【指揮官と箱根駅伝】「やっぱり優勝監督になりたい」創価大・榎...の画像はこちら >>

連載第2回:指揮官と箱根駅伝/榎木和貴(創価大駅伝部監督、中央大OB)~後編~

前編〉〉〉創価大・榎木和貴監督の原点 中央大での「4年連続区間賞」「32年ぶりの総合優勝」への道程

【主将の責任と不調続きの葛藤の狭間で】

 創価大の榎木和貴監督は、中央大学在籍時に箱根駅伝で4年連続区間賞の快挙を成し遂げた。3年時には準エース区間の4区を担い、32年ぶりの総合優勝に貢献。そして、4年目は主将として箱根連覇を目指した。

 しかし、大学ラストイヤーはケガや体調不良があって、思うようなシーズンを送れずにいた。

「4月、5月で10000mと5000mの自己ベストを更新したんですけど、その後ちょっと体調を崩してしまい、そこから坐骨が痛くなったり、貧血になったりと、どんどん走れなくなりました。キャプテンとして練習を引っ張らなきゃいけないという気持ちはあるんですけど、体がまったくついてこない。空回りしていたように思います。8月もまともに練習ができず、合宿にも半分も行けませんでした」

 主将としての責任感に加え、4年連続の箱根区間賞がかかっており、その重圧も当然あった。

「(区間賞を)3回獲った時点で、4年連続区間賞を狙えるのは自分しかいなかったわけですから、そこは絶対に獲りたいという思いでやっていました。でも、それも空回りの要因になったのかなと思います」

 思うように走れず、もどかしい日々が続いた。

 夏が明けても調子は上がらなかった。

 出雲駅伝はメンバー外だったが、中大は最終区で早大と接戦を繰り広げ、最後はわずか2秒及ばなかったものの、2位と奮闘した。

「自分が前年のような走りができていれば、余裕を持ってレースを進めて、優勝することができていた」

 仲間の活躍が頼もしくもあった一方で、自分が走れないことへの悔しさにも駆られた。

 全日本大学駅伝は出場に漕ぎつけたが、4区で区間10位と振るわず、ひとつ順位を上げるのがやっとだった。チームは終盤に盛り返したものの、9位に終わっている。

「自分が前半区間で流れを作ることができれば、もっと上位にいけたのですが、チームは大崩れしてしまいました。自分が中心にならなきゃいけないのに、まったく機能せず、箱根駅伝も雲行きが怪しかったです」

 最後の箱根は、チームの連覇および個人での4年連続の区間賞がかかっていたが、状況は厳しかった。

 12月に入ると、榎木は思いきった行動に出る。主将でありながら、チームを離れて宮崎・延岡に渡り、就職が決まっていた旭化成で練習を行なうことにしたのだ。

「貧血の治療と、何かきっかけをつかむためです。半分は逃げもあったんですけど、ちょっと行き詰まっていたところがあったので、気持ち的な変化を求めていました。チームを指導していた宗兄弟や箱根を経験している先輩たちに助言をもらってリフレッシュができました。また、負荷は低いんですけど、最低限の1km3分ペースで押していくような練習にも取り組んでいました」

 区間賞は獲れないかもしれないけど、しっかりつなぐことはできる――絶好調だった前年にはほど遠いものの、なんとか走れる目処は立った。そして、前年と同じく、準エースが配される4区に臨んだ。

【強風を利した4回目の区間賞と卒業後の苦闘】

 迎えた1月2日、第73回箱根駅伝の往路は強風が選手たちを苦しめた。

「前年度と比べると、たぶん各区間で3、4分は遅かった。私も、前年度からは4分遅かったですね」

 この年の榎木のタイムは1時間06分03秒。前年は1時間02分15秒だったのだから、榎木が言うように、タイムは4分近く遅かった。

 だが、榎木は、この強風をポジティブに捉えていた。

「みんなペースを上げきれないなか、4年連続の区間賞がかかっていたので、僕の前にはテレビの中継車が来たんです。中継車が前にいると風よけにもなる。約40秒前に大東大と早大がいたので、とりあえずその2校に追いつくまでは全力でいこうと思い、中継車を利用しながら攻めの走りをしました」

 5位でタスキを受けた榎木は、早大、大東大、山梨学院大に追いつき、2位集団を形成した。

「貧血の影響もあってラストスパートで置いていかれた」と振り返るように、スパート合戦では遅れをとったが、上位争いを繰り広げた。そして、4年連続の区間賞を獲得し、史上7人目(当時)の快挙を成し遂げた。

 しかしながら、チームは復路で苦戦し、総合4位に終わり、目標に掲げていた連覇を逃した。

「4年連続で区間賞を獲ったことには達成感があったんですけど、チームが4位に終わったので、まったく喜べなかった。やっぱり駅伝が好きだったので、箱根で1回は優勝しているんですけど、4年目にチーム目標を達成できなかったことは、ずっと悔しく思っていました」

