イギリスの劇作家、ウィリアム・シェイクスピアが死んだのは1616年4月23日、つまりきょうでちょうど400年が経つ。ちなみにシェイクスピアの生年は1564年で「ヒトゴロシ」、没年は「イロイロ」と語呂合わせにすると覚えやすい。
実際、1616年は色々あった年で、シェイクスピアの亡くなる前日には、『ドン・キホーテ』で知られるスペインの小説家・セルバンテスが没しているし、日本でも6月1日(和暦では元和2年4月17日)に徳川家康がこの世を去った。
蒼井優の質問で気づいた。没後400年、シェイクスピアはやっぱり凄い
松岡和子『深読みシェイクスピア』(新潮文庫、5月1日発売予定)。著者の松岡は、彩の国さいたま芸術劇場の芸術監督である蜷川幸雄に任され、同劇場で上演するシェイクスピア劇すべての新訳を手がけている。なお新潮文庫からは本書とあわせて河合祥一郎『シェイクスピアの正体』も刊行される

言うまでもなく、シェイクスピアの戯曲はいまなお世界中で上演され続けている。映画やドラマでとりあげられることも多い。黒澤明のように、時代設定を日本の戦国時代に置き換えて映画化したケースもある(黒澤の「蜘蛛巣城」「乱」はそれぞれ『マクベス』と『リア王』を下敷きにしている)。舞台演出家の蜷川幸雄もまた、1980年に「NINAGAWAマクベス」と題してオランダや本場イギリスで公演するにあたり、俳優たちに武士の衣裳を着せるという大胆な演出を行なった。なお、蜷川幸雄によるシェイクスピア劇の軌跡は、昨年出た『蜷川幸雄とシェークスピア』(蜷川と秋島百合子の共著、角川書店)という本にくわしい。


演出ばかりでなく、日本においてシェイクスピア劇は、明治の坪内逍遥以来、その翻訳も時代ごとに変遷してきた。松岡和子『深読みシェイクスピア』(新潮選書、2011年。この5月には新潮文庫版が刊行予定)では、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の有名なバルコニーのシーンでのジュリエットのセリフが、これまでいかに翻訳されてきたか、ここ百年間の各訳書よりその箇所だけずらりと引用している。当然ながら原文は同じなのに、ここまで語調が違ってくるものかと驚いてしまう。

シェイクスピア新訳の完成はページとステージを往き来しながら


『深読みシェイクスピア』は、1996年よりシェイクスピア戯曲の個人全訳に取り組む松岡和子へのインタビューをまとめたものだ(聞き手は小森収)。そこでは松岡が翻訳の過程で見出した作品の新たな解釈が多々語られている。

翻訳というと原典にひたすら向き合うものと思いきや、松岡のスタイルはそうではない。
これというのも、彼女の手がけるシェイクスピア戯曲は本来、舞台用の上演台本だからだ。《ページとステージの往還によって戯曲の翻訳は完成する》と当人が表現しているように、松岡の台本はいったん書きあがり関係者に配布されてからも、制作現場で役者や演出家の意見を聞きながら、必要とあればそのつど直していくことでようやく決定稿となる。その点ではほとんど新作の芝居と変わりあるまい。

稽古場での役者の指摘は、ときには原文の解釈にまでかかわり、《人物像や男女関係の含意が、がらっと変ってくることさえある》という。とりわけ、『ハムレット』の松たか子、『ロミオとジュリエット』の佐藤藍子、さらに『オセロー』の蒼井優からは大きく触発される体験があった。いずれも本書で松岡がくわしく語っているが、ここでは蒼井優のケースを紹介したい。


蒼井優が感づいた「あなた」と「あなた」の違い


蒼井優は2007年に上演された『オセロー』(蜷川幸雄演出)でヒロイン・デズデモーナを演じた。このとき彼女の夫で主人公のオセローに扮したのは、いまやテレビでもおなじみの吉田鋼太郎である。

『オセロー』は嫉妬に狂う男たちの物語だ。キプロス島のムーア人である将軍オセローは、熱愛の末に結婚した妻デズデモーナが、自分の部下であるキャシオーと浮気していると思いこみ、深く嫉妬する。だが、じつはこの浮気話は、やはりオセローの部下であるイアゴーという男が、同僚のキャシオーをオセローが副官に抜擢したことを恨んで、でっちあげたものだった。キャシオーはまず自分の妻エミリアを通して、オセローがデズデモーナに初めてプレゼントしたハンカチを入手し、それをキャシオーの部屋に置く。それを知らないオセローは、どうして妻のハンカチが部下のところにあるのかと、デズデモーナを疑い始めたのである。


『オセロー』の稽古場で、あるとき松岡は蒼井から《デズデモーナはオセローのことを『あなた』『あなた』って呼びかけてますけど、この『あなた』は全部同じですか?》との質問を受けた。一瞬、その意味がわからず面食らったものの、訊けば蒼井は「三幕四場」でのオセロー夫妻のやりとりに疑問を抱いたのだという。

