サントリーホールディングスの次期社長(2014年10月就任予定)が、ローソンの経営トップを12年間務めた新浪剛史に決まったと発表されたのは、この6月のこと。サントリーが創業家以外から社長を迎えるのは、1899年に鳥井商店として創業して以来初めてのことだ。
社長の外部登用には、社内に新風を吹きこみ、世界戦略を加速する必要からとの見方もある。

サントリーはまた、大手企業ながら株式を上場していない。ただ、今後はともかく、これまでサントリーがオーナー企業にして非上場企業であることを求心力に発展してきたことは、一面では事実だ。非上場の理由としては、「酒の醸造には時間がかかり、短期的な利益を要求される株式公開になじまない」「株主に商品の味を左右されたくない」「直接的な利益に結びつかない文化事業のリストラを要求されるため」などがあげられる。たしかに、文化事業はサントリーの企業イメージを向上させるのに大きく貢献してきた。あるいは、業界では最後発ながらビール事業を軌道に乗せることができたのも、創業者・鳥井信治郎からの「やってみなはれ」の精神で長期的に取り組むことができたからだといわれる。


そのサントリーをして、同族経営を改めようとしている。同社ばかりでなく、2009年に初めて外部から経営者を招いたカルビーなど、近年になって同族経営から脱却をはかる企業は目立つ。同族経営にはどうしても前近代的なイメージがつきまとうが、最近の動向はそれに拍車をかけそうだ。

2011年に経営破綻した林原も、“同族経営の失敗”と見なされたケースである。林原といっても、何の会社か知らない人も多いかもしれない。同社は岡山市を拠点に、医薬・食品原料を開発しているバイオ企業だ。
主力製品としては、天然糖質トレハロース、あるいは抗ウイルス剤や制癌剤に利用されているインターフェロンがあげられる。いずれも林原が世界で初めて量産に成功したものだ。同社はもともとは飴やブドウ糖をつくっていたが、3代目社長の林原一郎の急逝後、その跡を継いだ一郎の息子・健によってでんぷん化学メーカーに転じ、先にあげたような製品の開発で国際的な企業へと変貌をとげた。

■創業家の兄弟が語る林原破綻
その林原がなぜ経営破綻に陥ったのか? その真相については林原健と、その弟で同社専務として経理の一切を任されていた林原靖が、それぞれ経営から退いたのち著書で明かしている。まず昨年7月に弟の靖が『破綻 バイオ企業・林原の真実』を著したのに続き、今年5月には兄の健が『林原家 同族経営への警鐘』を上梓した(以下、『破綻』からの引用は《 》内に、『林原家』からの引用は〈 〉内に示す)。

破局は本当に突然やって来たようだ。
発端は2010年、メインバンクの中国銀行(中銀)からの申し入れだった。そこでは、林原が中銀と準メインバンクである住友信託銀行にそれぞれ異なる決算書を提出していたこと、また同社は実質的な債務超過状態が続いていながら、それを隠すため数字を粉飾していたことが指摘された。

まもなくして、中銀と住友信託銀行の2行を中心に事業再生ADR(裁判外紛争解決)を進めることが告げられる。ADRとは裁判所の関与なく、関係者だけで話し合って解決する私的整理手段であり、取引金融機関が全行合意すれば債権を一部カットし、企業に再生の道が開かれるというものだ。だが、林原のADRでは全行合意にはいたらず、結局、会社更生法の適用を申請するにいたった。林原兄弟はその責任をとって辞任している。


破綻まで二人三脚で経営を担ってきた兄弟だが、本人たちが認めるとおり、その性格も得意分野もまるで違った。兄は研究者肌で、組織を束ねることが得意ではなかった。一方、弟は何事においても現実的な選択をするタイプで、メディアもうまく利用してきた。それゆえ、ある時期から兄は研究・開発に専念し、資金繰りなど実務的なことは弟がもっぱら担ってきた。著書のなかでも、そんな性格や立場の違いからか、同じく破綻について書きながら、両者の捉え方には温度差が感じられてならない。

弟の靖の記述は、さすがに金融機関との折衝をすべて担ってきただけに生々しい。
あとがきで《このたび、初めて公にする内容については誰に対しても誹謗する意図はまったくない。今さら責めてもしかたがないからだ》と書きつつも、本文では銀行や弁護士、あるいはマスコミから受けた仕打ちが克明に記され、告発の書という印象すら受ける。会社にはたしかに巨額の銀行借入れがあったとはいえ、近年は業績は好調で、時間さえかければ借入金返済はできたと、彼はいまでも信じて疑わない。

一方、兄は破綻までの経緯を、会社更生法の適用申請後にまとめられた調査報告書を参照しつつ、淡々と振り返っている。不思議なことに、弟の著書では、兄弟ともにめぼしい私財はすべて更生会社に拠出、あるいは仮差押えとなり、丸裸になってしまったことが書かれているのに、兄・健はそのことに一切触れていない。これは美学というよりも、あきらめの念から来るものではないか。
事実、林原健は社長就任当時、子会社の造反などで人間の欲深さを目の当たりにし、何度も人間不信に陥りそうになるなかで、〈人間は本質的に欲望に生きるものだという考え方、良く言えば他人のことを全肯定する価値観、悪く言えば人間に対するある種の諦念〉を身につけたと書いている。

