関大北陽100年物語(中編)
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学校の創立は1925年。大阪市東淀川区に北陽商業学校として開校し、翌26年に野球部が誕生した。
北陽野球部が大阪屈指の強豪として歩み始めるのは、1960年に22歳で赴任した松岡英孝の登場からである。当時の北陽には実質的な野球専門の指導者はおらず、野球部を強くしたいという学校の思いから、新卒の松岡が社会科教諭として着任すると同時に監督へ就任。以来約30年間チームを率い、北陽野球の礎を築いた。
【部員数が200人を超えた時期も】
今年3月、野球部恒例の高知遠征の際、88歳の松岡が現役選手たちを前に熱弁を振るった。
「いいか、体を沈ませろ。沈ませて、沈ませて、足の指もしっかり使って......」
体の使い方から心構えまで、野球の原理原則や基礎基本を説いた講義は、じつに1時間半に及んだ。その時の様子を、現監督の辻本忠は目を細めながら振り返る。
「高知は松岡先生の故郷で、今も住んでおられるので、遠征のたびにご連絡させていただいているんですが、今回は先生のほうから初めて『ちょっと生徒たちに話をしてもいいか』と言ってくださったんです。何よりうれしかったのは、『選手たちの目が生きてる。こっちを見る目が違う。これは楽しみや』と言っていただけたことです」
松岡は城東高校(現・高知高)で甲子園出場を経験し、近畿大を経て、1960年に社会科教諭として北陽に赴任。同時に野球部の監督に就任した。
甲子園には1966年夏に初出場。大阪大会準々決勝で当時絶大な強さを誇っていた浪商(現・大体大浪商)を延長再試合で破った一戦は、今も語り継がれている。辻本が言う。
「この試合の話は、先輩方からもよく聞かせていただきました。延長18回、9対9で引き分け再試合。炎天下で5時間27分に及ぶ激闘のあと、選手たちはみんなふらふらだったそうです。それで部長先生が急きょ、球場近くのクーラーが利いた宿を手配し、全員で泊まって翌日に備えたと。
ところが、その翌日も延長戦になり、最後は11回に勝ち越して3対2で勝利。その大きな壁を乗り越え、準決勝で大鉄(現・阪南大高)、決勝では江夏豊さんのいた大阪学院を破って勝ち上がってきた桜塚を倒して、初めての甲子園出場を果たしたと」
のちにプロでも長く活躍する長崎慶一が1年生でレギュラーをつかみ、甲子園初勝利も挙げた。
【負けても絵になる北陽野球】
北陽の14度の甲子園を振り返ると、記憶に残る敗戦が多い。81年夏の名古屋電気(現・愛工大名電)戦では、2年生左腕・高木宣宏(元広島ほか)が工藤公康(元西武ほか)と投げ合いながら、最後はサヨナラ本塁打に泣いた。
さらに松岡にとって最後の甲子園となった1990年の選抜準決勝・新田(愛媛)戦でも、エース寺前正雄(元近鉄ほか)が17三振を奪う力投を見せたが、延長17回にまたしてもサヨナラ本塁打で力尽きた。
ちなみに、この選抜は初戦の帝京(東京)から、玉野光南(岡山)、三重といずれも4対3で勝利、最後は新田に3対4で敗れたが、スコアからも松岡が築いた"北陽野球"の真髄が伝わってくる。
その松岡のもとで7年間コーチを務めた前監督の新納弘治は言う。
「大阪の強豪といえば打力のイメージですが、北陽は違いました。ランナーを背負っても粘り、攻撃でも粘って、最後は1点差で勝つか負けるか。中学時代のスターが集まるチームではありません。ふつうの選手を3年間で育てて、最後の夏にそういう試合ができるところまで仕上げる。それが北陽の野球です」
その土台にあったのは、技術より人間教育だった。松岡は帽子のかぶり方、爪や髪の手入れ、歯磨きまで細かく指導し、「服装の乱れは心の乱れ。
「松岡先生は野球人という前に教育者でした」と新納は振り返る。
ただ、ひとたびグラウンドに立てば、鬼と化した。
新納が入部した年も、新入生だけで150人。岡田彰布の4学年下にあたる新納は、大阪市港区の自宅から約1時間かけて通学していたが、その道のりはいつも憂鬱だったという。1年時は下級生ならではの厳しさに耐え、そこを乗り越えれば今度は熾烈なメンバー争いが待つ。ようやく試合に出られるようになると、責任が重くのしかかる。息つく暇などなかった。
【厳しい練習を乗り越え生まれる和】
その後、近畿大在学中の2年時、「一緒にやろうか」と松岡に声をかけられ、母校で指導者の道を歩み始めた。「人生を賭けての決断でした」と振り返る。約7年間コーチを務めたのち、1990年8月、29歳で松岡のあとを託された。監督を引き継ぐ際、松岡から繰り返し言われた言葉が今も胸に残る。
「『焦るなよ。焦ると事故(不祥事やアクシデント)を起こすから』と、よく言われました。また、『ひとりの生徒には親がいて、おじいちゃん、おばあちゃんもいる。子どもひとりの命を預かるということが、どれだけ大変なことかわかって指導しなさい』とも。『勝とう、勝とうと思うと、大事なものが見えなくなる。だから落ち着いて、一人ひとりの選手をしっかり見てやれ』と、繰り返し言っていただきました」
新納が監督に就任した90年代、大阪勢は全国で次々と結果を残し始める。1990年春の選抜で近大附が優勝すると、1991年には大阪桐蔭が春夏連続で甲子園に出場し、夏は初出場で全国制覇。また1993年春には上宮が日本一を達成した。
そんななか、北陽も1994年に春夏連続甲子園出場を果たす。エースで3番を務めたのは、のちにオリックスへドラフト1位で入団する嘉㔟敏弘(元オリックスほか)。4番には現・北陽監督の辻本忠が座った。辻本の家は北陽の近くにあり、子どもの頃から身近な存在だった。
「オヤジとグラウンドに練習を見に行ったり、自然と憧れを持って見るようになっていましたね。小学生の頃、寺前さんに握手してもらったこともありました」
この時期でも、新入生だけで80人ほどいた。1年生の練習場所は、ライト後方にある新幹線高架下のスペース。そこで腹筋、背筋、ダッシュをひたすら繰り返すのが日課だった。授業のない日は、朝9時から夜9時まで練習が続いた。
そう語る辻本の思い出といえば、やはり3年時に春夏連続出場を果たした甲子園だ。
「3年間で唯一、新納監督に褒めてもらったのが、あの試合でした」
つづく市川(山梨)戦は、ダメ押しの3ランを含む5打点の活躍。しかし3回戦で仙台育英(宮城)に敗れ、夏は終わった。それでも3点ビハインドの9回表に同点に追いつく執念を見せた。辻本が振り返る。
「入学した頃の嘉㔟は『俺が甲子園に連れていったるわ』みたいな雰囲気を出していて、僕らも『おまえなんかに頼らんでも行けるわ』って返していたんです。でも、毎日あの厳しい練習を一緒に乗り越えるうちにチームの雰囲気もよくなって、3年になった頃にはめちゃくちゃ仲良くなっていました。だからあの夏も『まだまだ負けられへん。まだ一緒にやるで!』と、みんな同じ気持ちだったと思います」
同点に追いついたのも束の間、最後は北陽らしく "サヨナラ負け"で甲子園を去った。
つづく>>










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