その場面では、ちょうどデズデモーナがエミリアに「あのハンカチ、どこで失くしたのかしらね」などと言っていたところ、すでに妻への猜疑心で胸がいっぱいのオセローが現れる。よもや夫が自分を疑っているとは知らないデズデモーナは、オセローに「ご気分はいかが、あなた」と訊ねた。それにオセローは「元気です、奥様」と冷静を装いながら答え(内心では「ああ、心をあざむくのは苦しい」と悩み続けているのだが)、「お前はどうだ、デズデモーナ」と訊き返す。妻はこれを受けて「元気よ、あなた」と答えるのだった。


蒼井が気になったのは、夫に訊き返されてデズデモーナが「元気よ、あなた」と答える、この「あなた」が、それまで彼女がオセローに呼びかけるときに使ってきた「あなた」とは違うのではないか? ということだった。

その場で改変されたセリフを彼女はどう演じた?


蒼井の質問は的を射ていた。松岡がその場で原文を確かめてみると、たしかに彼女の指摘した箇所の「あなた」だけほかと違っていたのだ。

くだんの場面で最初にデズデモーナがオセローに言う「ご気分はいかが、あなた」は、原文では「How is't with you, my lord?」で、「あなた」は「my lord」に相当する。my lord は、高貴な身分の夫婦間で妻が夫を呼ぶときに使われる言葉で、現代日本の家庭で妻が夫を「あなた」と呼ぶのと感覚的には同じらしい。これをデズデモーナは劇中で何度もオセローへの呼びかけに使っている。


これに対して、オセローに「お前はどうだ、デズデモーナ」と訊き返されたデズデモーナのセリフ「元気よ、あなた」は、原文では「Well, my good lord.」で、myとlordのあいだに「good」が入る。これはより丁寧というか、むしろ慇懃ともいえる言い方だという。そしてこのデズデモーナのセリフは、その前にオセローが言った「元気ですよ、奥様(Well, my good lady.)」と対になっている。ようするに馬鹿丁寧とも他人行儀ともいえる夫の言葉に、妻も他人行儀で返したのだ。ただし、同じ他人行儀な物言いでも、それを口にする夫婦の内実はそれぞれまるで違う、と松岡は次のように説明する。

《つまり、ここではもう、オセローは妻とキャシオーの仲を疑っていて、内心穏やかではない。だから「ご気分はいかが、あなた」と聞かれたときに、これは心底からの馬鹿丁寧で、あるいは穏やかでない内心を隠そうとしてわざと馬鹿丁寧に my good lady と言った。(中略)それにたいしてデズデモーナが my good lord と他人行儀な呼びかけをするとき、これは心底ではない。キャシオーとの仲は清廉潔白だし、そもそも夫がそんなことを疑っていることすら、彼女は知らない。ですから、デズデモーナの他人行儀は一種のお茶目なギャグのようなものなんです。夫がふだん使わない言い方をした。それを「あ、ふざけてるんだ」と思って、そこで自分もふざけて、とっさに my good lord と返してみせたわけです》

ここから松岡はさっそく、くだんのデズデモーナのセリフの「あなた」を「旦那様」と変えた。オセローの言う「奥様」と対になるようにしたのだ。そしてその場で、蒼井と吉田鋼太郎、それからエミリア役の馬渕英俚可(現・英里何)を交えて、ためしに演じてもらう。このとき蒼井は、オセローの例のセリフに「奥様なんて呼ばれちゃった」とでも言いたげなお茶目な表情をして、ニコッと夫役の吉田に笑いかけると、「元気ですよ、旦那様」と言ってみせたとか(このセリフに吉田は鼻の下をのばしたというが、そりゃまあそうなるでしょう)。彼女はすぐにセリフ改変の意図を察したのである。

それから数年後、蒼井と再び会う機会のあった松岡は、あらためてどうしてあんな質問をしたのか訊いてみた。蒼井はさすがに原文は読んでいなかったが、やはりオセローが「奥様」と言うのが引っかかり、これを彼がふざけていると捉えたらいいのか、わからなくて質問したのだと話してくれたという。

松岡和子は、この一件で、蒼井優が相手のセリフまで考えて自分のセリフへとつなげようとするその姿勢に感服するとともに、男女の気持ちのズレを、一見なんでもない呼びかけ合いのなかから描いてみせたシェイクスピアの凄さを再発見したと語る。

なお、蒼井からの質問はその後、『ロミオとジュリエット』で松岡が長らく訳しあぐねていたことに解答を得るヒントにもなったそうだ。これについて詳細は本書にゆずろう。

それにしても、400年以上も前に書かれたシェイクスピア劇に対して、イギリス本国のみならず、この極東の島国でもいまだに多くの演出家や役者、そして翻訳家が挑み、その過程でなおも新たな解釈が見出されているという事実に、私たちはもっと驚かなくてはいけないのではないか。作品が生き続けるとは、まさにこういうことを言うのだろう。
(近藤正高)