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年始から好調に推移している日経平均株価。2025年10月に5万円を超え、最近は6万円台で推移しているが、「最高値更新」のワードがひと際注目を集めたのは2024年2月22日だろう。

バブル期の1989年12月に記録した3万8915円を、約34年ぶりに更新した日だ。“失われた30年”が終わりを迎えた瞬間といえるかもしれない。

バブル期から現在までの30年以上、日本の証券業界や市場の最前線を追いかけてきたのが、日本経済新聞社編集委員の小平龍四郎さん。その目で見てきた現場や関係者の声をまとめた書籍『山一前後 日本証券市場の敗戦と復興』(日本経済新聞出版)には、日経平均株価の最高値が30年以上も更新されなかった理由と市場の変化が綴られている。

証券部記者として市場を見てきた小平さんに、“失われた30年”の変化について伺った。

顧みるべきは“失われた30年”ではなく“失った10年”

日経編集委員が振り返る“失われた30年”の過ちと功績


――『山一前後』のまえがきで、“失われた30年”について「個人的に『失われた』という総括の仕方は好きではない」と書かれていたのが印象的でした。

小平 “失われた”というより、本当に“失った”のは最初の10年だと思うんです。バブル崩壊後の90年代は証券業界や市場の不正があまりにもひどく、次の10年でリハビリをしたわけですよね。それが効いてきて、最後の10年で株価が上がっていきました。だから、“失われた30年”とひと括りにしてしまうのは、違うのではないかと感じるんです。

いま現場の最前線で働いている方の多くは、バブル期やバブル崩壊後の社会を経験していませんよね。日経の記者のなかにも「当時の記憶はほとんどない」「その頃は生まれていなかった」という人がいるので、同じことを繰り返さないため、歴史を検証する作業が必要だと思い、『山一前後』をまとめました。

――『山一前後』を読んで、バブル期やバブル崩壊後の証券業界の在り方に衝撃を覚えましたが、当時の業界の雰囲気はどう捉えていましたか?

小平 私が社会に出た1988年はぎりぎりバブル期だったので、漠然と景気がいいなと思っていましたね。

一方で、こんなに調子のいいことは続かないとも感じていたんです。変調したときに、原因をしっかり分析しないといけないんだろうなと。

というのも、バブル期から90年代初頭にかけての市場は、いまでは信じられないくらい未整備の状態だったんですよ。例えば、当時のインサイダー取引規制は定義が曖昧で、使い勝手の悪い法律だったため“抜かずの宝刀”といわれるほどで、実際にインサイダー取引に認定された事案を聞いたことはありませんでした。

当時はまだ「5%ルール(※1)」もなかったので、誰が株式を買い占めたかがわからず、思惑が働きやすかった。誰も見えないところで企業と関係を築くといった、不透明な買い占めもありました。証券取引等監視委員会が設立される1992年までは、なんでもありの状態だったんです。

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※1 上場企業の発行済み株式数の5%超を保有する株主は、5営業日以内に「大量保有報告書」の提出が義務付けられる制度。1990年12月に導入された。

――90年代前半から市場に関する制度が整備されていったのは、バブル崩壊が関係しているのでしょうか?

小平 そうですね。バブルが崩壊して株価が下がり始めたことで、証券会社が企業の財テク(※2)の損失を引き取って簿外に隠す「飛ばし」などの不正が行われたんです。そして、それが不祥事として明るみに出たんですよね。



バブル期の東京株式市場の時価総額は、ニューヨーク株式市場の時価総額を超えるくらいの勢いがあり、外国人投資家にも注目されていました。それが一転して株価が下落したうえ、財テクまみれの企業と損失補填に走り回る証券会社の実態が見えてきて、一気に外国人投資家の目が厳しくなったんです。カルパース(米カリフォルニア州公務員退職年金基金)が野村證券や大和証券に「社外取締役を入れてくれ」と要請するといったことも起こり始め、制度の整備が必要になったんです。

※2 企業が余剰資金などを用いて株式や債券、不動産に投資し、利益を得ること。

山一証券が“自主廃業”に至った理由

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――90年代前半から制度が整備されていったものの、すぐに改善されずに“失われた30年”へと突き進んでいってしまったのは、なぜだといえるでしょうか?

