現在放送中の大河ドラマ『真田丸』。主演を務める真田信繁役の堺雅人もさることながら、信繁の父・真田昌幸を演じる草刈正雄の演技が大きな話題になっている。

というのも、草刈演じる昌幸はとにかく"狡くて汚い"。近年の大河ドラマは「命を大事にしよう」という近代的思想が強く反映されていたが、今回の『真田丸』では各登場人物が生き残りのため、あれこれと手を尽くして平気で裏切りも行う。昌幸はその象徴的な人物といえる。

先週の『真田丸』では、昌幸が上杉景勝に従属することを伝えたが本心ではなく、春日信達を調略して北条に寝返ろうとしているのが判明した。
しかしこれ以降も昌幸は、生き残りのためにさらに色んな策を練っていくのだ……。

【「天正壬午の乱」でカオス状態に】


そもそも昌幸がここまで苦労する元凶となったのが本能寺の変。ドラマ内でも描写されていたが、真田家は織田家に従属して安定を得たと思ったのも束の間、信長が死んだせいですべては水の泡に。

さらに元々武田家の領地だった土地を織田家臣が治めていたのだが、信長の死という大事件が起きたことで、織田家臣らは自らの領地へと帰国してしまう。
これによって元の武田領地は誰のものでもない空白状態になってしまった。

この領地を巡って、元の武田領地を取り囲むように位置する北条・徳川・上杉が我が領土にしようと奪い合うことになり、その争いに真田家も巻き込まれるのだった。このことを歴史上では「天正壬午の乱」と呼ばれている。

【わずか1カ月で北条に寝返った真田昌幸】


上杉家に従属した昌幸。しかし北条家が信濃へと侵攻することを知ると、すぐに北条家に寝返るのだった。上杉に従属したのが1582年6月であり、北条への寝返りは1582年7月。
期間にして1カ月にも満たないほどの早業だ。

さてそんな北条家と上杉家は、昌幸の寝返り直後に相見えることに。お互いの本気度も高く、雌雄を決するほどの戦いになるかにも思われた。しかし昌幸らが行った春日信達への調略が失敗に終わったこともあり、結局は両家は睨み合っただけで不発に終わる。
その後上杉家は越後へと帰っていき、北条家は甲斐へと兵を進めて徳川侵攻を行った。

【徳川家康ピンチ! 打開策は昌幸】


上杉vs北条の戦いでは北条に従属していた昌幸であるが、北条が甲斐へと徳川侵攻した前後には実弟を徳川家へつかせていたらしい。
つまり自身は北条にいながらも、しっかり徳川とのパイプを残していたのだ。


さて北条が甲斐侵攻したことで始まった北条vs徳川。この戦いでは、周辺の国衆が北条に味方したことなどが影響して徳川家康はかなりの大ピンチに陥る。
この追い込まれた状態を打開するキーとなったのが昌幸であった。

劣勢を打破すべく徳川は昌幸へと接近。依田信蕃という人物や徳川家に味方していた実弟の働きもあって、なんと昌幸は北条家から徳川家に寝返ったのである。ちなみにこの時、9月末であり、北条に味方してから3カ月も経っていない。

つまりここまでの昌幸の流れを整理すると、1582年6月:上杉に従属、1582年7月:北条に寝返り、1582年9月:今度は徳川に寝返りということになる。

さて当初は徳川戦を有利に進めていた北条家だったが、昌幸の寝返りもあってか次第に劣勢に追い込まれていく。そのため北条家は1582年10月、徳川家に和睦を申し入れ、徳川家がこれを受け入れたことで和睦成立。ここに「天正壬午の乱」が終わったのだった。

【真田昌幸がブチ切れた同盟内容】


しかしこの北条・徳川が結んだ同盟内容の中には、到底真田家にとって受け入れ難い事柄が書かれていた。それは「徳川氏は、(略)真田昌幸が保持する沼田領を引き渡す」というもの。
沼田にあった真田の領地は徳川から与えられたものではない。そのため"徳川が(真田領地の沼田を)北条へと引き渡す"という同盟内容に昌幸が激怒しても無理はない。

そのため以降の昌幸は猛烈に反発。この領土問題が大きな火種となり、豊臣秀吉らを巻き込んでもう一波乱も二波乱も起きていくのだった……。

画像:「真田丸 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー) 」より