日本市場に向けたBYD初の軽EV「ラッコ」がいよいよ7月28日に発売されます。日産「サクラ」やホンダ「N-ONE e:」とガチンコ勝負となるスペックですが、なぜかBYDは得意の“価格破壊”を仕掛けてきません。

そこには、単に「車を売る」こと以上に恐ろしい、日本の自動車メーカーを飲み込む〈最凶の戦略ゴール〉が隠されていました。中国EVが「価格」ではなく「価値」で勝負する本当の理由と、日産やホンダが陥るかもしれない絶望的シナリオに迫ります。(百年コンサルティングチーフエコノミスト 鈴木貴博



「EV不毛の地」に黒船来襲
BYDが安売りを封印したワケ



 7月28日、いよいよ中国のBYDが日本市場に向けて軽EVを発売します。日本市場は長い間「EV不毛の地」と呼ばれてきましたが、イラン戦争での原油価格上昇を背景に軽EVの維持費のコスパがいいことが見直され始めています。



 先行するのは2022年に販売を開始した日産のサクラで、国内累計販売台数で10万台を超えています。対抗の売れ筋が2025年9月発売のホンダN-ONE e:です。サクラの航続距離が180kmであるのに対してN-ONE e:は295kmと軽EVとしては航続距離が長いのがウリです。



 そしてBYDの軽EV「ラッコ」はというと、サクラとN-ONE e:のガチンコの競合商品としてのスペックで日本市場に参入します。具体的には以下の内容です。



1. 日産出身のエンジニアが開発の中心となって、日本市場で売れている軽自動車と似た外観デザインを選択。日本の消費者に受け入れられやすいトールワゴンタイプ
2. 航続距離は最下位グレードが200km、上位2グレードが300kmとサクラ、N-ONE e:それぞれに射程を合わせてきた
3. 価格は7月28日に発表されるが、基本的には安売りはせず、日本車と同水準に設定することが事前に予想されている
4. そのうえで標準装備は圧倒的に価値を上げることで「比較をしたらラッコのほうがいい」と消費者に受け取られることを狙っている



 中国本土の自動車市場の価格水準ならば日本市場での価格破壊を起こせるレベルの低価格なのですが、その選択はせずに、価値を訴求する戦略で日本市場への参入を決めたというのが、BYDの参入戦略の骨子です。



 では、その戦略は機能するのでしょうか?3つの切り口で独自検証してみましょう。



【検証1】
価格戦略を採用しなかったのは正しい?



 まず最初に検証しておきたいのが「なぜ価格破壊という選択肢をとらないのか?」という点です。



 BYDのコスト構造を前提にすれば、日本市場に150万円程度の低価格で参入することで圧倒的な数量を狙うという選択肢が、論理的にはあり得たはずです。



 しかしBYDはその選択肢を採らなかった。ここが最初のポイントです。理由はいくつかの事情に分かれます。



 一番目の事情が日本政府の警戒です。



 安い中国車はすでに欧州市場で10%を超えるシェアを獲得するようになっています。日本もそうなってしまうことを警戒する政府は、BYDに対して理不尽に低いレベルの補助金を決定しています。



 国の補助金は小型車EVには最大130万円、軽EVでも最大58万円が支給されます。例えば、トヨタの「bZ4X」は130万円の補助金が出ますが、BYDの乗用車に対しては国の審査で補助金は15万円です。軽EVラッコへの補助金はこれから発表されるでしょうけれども、おそらく0~15万円のどれかに決まるでしょう。



 そのためラッコは、競合するサクラやN-ONE e:に対して40万円以上の価格でのハンディキャップを背負うことが予想されます。その前提で価格破壊戦略をとるのは消耗戦になります。これが一番目の事情です。



 二番目に消費者がどう受け止めるかです。



 サクラの売れ筋グレードであるXに対する国の補助金適用後の価格は約202万円、N-ONE e:の売れ筋のグレードLの補助金適用後価格が約262万円です。



 先述したようにBYDはコスト競争力がありますから、その気になればこの価格を下回ることは可能です。航続距離200kmの下位グレードを150万円に、300kmの上位グレードを220万円に設定するような戦略はとれるのです。



