戦国武将の活躍のウラには、「地味で無名な」きょうだいがいる。歴史・文学研究家の福田智弘さんは「例えば、織田信長は、妹・お市を浅井長政に嫁がせることによって自身の勢力を拡大した。
さらに、政略結婚に使われた“もうひとりの妹”がいる」という――。
※本稿は、福田智弘『戦国きょうだいの日本史』(時事通信社)の一部を再編集したものです。
■お市は本当に美しかったのか
有力な戦国武将の娘や姉妹たちは、武将同士が同盟を結ぶための証として政略結婚させられることがほとんどでした。そこに恋愛感情はなかったといってもよいでしょう。それどころか、ほとんどの場合、婚姻の時が初対面の場だったのです。
織田信長の妹とされるお市とお犬の場合もそうでした。年上とされるお市のほうから順に見ていくことにしましょう。
お市の嫁ぎ先は北近江(滋賀県北部)を治めている浅井長政でした。信長は、自身の本拠地である尾張の国(愛知県西部)と当時の日本の中心地である京とを結ぶ位置にある北近江を重視して、戦国一の美女ともいわれる妹のお市を浅井氏に嫁がせたわけです。
ところで、俗にお市は、「戦国一の美女」などといわれていますが、本当に美しかったのでしょうか?
筆者はそれが事実だと考えます。まず、肖像画はまるで日本人形のように美しく描かれています。これは娘の淀殿がお市の七回忌に描かせたものなので、よく似ていると考えられます。
セットで描かれた夫・浅井長政の肖像があまりイケメンに描かれていないことからしても説得力が高まります。また、「(37歳の時)14~15歳も若く見えた」と書かれた史料も残っています。
■夫の裏切りを小豆袋で信長に密告する
そんなとっておきの美女を嫁に出したにもかかわらず、浅井長政は信長を裏切ります。元亀元(1570)年、信長が越前国(福井県北東部)の朝倉氏征伐の兵を挙げた際に、朝倉と結んで信長を挟み撃ちにしようとしたのです。
その時、お市は両端を縄で結んだ小豆袋をひそかに信長のもとに送り、「兄上はこの小豆のように挟み撃ちに遭いますよ」と、暗号で知らせたという逸話が残っています。逸話の信ぴょう性には諸説あるのですが、このように、政略結婚で嫁いだ女性やその付き人たちは、いざという時に実家に危機などを知らせるスパイとしての役割などを帯びていた、といわれています。
お市の機転のおかげか、辛うじて危機を逃れた信長は、そののち朝倉氏や浅井氏の討伐に力を尽くしました。そしてついに、天正元(1573)年、浅井氏の居城・小谷城が落城します。その第一の功労者は豊臣秀吉だったといわれています。
落城に当たり、当主でありお市の夫である浅井長政は切腹して果てました。浅井氏はここに滅亡したのです。この時、お市はともに自害する気であったともいわれますが、ふたりの間に生まれた3人の娘・茶々、初、江が幼かったこともあってか、結局、娘を連れて織田家へと戻っています。

