「うちの子はいま5カ月で、寝返りの修業中(笑)。今日は、出産後から消えない私の背中のバキバキを取ってもらおうと、やってきました」
「長女に比べて、男の子ってこんなに大変なんだと。

腰はもちろん、長時間抱っこしてると腕もプルプルしちゃって……」

ママたちの言葉に、部屋中から「わかるわかる!」と共感の声が相次ぐ。東京都福生市にある、緑色の外壁が特徴的な森田助産院。5月最後の金曜日に開催されていたのは、母親と赤ちゃんを対象にしたボランティア事業「もりっこサンクスデイ」。ストレッチ教室では和やかな雰囲気のなか、7組の母子がインストラクターの指導を受けていた。

「母乳相談やベビー整体など、コロナ禍の前は月に1回開催していた、地域のお母さん方にも人気のイベントで、前身の『もりっ子の会』から数えると、もう30年以上続いています。私も今朝は5時起きで、ランチの仕込みをしていました」

そう笑顔で話すのは、2代目院長の森田玲子さん(84)。東京でいちばん古い74年の歴史を持つ森田助産院にて、六十余年にわたり3千人以上の赤ちゃんを取り上げたカリスマ助産師だ。その隣で、ぐずり始めた子を抱っこしているのが、長女で副院長の今村理恵子さん(57)。

「実は、お母さんたちの悩みの本質は、今も昔もそんなに変わっていないんです。変化したのは、親の代の助言や支えが減ったこと。すでに今のおばあちゃん世代が子育ての経験値が低くなっているのだと、うちに来る若いママさんと話していて、たびたび実感します」

理恵子さんには今年1月、長年にわたり地域医療に貢献した人に贈られる第54回医療功労賞が与えられたが、これは母子2代連続受賞という快挙だった。“玲子茶屋”と名付けられた広間で、院長手作りのお赤飯のおにぎりや豚汁を前に語ってくれたのは、隣町の羽村市から3カ月の長女と参加した梶理恵さん(43)。

「長男の出産は総合病院の産科でしたが、担当医がコロコロ代わったり、健診も数分で切り上げられたりで、不安と共に過ごした記憶が強くて……。それで、2人目は森田助産院で産もうと決めました。

3人の助産師さんがいつもそばにいてくれて、まるで親戚の家で産むような安心感がありました。いちばん助かったのは、娘が母乳を飲まなくなったとき、玲子先生たちに相談したらすぐに解決したんです。具体的には抱き方を変えました。それだけのことなんですが、豊富な経験からの助言は的確で、娘もまた喜んで母乳を飲んでくれるようになったんです」

ランチのテーブルを囲んで、離乳食や公園遊びなど、自然に母親同士の情報交換の場となっている。その光景を見ながら玲子さん。

「今、若いママさんパパさんたちは、『なんでもAIに相談する』と話します。その結果、示されたデータどおりに寝てくれない、ミルクを飲んでくれないと、かえって不安に陥ってしまうみたいで」

厚生労働省は6月3日、昨年1年間に国内で生まれた子供の数は約67万人で過去最少を更新したこと、また1人の女性が生涯に産む子供の数を示す合計特殊出生率も1・14で過去最低となったことを発表。これを受け、高市早苗首相は、「人口減少は物静かな有事」とのコメントを出した。

戦後ベビーブームの年間250万人ともいわれる出生数を思えば隔世の感があるが、当時から続く森田助産院も今、同様の課題に直面している。イベントに参加した母親たちは口をそろえて、「森田さんには100年続いてほしい」と話した。

その言葉には、祖母、母、孫と3代続く森田助産院の長い歴史のなかに、出産環境の改善と少子化問題を解決するヒントもあるはず、との期待が込められていた――。

森田助産院の始まりは、終戦後最初のベビーブームを経た1952年(昭和27年)6月にまでさかのぼる。戦前から神奈川県横須賀市で“お産婆さん”として活動していた森田かね子さん(故人)が現在と同じ場所で開業。

「出産の形態が、自宅でのお産から、病院の産科や助産院での施設出産へと変わる過渡期でもありました。当時、福生市でも最初の助産院として話題になったそうです」

そう話す玲子さんが、森田助産院の2代目となる経緯とは。

「私は1941年に岩手県の現在の奥州市で生まれました。1歳のときに父親が戦死して、残された母も姉たちも病弱でしたから、自分が少しでも早く自立しなきゃと思い、高校を出て看護師を目指します」

そこに、折よく婦人自衛官養成所(防衛医科大学校看護学科の前身)の募集があり、受験に挑んだ。

「“花の東京”にある施設でしたし、難関でしたから、私が合格し上京するときには地元の新聞に載ったほど。この養成所で3年間学び、看護師(当時は看護婦)の国家資格を取りました」

その後、北海道大学医学部附属助産婦学校で助産師(助産婦)の資格を取るが、これには理由があった。

「当時の病院には、絶対的に優位な立場の男性医師の下に女性の看護師がいるという体制が確固としてあって、私には向いてないな、と思ったんです。そう、放送中の朝ドラ『風、薫る』で描かれる病院の描写のまんま。ならば、医療の現場でも、より女性が主体的に活動できる助産師になろうと考えました」

そして資格取得後の1968年、玲子さんは、かね子さんの長男で会社員の貞之さんと結婚し、自然な流れで森田助産院の一員となる。

「姑となったかね子はしっかり者で、産婆の時代から地域の信頼も厚かった。助産師としても大先輩でしたが、当時の考えで、お産の場に助産師は一人いればいいという主義。ですから手取り足取り教わったわけでもなく、私も最初から現場を任されていました」

