれば、決死の覚悟で敢行しないとも限らない。あるいは先を見越して、鍛冶山城を奪取してしまう可能性だってある。
いずれにせよ、目障(めざわ)りな存在である宮路山城は、攻略すべきだ。ではその城の実態はというと、これがとんでもなく防備を固めまくった城なのだった。
■群を抜いて手堅い山城の実態
宮路山城の比高(麓からの標高差)は約130m。東西に約200mほどの主尾根と、その周辺に築かれた山城は、今なお全方位的にゴツい遺構がしっかり残存している。
西側の谷筋から登るのが最も近道だが、急勾配を上り切ると細尾根状を鋭く削った二重堀切が現れる。さらにその脇の斜面には、畝状竪堀群をズラリと従えている。

■宮路山城の防御は鉄壁
さらに圧巻なのが、主尾根のほぼ中央からY字に北へ伸びる支尾根周辺。尾根にはこれでもかといわんばかりの二重堀切、三重堀切。
当然のように、ここにも畝状竪堀群が付随している。しかもメチャクチャに長い。谷のはるか下まで、容赦なく延びている。
■もともと国境にあった要の城
主尾根の東端付近には今度は横堀。その南斜面がやや勾配が緩いな、と思いきや、ここに最も長大かつ本数の多い畝状竪堀群。実に抜かりのない構造になっている。
もともと、宮路山城は備中国の東端で、備前との国境を守る「境目七城」のひとつ毛利家の最前線として、以前から重要視されてきた。ゆえに、備中高松城の戦いに際し急造されたであろう他の陣城(前線基地)とは比較にならないほど、徹底的に凝った構造なのだ。
■紙一重で天下人の道を得た秀吉
宮路山城を任されていたのは、乃美元信とも乃美景興とも伝わる。乃美家といえば、毛利元就の三男・小早川隆景傘下の重臣で、戦上手として知られる家系だ。
城も城主もなかなかに手強い相手だが、この城の重要性を秀吉は重々わかっていたのだろう。記録も乏しく詳細は不明だが、宮路山城は備中高松城をめぐる緒戦の中で、半月ほどかけて秀吉方の手に落ちることとなる。
宮路山城が落城したのは1582(天正10)年5月2日。その前日に秀吉は、黒田官兵衛の献策を採用し、水攻めを決意したとか。宮路山城攻略はほぼ確定、ならば水攻めに横槍を入れることもできないだろう、との読みがあったに違いない。実に用意周到だった。
そして2カ月後の6月2日、本能寺の変が起こる。秀吉がそれを知ったのが翌3日で、その翌日の清水宗治自刃を見届けてから、主君・信長の仇敵、光秀討伐のための「中国大返し」を敢行する。
こうしてみると薄氷を踏むような展開だ。宮路山城攻略から突貫工事での築堤建造がなければ、備中高松城の戦いの決着はさらなる時間を要していたはず。おそらく信長亡き後の覇権は握れず、「秀吉の天下」は訪れていなかったのだ。

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今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)

古城探訪家

1975年、広島県生まれ。
編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。

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(古城探訪家 今泉 慎一)
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