■戦国一の美女の「悲劇的な最期」
その後、お市と三姉妹は、信長の居城・岐阜城に入ったのち、信長の弟(お市の兄)・信包の居城・伊勢上野城(三重県伊勢市)に移ったとされています。
しかし、天正10(1582)年、本能寺の変が起き、信長がその激動の生涯を終えると、お市の運命も、また大きく変わってしまいます。
信長の後継の座をめぐって、秀吉と柴田勝家が対立すると、勝家と結んだ信長の三男(お市の甥)・信孝の意向もあり、お市は3人の娘を連れて勝家のもとに再嫁したのです。そうして、豪壮な勝家の居城・北の庄城(福井県福井市)に入ったのもつかの間、勝家と秀吉の戦いが本格化し、勝家は敗れてしまいます(賤ケ岳の戦い)。
辛うじて勝家は北の庄城に戻りましたが、豊臣軍は引き続き城を囲んでしまいます。秀吉によって、またもお市のいる城は落とされることになります。この時、お市は小谷城落城の時とは違う行動に出ました。十分に成長した娘たちだけを逃がし、自身は夫・勝家とともに自害することを決めたのです。実家の都合で好きでもない男の嫁になり、二度の落城を経験した戦国一の美女・お市は、落城の度に夫を亡くし、自身の命までも城とともにむなしく灰となる道を選んだのです。
■室町幕府の名家に嫁いだ「もうひとりの妹」
信長とお市の妹・お犬も、美女の誉れ高き女性でした。生年は不詳ですが、「犬」という一風変わった名前は「戌(いぬ)年」に生まれたからとする説もあり、それに従えば天文19(1550)年の生まれで、信長より16歳、お市より3つ年下ということになります。
そんなお犬は、信長が尾張国を統一して間もない頃、佐治為興(信方)という武将のもとに嫁がされました。
佐治氏は知多半島に本拠を構えており、彼らが擁していた水軍を信長が重視して関係強化を図るために妹のお犬を嫁に出したともいわれています。
ところが、この佐治為興は、信長の命により伊勢長島の一向一揆鎮圧に出陣し、天正2(1574)年、むなしく討ち死にしています。まだ22歳の若者だったといわれています。政略結婚とはいえ、仲がよかったともいわれるお犬の心痛は、いかばかりのものだったでしょうか。
しかし、信長は、そんなお犬の心を知ってか知らずか、天下に美女として知られたこの妹を、再び政略のために利用します。今度の結婚相手は、細川昭元です。
細川氏は、室町幕府で将軍を補佐する管領職を長く務めていた名家です。事実、昭元の父・晴元も管領職についていました。
とはいえ、当時、室町幕府の権威は地に落ちていました。それどころか、天正元(1573)年、信長は自身で将軍・足利義昭を京から追放し、室町幕府は事実上崩壊していたのです。お犬が昭元に嫁いだのは、それから数年後のことだといわれています。
■ふたりの妹の子孫たちの「その後」
なぜ信長は、もはや落ち目となった室町幕府の重臣を、大切な妹を嫁にやるなどして丁重に扱ったのでしょうか?
実は、落ちぶれたとはいえ、室町幕府や将軍家、管領家のことを慕う武将たちが当時まだたくさんいました。
彼らからすれば、信長は幕府を滅ぼした憎き敵です。そんな人々の心をなだめるために、幕府の中枢にいた管領・細川氏の人間を丁重に扱ったのではないか、といわれています。
細川氏のほうでも、権力者・信長の妹であるお犬を嫁として大切にしたのではないかと思われます。
ところが、天正10(1582)年、本能寺の変で兄・信長が亡くなると、そのわずか3カ月後にお犬も息を引き取りました。絶対権力者だった信長という後ろ盾を失い、心身に不調をきたしたのではないかともいわれています。
お市、お犬とも2度の政略結婚の末、不幸な最期を遂げてしまったのです。
お市もお犬も政略結婚だったとはいえ、夫婦仲はよかったといわれ、たくさんの子どもを儲けています。お犬に関しては、最初の夫・佐治為興との間にふたりの男子を産んでおり、そのひとりである佐治一成は、お市の娘・江の最初の夫となっています。また、ふたり目の夫・細川昭元との間には1男2女を儲けており、男子・元勝が父の跡を継ぎました。一方、女児のひとりは秋田実季という武将に嫁ぎ、その子孫は、三春藩(福島県三春町周辺)の大名となっています。

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福田 智弘(ふくだ・ともひろ)

歴史・文学研究家 作家

1965年埼玉県生まれ。東京都立大学卒。
歴史、文学関連を中心に執筆活動を行っている。おもな著書に『ビジネスに使える「文学の言葉」』(ダイヤモンド社)、『世界が驚いたニッポンの芸術 浮世絵の謎』(実業之日本社)、『よくわかる! 江戸時代の暮らし』(辰巳出版)などがある。

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(歴史・文学研究家 作家 福田 智弘)
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