今までのテニス界でもっとも「天才」と呼ぶに相応しい選手はだれかと聞かれてこの選手の名を答えるテニスファンも多いのではないだろうか。その選手の名前は「マルチナ・ヒンギス」。
かつて数々の最年少記録を更新するなど90年代を代表するスイス生まれのテニスプレイヤーだ。

【天才の飛躍と苦悩】


「なにもしなくてもランキング20位くらいに入れた」とかつてインタビューで語ったようにヒンギスはまさに"天才"。1993年、12歳のときに全仏ジュニアで優勝し、14歳で早くもプロデビューした。とはいえ、ジュニアとプロの世界は違うため、普通はジュニアでいくら活躍していてもプロ転向後はくすぶることが大半。しかし、ヒンギスは転向から1年後の15歳に早くも絶対女王として君臨していたグラフから金星を挙げた。

しかし、16歳になったヒンギスはグラフ戦の勝利が偶然ではなかったことを自らの手で証明する。16歳になった誕生日の半月後にツアー初タイトルを挙げると、その勢いのまま1997年の全豪オープン(4大大会のひとつ)で優勝する。
このときまだヒンギスは16歳3ヶ月であり、史上最年少での4大大会優勝であった。
さらに勢いそのままに16歳6ヶ月のとき、絶対女王グラフが長年君臨していたランキング1位の座を史上最年少で奪い取ったのだ。

しかしヒンギスが17歳で向かえた1998年はさらに凄かった。彼女は17大会に出場して12の大会で優勝。しかも4大大会のうち、全仏オープン以外の3つの大会で優勝を果たしたのだ。さらに1998年に獲得した年間賞金はテニス史上初となる300万ドルを突破するなどまさに全盛といえるシーズンを過ごした。


だが、それ以降4大大会で優勝したのは1998年、1999年の全豪オープンのみと勢いが落ちてしまった。ヒンギス自身が早熟であったことなどでテニスへの情熱が落ちてしまったことや、ウィリアムズ姉妹などに象徴されるパワーテニス全盛を迎えたことなどが理由であると考えられる。このようなことも影響してか、ヒンギスは2003年に1度目の引退を発表した。

【ヒンギスの凄さとは】


ところで具体的に全盛期のヒンギスはなにが凄かったのだろうか。ヒンギスは体格もプロ選手としてはそこまで恵まれておらず、パワーはなかった。そのかわり、"頭脳"が優れた選手であり、ボールがどこに来るのかという先読み力が凄かったのだ。言ってみれば伊達公子や現在の錦織圭にも共通するようなプレースタイルだろう。
さらにヒンギスは「魔法の手首」と呼ばれたようにどんな姿勢、状況からでも自由自在に狙ったコースを打つことができた。そのため相手は自身の動きは読まれている一方で、ヒンギスがどこに打つかはまったく読めない状況だったのだ。

【天真爛漫な性格】


また、ヒンギスを語る上で欠かせないのがその性格。天真爛漫な性格だったためにトラブルも多かった。例えばインタビューでは当時15歳にもかかわらず「(絶対女王だった)グラフのプレースタイルはあまり好きじゃない」と発言したこともあるし、趣味である乗馬(もちろん落馬する恐れもある)に精を出しすぎてバッシングされたこともしばしばだ。
このような性格のため、試合中に感情を抑えられずに"爆発"することも多く、よくラケットを投げたりと悪態をついていた。特に1999年の全仏オープン決勝では必要以上に審判に抗議して観客から大ブーイングを浴び、それに動揺してしまったのか結局試合にも敗れてしまう。

しかし、バッシングの一方で、彼女のそのような人間らしさからファンになる人も多かった。特に日本では15歳のグリコ「カフェオーレ」のCMをきっかけに、いくつかのCMや番組に出演。CM内で日本語を披露したこともあって高い知名度を誇っていた。

【2度もの復活】


さて、2003年に引退したヒンギスはその後どうなったのだろうか。実は2006年に復帰を果たしシングルスのランキング7位までに浮上した。しかし、コカイン陽性反応(本人は否定)などの騒動もあり2007年終わりに再び引退。
これでテニス界に復帰することはないと思われたが、2013年からダブルス限定での復帰を発表した。そして今年の全豪オープンではミックスダブルスで見事優勝し、ヒンギスの凄さを改めて証明する形となった。全盛期のヒンギスの活躍を踏まえて、現在のヒンギスのプレーを見ると若いときにはなかった円熟味あるプレーをより感じることができるのではと思う。
(さのゆう)
(「マルチナ・ヒンギス (YOMIURI SPECIAL 1) 」)