カリブ海の熱帯に生きるアシナガバチの一種は、女王という絶対的な支配者を中心に巣を維持している。
その女王の姿が消えると、平和だった巣がたちまち一変する。
働き手のメスたちが互いに噛みつき、攻撃する凄絶な権力争いが勃発し、保たれてきた秩序が24時間経たずに乱れていくのだが、意外にも巣は崩壊から免れた。
英ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの研究チームが、過去のデータを再分析した結果、「戦わないハチ」たちの存在が明らかになった。
そのハチたちは、阿鼻叫喚の”地獄”の中でも、黙々と幼虫のお世話と採餌を続けていた。
この研究成果は『Animal Behaviour』誌[https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0003347226001181](2026年5月26日付)に掲載された。
女王が支配するハチの社会
カリブ海から中央アメリカにかけての熱帯地域に生息する「ネオトロピカル・レッドペーパーワスプ(学名:Polistes canadensis)」は、木の繊維を噛み砕いてできた「紙」で巣を作るアシナガバチの一種だ。
翅を含む体長は、働きバチで15~20mm。女王は17.0~24.5 mm。日本に生息するアシナガバチと同じPolistes属に属しており、社会構造もよく似ている。
巣の中心に君臨するのはもちろん、唯一の繁殖権を持つ女王だ。女王は巣の中で最も攻撃的な個体であり、他のメス(働きバチ)に威圧的な行動を取ることで、自らの地位を維持している。
こうした社会構造から、働き手のメスたちは常に抑制され、繁殖能力も女王がいる限り抑えられている。
ミツバチの働きバチは生物学的に繁殖できない体を持つが、ネオトロピカル・レッドペーパーワスプの場合は別だ。
女王さえいなくなれば誰でも次の支配者になれる。
だからこそ、突然起きた”女王不在”は、単なる「空席」ではなく、一触即発の権力闘争の火種となる。
土台はパナマの密林のフィールドワーク
この研究の土台となったのは、2000年代初めに、世界屈指の生物多様性を誇るパナマ共和国で行われたフィールドワークだ。
ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)とロンドン動物学会(ZSL)合同研究チームが、パナマ運河周辺の熱帯雨林の4地点で、19のコロニーを対象に、合計306匹のハチ一匹一匹に、色付きの小さな点を塗って個体識別を行い、数千件にのぼる行動を記録した。
今回の研究は、その膨大なデータを20年以上の時を経て再分析したものだ。
実験前、女王がいる間の巣の中は比較的穏やかだった。
女王が攻撃行動のほとんどを担う一方、働き手のメスたちは、イモムシを狩ったり、幼虫に餌を与えたりといった日常業務をこなしていた。
上下関係は明確で、巣全体が秩序を保ち、ひとつの機能する社会として動いていた。
女王が消え攻撃力10倍!新女王は争いの果てに決まる
ところが、研究チームが女王を取り除いた瞬間、状況は一変する。
突如として支配権をめぐる争いが勃発。複数のメスが同時に争い始め、攻撃行動の頻度は、女王がいたときと比べ、およそ10倍にも跳ね上がった。
これまで女王だけが担っていた攻撃を、働きバチ同士が互いに向け合う凄絶な事態に。
コロニーによっては、40%以上のメスが争いに参加し、秩序だった権力の引き継ぎどころか、多数の個体が入り乱れる”地獄”が巣全体を飲み込んだ。
研究チームを驚かせた事実は他にもあった。
権力闘争で新女王の座に着いた個体は、女王が消える前の時点まで何一つ特別なところがなかった。
体が大きいわけでも、特に攻撃的だったわけでも、元の女王に特別扱いされていたわけでもなかった。
だがその個体は、争いの始まりから数日経って初めて、他のメスとの違いを見せ始めた。
この巣には、「次の女王候補」など元からなかったのだ。誰が女王になるかは、争いの結果次第。なんと修羅な世界だろう。
争いの最中で赤ちゃんのお世話は誰が?
