秘め事が描かれた絵、「春画」。2013年秋から2014年初めまで大英博物館で行われた春画展は3カ月で8万8000人近くの来場者を集め、大英博物館の2013年の年間来場者数は歴代最高となっている。

春画の評価は海外では高い。しかし、日本では研究書はあまり出版されておらず、研究者も少ない。
そんな中で、春画にまつわる新書が出版された。『わらう春画』(朝日新書)。著者は海外の有名な春画収集家、オフェル・シャガン。イスラエル生まれで、すでに日本・イギリスで春画に関する本を出版している。
コレクションは充実していて、大英博物館の春画展にも協力していた。

『わらう春画』は、江戸時代の春画をたくさん紹介しつつ、春画の歴史や性質について説明している。
載せられている春画をぱらぱら見るだけで楽しい。楽しいのだが、この本、春画に対しての誤認が非常に多い。
〈春画とは、社会的メッセージを伝えるために、性的題材を扱ったアートである〉
シャガンは春画に対してこのような考えを持っている。それを主張するために、事実をねじまげる(もしくは誤解している)ようなところがあるのだ。


春画の本が出て、手に取る人が多ければ、それはとてもいいことだ。興味が集まれば春画の研究も盛んになるかもしれない。でも、間違いが広まっていき、定着するのは怖い。
『わらう春画』の大きな誤解3つを紹介していきたい。


■「春画はポルノではない」

〈一見、日本の「古代版ポルノ」でくくられてしまいがちな春画だが、ポルノとして存在した春画というのは実は非常に稀なのである。(中略)春画とポルノを区別するわかりやすい例に、マスターベーションのお供かどうか、という見解がある。
ポルノの役割はこのマスターベーションを誘発するところにあり、そこに社会的メッセージ性は含まれていない〉

春画の持っている社会的メッセージを、シャガンは大まかに5つ提示している。「性教育」「ゴシップ」「抗議」「ユーモア」「性的モラル」……確かに、春画にはこのような要素がある。嫁入り道具に春画を入れる習慣もあったし、レイプを描いた春画は男が醜悪に描かれ決して肯定的ではないといった傾向があるのは確か(ただし浮気ものはめちゃくちゃ多いのだが……)。

しかし、春画がマスターベーションのために使われていたことを表す江戸の本は存在している。
たとえば、竹原春朝斎の「笑本邯鄲枕」などでは、春画を見て自慰をする少年が描かれている。また、春画で自慰をしていたのは男だけではない。
「艶道日夜女宝記」(江戸時代の「家庭の医学」パロディ本)では、自慰の方法について書かれた図とともに「春画を見て気分を盛り上げて、張形を使って自慰をすれば、結婚初夜も痛みが少ない」といった文章がある。

ポルノ性と社会的メッセージの発信は両立できる。人々の興味や関心を煽り目を引いて、そのうえでそれらのメッセージが発信されていたとするほうが自然だ。


■「春画が禁止されたのは明治に入ってから」

〈春画は、江戸幕府によって救われ、明治政府に姿を変えさせられた歴史を持つ。(中略)日本はこのような(キリスト教による)征服からは逃れたため、春画を含む文化財は守られ、セックスに対する人々の常識も変わることがなかった〉

シャガンは、「春画はポルノではない」という考え方から出発している。みんながのびのびと楽しんでいたものであったのに、キリスト教的価値観がそれを台無しにしてしまった、というスタンスだ。

しかし、江戸幕府は春画を「救って」などいない。むしろ取り締まっていた。

・享保7年(1722年)
好色本禁令。春画はこれを受けて激減したが、地下出版に移り、徐々に増えていった。この禁令を境に春画作者は取り締まりをおそれて自分の名前を春画に明らかに書かなくなる。
・寛政2年(1790年)
禁令は出されたが、一応名目上は享保7年に春画は禁じられていることになっているので、春画に対する項目はなし。
春画作者たちの自主規制により一時的に発行数は減るが、すぐに戻る。
・天保12年(1841年)
最大級の取り締まり。多くの本や版(板木)が没収され、作者も多数取り締まられた。これ以降、春画業界は委縮する。

春画はあくまでもアングラ出版。アングラだからこそ自由な表現が発達し、社会的なメッセージも強く織り込まれるようになっていったのかもしれない。


■「セックスはどこでもOK」

春画には、寝室だけではなく、廊下や台所、野外などいろいろな場所でのセックスシーンが描かれいる。それを細かく挙げたあと、シャガンはこうまとめる。

〈絵師たちは、いろいろな場所でのセックスを描くことで、性行為はどこでも行ってよいものだ、動物的であってよいのだ、自然な気持ちで挑もう、というメッセージを発している。これらは江戸で実際に行われていたことであり、江戸の状況そのものだったのである〉

当たり前のことだが、江戸の人間にも恥がある。
人目につくところでのセックスについて「人目についたら恥ずかしい」と言ってるような春画はいくつもある。本来セックスは家の中でするものだった(農民は多少事情が異なる)。
しかし、常に寝室でのセックスを描くのは面白くない。そこで、趣向を凝らし、さまざまなシチュエーションやさまざまな場所のセックスが描かれたのだ。
もちろん、祭や路地などで事に及ぶ人たちがいなかったとは言えない。それは現代も同じだ。「ふつうはやってはいけないところ/タイミング」でやるということは、それだけ切羽詰っていたり、なかなか関係を持ちにくい相手であったり、そのシチュエーションに興奮したりといったことを示している。
珍しい場面だからこそ春画に描かれ、人の気持ちを興奮させる。〈どこでも行っていい〉といったメッセージではありえない。


ほかにも、『わらう春画』は多くの誤解が並んでいる。〈遊女の初体験は最も高い値段を示した客に売られた〉〈浮気を扱った春画は道徳教育を目的にしていた(浮気を肯定するような春画はない)〉などなど。
これだけ大きな間違いがあると、学術的に批判されることはほとんどない。「語るに値されないもの」として無視されてしまう傾向がある。
しかし、それを放置するのが得策ではないことは、「江戸しぐさ」の例が明らかに示している。
本書が間違いばかりというわけではなく、一般的に正しいとされていることも並んでいるのが余計に難しい。春画に興味を持ち、初めて春画の世界に触れた人は、どれが本当でどれが嘘かわからなくなってしまうだろう。

帯にはこうある。
〈外国人が独自の視点で描く 新感覚の春画本〉
「独自の視点」とは、「誤解と思いこみの視点」という意味ではないはずだ。

オフェル・シャガン『わらう春画』(朝日新書)

●参考
白倉敬彦『春画読本 「書入れ」に見る男と女の色模様』(池田書店)
白倉敬彦『春画と人びと 描いた人・観た人・広めた人』(青土社)
白倉敬彦『春画にみる色恋の場所』(学研新書)
林美一『浮世絵の極み 春画』(新潮社)

(青柳美帆子)