小平 日本企業も証券会社も、日本的経営に非常に自信を持っていたからだといえます。バブル期に日経平均株価が最高値を更新したわけですから、なかなかその考え方や慣習を捨てられなかったんですよね。

日本的経営の代表例が、山一証券の取締役会。1997年に山一証券が自主廃業したときの取締役会は取締役が40人もいて、全員が年功序列で社内から引き上げられた男性でした。そのほとんどが三木淳夫社長の同期で、「飛ばし」などの不正を知っても騒ぎ立てない人物ばかりだったため、「お友達クラブ」と呼ばれていました。不正にまみれていた山一証券は結果的に破綻しましたが、日本企業を象徴する出来事だったと感じます。

――ほかの企業や証券会社も、破綻する可能性があったということですか?

小平 大いにあったでしょうね。山一証券は簿外の損失を隠し切れなくなりましたが、同じように簿外で損失を抱えている企業はあったので。ただ、責任問題に発展するから損失を認めるわけにはいかないし、株式や不動産を持っていればなんとかなるだろうという思考も強かった。

悪いことは隠しておけば改善する、といった楽観的な見方がされていたのでしょう。

バブル期の強烈な株価上昇の余韻から、抜け出せていなかった部分もあると思います。そんな状況から数年が経ち、にっちもさっちもいかないんだと気付かせてくれたのが、山一証券の破綻だと思います。

――先ほどカルパースからの社外取締役の要請の話もありましたが、早い段階で外部の目を入れたりしていれば、不正を見直すことができて、破綻も免れたかもしれないということですよね。

小平 その通りですね。今回、『山一前後』を書いたのは、「ディスクロージャー(情報開示)は極めて大事だ」というメッセージを伝えたい思いもあったからです。

2000年代は日本市場の“停滞期”

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――山一証券の自主廃業が証券業界や日本社会に与えたインパクトで、もっとも大きかったところはどこでしょうか?

小平 グローバルスタンダードを意識せざるを得なくなった、という点だと思います。山一証券破綻の前後で、日本版金融ビッグバンが始まったんですよね。日本の金融サービスや市場を海外に開放し、外国のプレイヤーと切磋琢磨して、サービスや市場の質を高めていこうという改革です。

実際、山一証券の破綻後にはアメリカの証券会社・メリルリンチが上陸したり、ナスダック・ジャパンが開業したりするといった動きがありました。会計やコンプライアンス、ガバナンスの改革もこの頃から始まりました。日本的経営だけでは立ち行かないことがわかってしまって、やや過剰な部分もあったかもしれませんが、グローバル化を推し進めたと。



――ただ、『山一前後』のなかでは、2000年代に入ってからもグローバル化が素早く進んだわけではなかった、と書かれていましたよね。

小平 銀行の不良債権処理が遅れたことが理由のひとつではありますが、不運なこともいろいろ起きたんですよね。2006年頃に不良債権問題の目処が立ったのですが、2008年にリーマン・ショックが起きてしまった。2011年には東日本大震災が発生し、政権交代も続いて、世の中が混乱しました。この期間は、市場も停滞期にあったといえるでしょう。

ただ、振り返ってみると、山一証券や北海道拓殖銀行などの大手金融機関が相次いで破綻した1997年の日本版金融危機以降、日本発でグローバルマーケットを混乱させるようなことは起きていないんです。海外での金融危機や災害による影響ばかりだったので、ここは日本がもう少し誇ってもいいところだと思います。

――その停滞期に制度を改善していったからこそ、いまの日経平均株価最高値につながっているわけですよね。

小平 日本も大きく変わってきましたよね。例えば、決算発表ひとつ取っても、かつては単体決算が主で、連結決算は無視されていました。だから、関連会社の業績が悪かったり含み損があったりしても、誤魔化せていたんです。

しかし、いまは連結決算が主で、含み損があれば評価損にしたり減損したりするといった対応を取るのが一般的です。

連結決算と時価会計は山一証券破綻後に導入されたグローバルスタンダードのひとつで、現在の日本企業の投資判断やリスク管理に大きく影響しているといえます。

日本の証券市場の変化を、ぎゅっと凝縮して話してくれた小平さん。後編では、現在の株価高騰に対する思いや今後の日本に期待することを伺う。

日経編集委員が振り返る“失われた30年”の過ちと功績


(取材・文/有竹亮介 撮影/森カズシゲ)

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