 ただその前提だとコストを相応に削る設計になります。これをやると消費者には安物の車として目に映るでしょう。



 これがテレビやパソコンの場合なら安物でもいいという消費者は出てきますが、車の場合は違います。自分の命を預ける商品ですから、安物のイメージは大幅なマイナスにつながります。



 つまりBYDが軽市場に参入するにあたっては、品質、中でも安全品質で日本車を大きく上回るほうが勝ち筋になります。そしてそれを選択すると、どうしてもコストは増加する。だから低価格戦略は選ばなかった。これがふたつめです。



 三番目にチャネルの問題があります。今のBYDのディーラーは、基本的に都市部に配置されています。これまでの売れ筋が都市部で売れるハイエンドの乗用車だったからです。



 しかし軽は一番売れる市場は地方都市です。それを考えると、中期的にはBYDは日本の地方都市にチャネルを拡大していく必要があります。新しい流通パートナーが必要になるのです。



 その際に「そこそこ利幅がとれそうだ」と思わなければ新しいパートナーは手を上げません。この点で、軽EVについても薄利多売ではなく利幅を意識する必要があります。



 これらの前提を総合すれば、BYDが軽EV参入で価格破壊戦略を採択しないことは極めて妥当な判断だといえるでしょう。



【検証2】
価値戦略は消費者に伝わるのか?



 さて、BYDの軽EV「ラッコ」の価格は今から約10日後の7月28日に発表されます。私の予測だと下位グレードの「200」が240万~260万円程度、中位グレードの「300 Plus」が270万~280万円程度、最上位グレードの「300 Premium」が300万円台前半に設定されるのではないかと考えます。



 大きく外れたらごめんなさい。この前提で競合商品と比較をしてみましょう。



 航続距離200kmのラッコ200の競合になるのは日産のサクラです。このサクラは売れ筋は先述したように補助金適用後202万円のグレードXですが、その上のグレードGも補助金適用後約242万円ながら結構売れています。



 サクラのグレードGが選ばれる理由は、高度運転システムのプロパイロットが標準装備されている点です。



 ここにラッコ200を240万~260万円でぶつけるということは、サクラのXとの競合は最初から考えず、Gを選ぶ消費者に対する選択肢として名乗りをあげる戦略ということになります。



 ではラッコは、価値の軸においてどのような価値戦略を選択しているのでしょうか?全車標準装備を見るとラッコの戦略が見えてきます。



 まず安全装備としてはエアバッグ、高強度ボディ、衝突軽減タイプの4輪ディスクブレーキに加えて高度運転支援システムを標準装備します。V2Lの車外給電にも対応。ソフトウェアはOTA、つまり自動的にアップデートされます。



 さらに、サクラにない標準装備が両側電動スライドドアです。



 実はこの電動スライドドアは、ラッコの開発主体となった元日産のエンジニアが日産時代にどうしても採用したかったこだわりの付加価値でした。コストにあわないという理由で日産時代に却下されたものを、リベンジの形でラッコに標準装備させてきたものです。



 ざっくりまとめると、ラッコ200についてはサクラの最上位車種よりも顧客価値がかなり大きい。

そのうえで価格は比較可能なレベルだという線で、消費者はどちらがいいかを選択することになります。



 次にホンダのN-ONE e:の対応車種を見てみましょう。



 航続距離300kmのモデルが比較対象になるのですが、ラッコ300 Plusにはシートヒーターに加えて幼児置き去り検知機能が加わります。さらに最上位のラッコ300 Premiumはそれらに加えて合成皮革シート、アラウンドビューモニターが装備され、さらに電動スライドドアは足をかざすだけでハンズフリーで開閉できるようになります。



 これらの上乗せ機能は、日産サクラの最上位グレードと比較して60万~70万円分に相当するという試算もあります。この価値を比較検討する消費者がどう捉えるかで、価値戦略の成否が決まってくるでしょう。



「それでも日本人の消費者が中国車を“価値があるから”という理由で買うかな?」と疑問に感じる読者の方も多いのではないでしょうか。



 初期のユーザーはおそらくそこではありません。



 日本国内には中国籍の在留外国人だけで93万人の方が暮しています。帰化して日本人になった方や台湾籍の方など、広義の在日華人は総人口の1%を超えるともいわれます。



 実は日本国内ではBYDの乗用車はこれまでもコンスタントに売れているのですが、購入しているのは必ずしも日本人の消費者だけではありません。その前提でコミュニティの中に一台、二台とBYDのラッコを乗りこなす“同僚”や“ママ友”が増え始めるところから日本市場への浸透が始まるでしょう。



「子どもを抱えながらだとこのハンズフリーの電動スライドドアが本当に便利なの」
「確かにそうねぇ」



 このような会話から、消費者層が拡大していく可能性は十分にありそうです。



【検証3】
彼らの戦略ゴールはどこにあるのか?