 4年連続区間賞という金字塔を打ち立てながらも、最後の箱根駅伝で味わった悔しさはあまりにも大きかった。

 だが、実業団の強豪・旭化成に進むと、「だんだん悔しさが薄れていった」と言う。

「学生まではチームの柱として必要とされてきた存在だったのですが、実業団に行ったら、そもそも駅伝のメンバーに入れない。もちろんニューイヤー駅伝を走りたいという思いはあったのですが、駅伝に対するモチベーションがあまり持てなくなっていきました」

 マラソンでは2000年の別府大分毎日マラソンで優勝を飾っているが、駅伝ではなかなか出番がなかった。

現役競技者としての最後の1年はトヨタ紡織に移籍し、プレイングコーチとして上州路を目指したが、最後の最後でメンバー落ち。結局、ニューイヤー駅伝を一度も走ることなく、第一線を退いた。

 その後は指導者の道に進み、トヨタ紡織の監督としてニューイヤー駅伝で7位の成績を残した。しかし、「自分の指導に限界を感じたというか、これ以上何をやればいいのかが見えなくなっていた」と言い、志半ばに監督を退任した。

 退任後は社業に就いたが、その後は宮崎に戻り、兄の事業を手伝いながら、いったんは競技レベルから距離を置く意味でものんびり過ごそうと考えていた。

【指導者としても箱根制覇を】

 そんなタイミングで舞い込んできたのが、創価大の監督の話だった。当時の創価大は2年連続で予選落ちに終わっており、なかなか箱根常連校には定着できずにいた。

「のんびりしたいという気持ちのほうが強かったので、"一応考えます"と言いつつも、どう断ろうかと考えていました」と言う。それでも、当時外部アドバイザーだった川嶋伸次氏(現・創価大総監督)の説得もあり、引き受けることにした。

 大学からの要望は「もう1回箱根に出場させてほしい」。それだけだった。

 また、川嶋氏からは「3年でも5年でもかかっていい」と言われていたが、責任感の強い榎木は「引き受けた以上は、1年目からチャレンジしたい」と決意を固めていた。

そして、正式に就任する前から、過去のレースや練習のデータを基にチームの課題を洗い出しし、コーチ陣や選手と共有して強化に当たっていった。

 その成果はすぐに現れる。

 就任1年目で箱根路に復帰を果たすと、本選では9位に食い込み、大学史上初めてシード権を獲得した。さらに、翌年の第97回大会では往路優勝を果たし、終盤まで先頭を走った。最後は駒大に逆転を許したものの、総合2位と躍進し、創価旋風を巻き起こした。

 そして、今では強豪校の一角に数えられ、新たなフェーズに入っている。

「我々の学生時代は、一人ひとりがどの区間をどんなタイムで走るのかを常に考えて、普段の練習や夏合宿に励んでいました。まさしく当時の私たちがそうだったように、今年の創価大の選手たちには、目的を持って行動に移れるかを投げかけています。自分の適性をしっかりと見極めて、例えば上りが得意な選手であれば上り基調のコースをしっかりと攻略し、強化につなげていくことを、常に意識させています。

 学生時代に指導を受けた大志田コーチ(秀次、現・明治大駅伝監督)は選手とのコミュニケーションをよく取られて、そういった意識づけをしてくださった。少なからず、今の私の指導にも生かされていると思います」

 強豪校で過ごし、箱根駅伝優勝を目指した4年間は、約30年が経った今につながっている。

「現役時代に4回区間賞を獲って、今、こうして指導ができているからこそ言えるとは思うんですけど、自分は、箱根駅伝っていうものに愛されているのかな、と思います。

 だから、自己満足で終わるのではなく、私もやっぱり優勝監督になりたい。それに、優勝をしっかり意識できる選手たちが集まっているので、近いうちに選手たちの夢を叶えてあげたい」

 教え子たちの思いに応えるために、今度は指導者として箱根優勝を目指す日々を送っている。

●Profile
えのき・かずたか/1974年6月7日生まれ、宮崎県出身。小林高(宮崎)―中央大―旭化成―トヨタ紡織。全国高校駅伝に3年連続出場を果たし、2年時には4区で区間賞を獲得。中央大では箱根駅伝で4年連続区間賞に輝き、3年時(1996年、第72回大会)にはチーム14回目の総合優勝に貢献した。卒業後は旭化成に入社し、2000年の別府大分毎日マラソンで優勝。2004年に沖電気のコーチに就任し指導者となる。その後、トヨタ紡織陸上競技部コーチ(選手兼任)、監督を経て、2019年に創価大学陸上競技部駅伝部の監督に就任すると、1年目の箱根でチーム史上初のシード権を獲得し、現在まで7大会連続シード権獲得中。就任2年目の2021年大会では往路優勝、総合2位に導いた。

和田悟志●取材・文 text by Satoshi Wada

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