外国人の見た日本の道路
きょう8月10日は、道路の意義・重要性に対する国民の関心を高めるため国土交通省が制定した「道の日」である。その日付は、1920年のこの日、日本で最初の道路整備についての長期計画である「第1次道路改良計画」が実施されたことに由来する。
明治以降の国の交通政策はもっぱら鉄道に傾斜していた。
《日本の道路は信じがたいほど悪い。工業国にして、これ程完全にその道路網を無視してきた国は、日本のほかにない》
世銀は発展途上国に資金の融資などを行なう国連の専門機関だ。日本政府は名神高速道路の建設費をまかなうべく世銀に借款を求めた。このとき世銀から派遣されたのが、経済学者のラルフ・J・ワトキンス(当時、米ニューヨークのブルックリン研究所に所属)を団長とする調査団だった。くだんの報告書では、名神高速道路の建設が是とされ、その建設費の一部に世銀が貸付を行なうことにお墨つきが与えられる。ワトキンスはまた、高速道路建設にあたり外国から経験のある技術専門家を雇うことも提言している。

外国が道路の整備に影響を与えたのは何も現代だけの話ではなく、古代から似たようなケースはあったようだ。武部健一『道路の日本史』(中公新書)によれば、3世紀の『魏志倭人伝』にも、魏からの使いが日本を訪れたときの最初の印象として「土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿(きんろく。鳥や鹿のこと)の径(みち)の如し」との記録が見られる。
古代の道路と現在の高速道路はよく似てる!?
『道路の日本史』ではまた、古代の律令制の確立した奈良時代を中心に整備された「七道(しちどう)駅路」という道路網と現在の高速道路の類似点にも言及されている。
七道駅路は、主に中央政権と各地域のあいだでの情報の連絡のために用いられた。駅路では連絡役の使いが「駅馬(はいま)」と呼ばれる早馬で移動し、一定の距離(原則として30里=約16キロ)ごとには途中で使いが乗り換えるための駅馬を常備した「駅家(うまや)」が設けられた。駅路を利用するためには「駅鈴」という鈴が必要で、それを持つ使いは「駅使」と称された。緊急の場合の駅使は「飛駅(ひえき)」と呼ばれ、一日10駅以上つまり160キロを疾駆したという。
七道駅路の「七道」とは当時の日本の地域区分で、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道を指す。駅路は都(はじめは奈良の平城京、のちに京都の平安京)を中心にこの七道の地域のすべての国々に延び、ネットワークを形成していた。
本書では、この七道駅路と現在の高速道路の共通点のひとつとして「路線位置」があげられている。のちの江戸幕府も五街道と呼ばれる道路網を整備したが、高速道路のルートは五街道よりもむしろ古代の七道駅路と同じ場所を通ることが目立つという。それというのも七道駅路も高速道路も、遠くの目的地に狙いを定めて計画的に結ばれており、「計画性と直達性」という点で共通するからだ。これに対して江戸時代の街道は細かい集落をつなぎ合わせたもので、明治以降の国道もこれをほぼ踏襲している。
たとえば江戸期の五街道のひとつ中山道は木曽谷を通っており、現在の国道20号もJR中央本線もこれを踏襲している。これに対して中央自動車道はそれよりも東側の伊那谷を通り、飯田(長野県)から中津川(岐阜県)にかけては延長8キロ超の恵那山トンネルで抜ける。このルートは古代の駅路のひとつ東山道とほぼ重なる。しかも恵那山トンネルは、七道駅路のなかでも最大の難所とされた神坂峠の真下にあたる。中央自動車道の工事関係者は、恵那山トンネルの換気孔が東山道の駅路跡をつぶすと地元の史家に抗議されて初めてその事実を知ったという。
本書の著者である武部健一もまた、かつて建設省(現・国土交通省)の技術者として東名高速道路の建設に携わったときに、計画ルートが駿河国分寺(静岡県)の遺跡にかかっているのではないかとの指摘を受けた経験を持つ。結局、国分寺跡が確認されるまでには至らず、路線は変えないまま構造を高架に変更して、できるだけ寺院の遺構を損壊を少なくすることで解決したという。
このほかにも高速道路の計画・建設に従事するうち似たような経験をした著者は、調べていくうちに高速道路と古代駅路の関係を知ることになる。『道路の日本史』は、著者がそうした実務者としての体験を交えながら日本の道路の歴史をつづったユニークな一冊だ。
(近藤正高)