■決裂した兄弟
兄の著書で省みられるのは、経営の実態というよりもむしろ弟との関係だ。会社のあり方をめぐって兄弟のあいだでたびたび対立が生じる。だが林原家は徹底した長男至上主義であり、弟は兄に絶対服従しなければならなかった。そのためいつも最後には兄の言い分が通された。その積み重ねから、弟は兄に財務の逼迫をひた隠しにし、粉飾を続けるようになったのではないか。もし自分がもっと弟の気持ちを聞くようにしていれば、そうはならなかったと思うと、兄はいまさらながらに悔やむのだった。

弟は弟で、林原の《数々のパイオニア的な研究成果の実現は、林原健の異彩の発想があってのものだ》としつつも、《しかし反面、研究への強烈な思い入れや莫大な投資がなければ、借入金や金利も増えず、結果として一時的に売上げを過大計上する必要もなかった》と書いている。弟はそれをわかっていながら、兄に強く出ることができなかったのだ。

しかし経営破綻後、兄弟が深く話し合った形跡はない。そもそも兄は、2人の母が2012年に94歳で亡くなったとき、弟に対して〈おまえが母さんを借金まみれにしたことだけは許すわけにはいかない〉と絶縁を告げていた。弟が会社にしたことは、社長である自分が至らなかった面も大きいからまだ許せたが、母についてだけは許すことができないというのだ。

弟の著書では、兄が実際に何を言ったかまでは触れていないものの、破綻後の兄の周囲の者に対する不信感が《生の言葉となってわたしに投げかけられたときは、絶えがたいくらいの悲しみに包まれてしまった》とほのめかしている。

■林原の収集した史料が「本能寺の変」の謎を解く?
兄弟いずれの著書からも同族経営の難しさがひしひしと伝わってくる。だが、同族経営にはデメリットばかりではなく、地方の中小企業にとってはメリットも大きいと兄・林原健は強調する。たとえば、社長の任期がだいたい4~6年の大企業の場合、その期間内に成果が出そうな研究テーマを選ぶきらいが強いのに対し、オーナー企業はその限りではない。

地方のオーナー企業は、地域に対しても大きな影響力を持っている場合が多い。とくに林原は、先祖が戦国武将の池田家の元家臣で、同家が岡山藩主となって以来この地で商売を続けてきただけに、地域の経済や社会のみならず、文化面でも大きな貢献を果たしてきた。たとえば、林原は池田家から購入した美術品に、兄弟の父である林原一郎の個人コレクションを加えて林原美術館を設立している。

その1万点におよぶ所蔵品のなかには、まだ調査の進んでいないものも少なくないようだ。去る6月には、戦国時代に四国を治めていた長宗我部元親が、本能寺の変の直前、明智光秀の重臣・斎藤利三に宛てた書状が発見された。これは、光秀が織田信長を襲った原因は四国政策にあるという説を後押しする史料として、話題を呼んでいる。じつは、この書状を含む文書群「石谷家文書」もまた林原美術館の所蔵品だ。「石谷家文書」は林原一郎コレクションに属するものの、これまで一度も公開および研究に供されていなかったという(林原オフィシャルサイト「プレスリリース」2014年6月23日付)。とすれば、同館の所蔵品のなかにはまだまだ、史実をくつがえすような史料が眠っているのかもしれない。

林原健は〈地方を代表する企業というのは、単に利益を稼ぐだけでなく、その地域の文化を守る使命がある〉と書き、その例として、林原美術館と、備前刀の伝統技術を継承する「刀剣鍛錬道場」をつくったことをあげている(『林原家』)。

林原と地域社会の関係としてはまた、グループが岡山駅前に所有する広大な土地を独自に再開発する計画があった。しかしこの計画は資金がなかなか集まらず、着工のめどがなかなか立たなかった。結局、肝心の土地が林原の破綻に際して県外資本に売却されたため、計画は頓挫、その土地には目下、大型ショッピングセンターの建設が今秋オープン予定で進められている。

だが県外資本による再開発は、地元に悪影響を及ぼさないのか? こうした懸念から、林原靖は、林原破綻後の地域社会の変化を次のように憂える。

《岡山駅前の広大な土地も県外資本に安く売却され、地域の商店は存亡の危機となる。中心地にできる窓のない殺風景な商業施設は、市民から、多様な歴史と独自の豊かな地域文化を世界に発信する場もうばう。世界から岡山をめざした多くの訪問者も消え、技能の伝承と、正社員採用にこだわった独自の創造的な雇用機会も失われた。地域を守ってきたさまざまな防波堤が、あっという間に壊されてしまったのだ》『破綻』

「防波堤」というのはけっして大げさな表現ではないと思う。長い歴史を持ち、強い地盤を持つ企業はやはりそれだけの役割を果たしている。弟はその自負から、地元の将来を憂えたのだろう。

もっとも、林原という企業自体は完全になくなったわけではない。かつてのような思い切った経営は不可能でも、地域との結びつきはこれまでどおり活かしたまま、再生を果たしてほしい。私は他所の人間ではあるが、そう願わずにはいられない。
(近藤正高)