結婚翌年の3月には、理恵子さんが誕生。この自身の出産体験が助産師として最大の転機となる。

「初めての出産は、まさに衝撃的でした。陣痛のつらさもありましたが、私はそれを負の痛みではなく、大津波のように押し寄せてくる不思議な命の波だと感じた。逆に、なんで出産に関わる医療の先達はこの状況に“痛”って付けたんだろう、それは違うんじゃないかと考えていました。

というのも、私が産んだ直後に思っていたのは『あと何回、これを経験できるんだろう』ということ。以降、お産に立ち会って、お母さん方が『また産みたい』と言ってもらえるような仕事をするというのが、私が助産師として働く軸となりました」

理恵子さんにとっては、物心つく前から、そばに赤ちゃんやママがいる生活が当たり前だった。

「乳児室で遊んだり、幼稚園生のころには泣いてる子をあやしたり。自宅と助産院はいつでも行き来できる造りになっていて、院にかかってきた電話を私が取ることも。それで、忘れられない出来事があります」

理恵子さんが小学校高学年のある日、受話器の向こうで妊婦の家族が切羽詰まった声で「生まれそうです!」と告げた。

しかし、担当していた母親の玲子さんは、ママさんバレーの練習に出かけて不在だった。

「すぐに学校に電話しましたが、なかなか母がつかまらず、焦った私はパニックになって大泣きしてしまうんです。その後、母が戻り、お産も無事に終えますが、弟たちと一緒に『もう出かけないで』と頼んだのを覚えています。助産師の母は常に忙しく、お産も365日24時間態勢なので、家で横になればすぐ眠ってしまうということも多かったり。それでも私たちの食事やお弁当はちゃんと作ってくれていましたから、本当に心身ともにタフな人でした」

中学、高校時代にはバレーボール一色という学生生活を送っていた理恵子さんだったが、ある葛藤を抱えていた。

「幼いころから、助産師として『強くてやさしい女性』という理想の生き方を貫いている母の姿は、私には目標であり、同時にプレッシャーでもありました。そうした束縛から逃れ、女性として経済的にも独り立ちしたいと考えたとき、最終的に頭に浮かんだのは、やはり看護師という職業でした」

高校卒業後、立川市の立川病院付属立川高等看護学院で学び、看護師資格を取得。

「さらに、それから賛育会病院付属の助産婦学校に通って助産師となったのは、やっぱり赤ちゃんが好きだから。そこにいるだけでかわいいし、いとおしい。私自身、当たり前のように赤ちゃんに囲まれて育ってきたわけですから、これはもう理屈じゃないんですよね」

その後、総合病院での勤務を経験したあと、1995年に理恵子さんは実家の森田助産院で働き始める。振り返れば、信念で突き進む母の姿に複雑な思いを抱きながらも、同じ道を選んだ自分がいた。

「ずっと『家なんか継がない』と言ってたのに、最後には引き寄せられたといいますか。

また当時、祖母のかね子が高齢で引退をむかえる時期でもあり、そこに私が入れ代わりで入ったという流れもありました」

当時の事情を、玲子さんは、

「娘は学生時代から『赤ちゃんと一緒にいられる仕事がしたい』というのだけは変わりませんでしたから、『じゃあ、母さんと同じ仕事しかないね』と話しました。実はかね子の母、つまり理恵子の曽祖母も横須賀でお産婆さんだったんです。ですから、あの子は助産師としては4代目に当たるんです。これには感慨深いものがありますね」

理恵子さんは、実家の助産院で働き始めてすぐに地元での活動も積極的に行い、行政とも連携して地域母子保健とも深く関わるようになる。

「もともと私自身が、『助産院の子』として地域に見守られ育ちました。まずは赤ちゃんを取り巻く現状を知ろうとして、新生児訪問や退院後の母親の生活を追っていくと、社会の変容とともに、出産や子育てに関して困ったり悩んだりしている人が実に多かった。当時は、環境汚染からくる母乳育児への不安などもありました。これらに対処していく活動が、産後ケア事業ともつながっていくんです」

一般の病院での勤務経験もあっただけに、助産院の特性もより明確になってきた。

「助産院では、大前提に“お産は病気じゃない”という考え方があります。心身を整えてのぞめば、まずはいいお産になる、ということ。病気も早めに見つけてすぐに対処し、同時に家族との連携も大事にして、リラックスしたなかでお産をする。

ですから、うちではふだんから妊婦さんだけでなく、ご主人や家族ともコミュニケーションを取ったり、妊婦さんとは会話はもちろん、必要なら足をさするなどしながら信頼関係を築いていく。

自然に個別性も高くなります」

同時に、働き始めて知るのは、母の偉大さだった。

「経験に裏打ちされた、産ませる技術の高さはもちろんですが、お母さん方とのやり取りを見ていると、とにかく真っすぐに向き合いますから、技術より、単純に人として好かれているんです。だから、『最後は玲子先生にお願いしたい』という声も多い。私は娘ですから、当初は『へぇ、そんなにすごいんだぁ、うちの母さん』と感じていたこともありましたが(笑)。しかし、それこそいちばん大切な助産師の資質だと知り、今では私の一つの指針となりました」

74年の歴史を誇る森田助産院。「100年続く助産院」を目指し、玲子先生たちは今日も一人ひとりと徹底的に向き合っている。

【後編】都内で74年続く助産院 直面する出産数減少に「AIに相談して悩んでしまう夫婦が増えている」へ続く

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