地獄と化した巣で、ひとつの疑問が浮かぶ。
働きバチの40%以上が争いに明け暮れているなら、幼虫、いわば赤ちゃんへの給餌や採餌(さいじ)は誰がしたのか。
多くの動物社会では、権力交代の混乱期に育児や食料調達が滞り、巣全体が弱体化する。
だがネオトロピカル・レッドペーパーワスプは、最終的には巣の崩壊を免れていた。
今回研究チームが注目したのは、採餌行動の変化だ。女王が消えると、それまで採餌を担当していた一部のメスが、争いに参加するために巣外への行動をやめてしまった。
すると同時に、それまで採餌を一切していなかった別のメスたちが、新たに巣の外へ出て食料を集め始めた。
女王が消えた後に採餌を行った働きバチのうち、約70%が、この新規参入グループだった。
また興味深いことに、この争いの最中でも、採餌の頻度は驚くほど安定しており、食料を分け合うネットワークも維持されていた。
巣は事実上、2つの集団に分かれて機能していた。
一方の集団は、新たな女王の座をめぐってひたすら争い、もう一方は、その凄惨な争いに加わらず、淡々と社会を動かし続けた。
戦わない選択が巣の機能を補い救う結果に
研究チームはこの、争いを避け、巣の維持に徹した戦わないハチの個体群を「補償者(compensator)」と名付けた。争いによって滞った巣の機能を補う役割を果たしていたからだ。
補償者と争いに加わった個体のあいだに、生物学的な違いが一切見られなかった点だ。体の大きさも、遺伝的な特性も、補償者を特別な存在として区別できる要素は何もなかった。
さらに詳しく言えば、研究チームによると、実は巣の中には初めから、争いも采餌もしない、第3の働きバチ集団が存在していた。
「不活発」と表現されるその集団は、怠けているというよりも、単に巣の内側で待機していた個体で、まだ巣外行動の経験がない若い個体とみられる。
研究チームは当初、それまで動きがみられなかった第3の働きバチのメスたちが、緊急の戦力として采餌に加わると予想していた。
しかし実際には、その多くは女王が消えても不活発なままだった。対して補償者として動いた個体はもともと活動的だった。
「固定された役割」ではなく「戦略的な選択」
筆頭著者のオーウェン・コーベット博士(UCL生物多様性・環境研究センター)はこのように述べている。
争いは激しかったが、それが全てではありません。
支配権をめぐって戦う個体がいる一方で、対立を完全に避けながら、静かに巣を維持し続ける個体もいました協力体制が失われたのではなく、再配分されたんです
研究チームは、この行動の違いを「固定された役割」ではなく「戦略的な選択」と解釈している。
「支配権を勝ち取ることが将来の繁殖につながる」と判断したハチは争いに参加し、「幼虫を守り育てることが自らの遺伝子を残す近道だ」と判断したハチは補償者として巣を支えた。
可能性で言えば、ホルモンバランスや年齢、生理的な違いがこうした選択に影響しているかもしれないが、その点は未解明だ。
ハチ社会は思っている以上に人間社会に似ている
これまでの社会性昆虫の研究は、ヨーロッパや北アメリカに生息する温帯種に偏っていた。温帯種は序列が固定されており、権力の継承もある程度予測可能だ。
今回の研究対象、ネオトロピカル・レッドペーパーワスプは、攻撃と競争によってリーダーが決まる、はるかに無秩序な社会を持つ。それでも巣は崩壊しなかった。
争う者と支える者に自然と役割が分かれ、社会が機能し続けたからだ。
上席著者のセイリアン・サムナー教授(UCL生物多様性・環境研究センター)はこう語る。
動物社会が対立をどう管理するかを理解することは、協力というものをより広い視点で考えるきっかけになります
混乱の時代における社会は、その陰で必要不可欠な仕事をし続ける者たちに依存しています
ある意味で、私たちは思ってる以上にハチに似ているのかもしれない
体長わずか数cmのアシナガバチから得られた意外な結果。
突然の女王不在の直後に起きた、地獄のようなカオスの中で、崩壊の危機に瀕した巣を救ったのは、ただ争わず、自主的に欠員を埋め、働き続けたハチだった。
ある意味、動乱の世では、個々の強さや賢さよりも、状況を見てやれることにコツコツ取り組み、争う代わりに協力し合う行動自体が重要ってことなのか。
混乱の中でも社会を支えるのは縁の下の力持ち、というのは、ハチも人間も変わらないのかもしれない。そのへんみんなはどう思う?
References: PHYS[https://phys.org/news/2026-05-chaos-queen-loss-reveals-wasps.html] / Neurosciencenews[https://neurosciencenews.com/wasps-chaosconflict-evolution-20757/] / Wikipedia[https://en.wikipedia.org/wiki/Polistes_canadensis]