 さて、とはいえこの価値戦略での黒船襲来を前提に考えると、最初の1~2年で年間の販売台数がサクラ並みの1万台に届けば、ラッコの業績としては御の字ではないでしょうか。



 そこで改めて考えてみたいのですが、BYDが狙う戦略ゴールはそのようなレベルなのでしょうか?



 私はもっと怖いゴールを彼らが設定している可能性を想定しています。



 ラッコが仮に日本市場で初年度で1万台を達成するとしたら、それは日本の流通市場が高い興味を示すことになります。BYDが軽自動車のチャネルとして欲しい事業者が、向こうからBYDにアプローチしてくるでしょう。



 実は昨年10月にイオンがBYDを販売提携するという報道が話題になったことがあるのですが、後にイオン、BYD双方から「イオンモールにBYDの販売店舗を常設する計画はありません」と報道内容が否定されたことがあります。



 しかし軽EVが売れるとなると、話は変わる可能性があります。



 仮にそれがイオンだけでなく、ドン・キホーテだったりヤマダ・エディオンだったり、エネオスだったりするわけです。そういった「車業界から見れば異業種流通がラッコの売り手として本気で手を挙げるようになる」。これが日産やホンダから見た小さめのほうの「怖いゴール」です。



 では大きめのほうの「怖いゴール」は何でしょうか?



 もしイオンではなく、スズキやダイハツが手を挙げたら何が起きるでしょうか?



 BYDのラッコがもし日本市場で一定の成功を収めたとしたら、それはBYDが3つのことを証明したことになります。



 BYDには1年半で日本市場で成功する車を開発するスピードがあること。開発した車は先進国で売れる品質であること。そしてそれがEVやSDV(ソフトウェアをアップデートすることで性能が上がる車)という、日本メーカーがどちらかというと投資が遅れている領域の技術であることです。



 スズキは、インド市場ではインドの国営企業マルチ・ウドヨクと合弁してマルチ・スズキとして勢力を伸ばしてきました。ここを足場にグローバルサウス市場を狙うというのがスズキの基本戦略です。



 しかし仮にBYDスズキが成立すれば、マルチ・スズキは、すでに展開しているガソリン車、ハイブリッド車、CNG車、BEVというマルチパスウェイ戦略に、BYDの電動化技術や商品開発力を取り込むことができる。これにより、グローバルサウス市場における電動車の選択肢を、より速く、より幅広く拡充できる可能性があります。



 もしそういった動きを阻止しようと、今度は日産やホンダが手を挙げたらどうでしょうか?



 日産の経営危機のときに、台湾の鴻海が日産を買うのではないかと噂されたことがあります。日本の経済安全保障上、そういった買収は成立しづらいものです。しかし日産の販売チャネルで全面的にBYD商品を扱うことで売り上げを確保するといった戦略提携なら、政府も日産の生き残り策として賛成するかもしれません。



 そもそも日産にしてもホンダにしても、単独でEV開発に投資する余力はありません。次世代の軽EV含めて、この先不足する新車のラインナップという視点では、BYDと本格的な資本提携を結ぶのは生き残り戦略としては「ナシ」とはいえないでしょう。



 こういったシナリオの怖いところは、BYDに選ばれるのはどこか1社だということです。



 そういった疑心暗鬼が自動車会社同士にあることで、「絶対にそんなことがあるはずない」と日本人が思っているような展開が起きうるかもしれません。



 そしてそういった「日本の有力自動車メーカーをパートナーとして獲得する」というゴールこそが、軽EVという黒船来襲の真の狙いだとしたら?そうだとすると、自動車業界はあまり軽んじて7月28日を傍観していてはいけないのかもしれないのです。

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