■クマに背中を向けて逃げてはいけない
もし、不運にもどこかでクマに出会ってしまった場合、どうすればいいのだろうか。
俗にクマに会ったら「死んだフリ」をしろとも言われる。だが、猛獣の前で「死んだフリ」をするのは、戦いを放棄し、自由に攻撃してくださいと言うに等しいのではないのだろうか。
東京都環境局のHPでは、クマに襲われた場合の対処法について、次のように解説している(図表1)。
この対処法は、クマとの距離によって3段階にわかれている。
まず、「①クマが遠くにいる場合」は、「そっとその場を離れる」。
次に、「②クマが近くにいた場合」は、「背中を見せず、落ち着いて、ゆっくり後ずさりしてその場を離れる」。
最後に「③クマに襲われた場合」は、「うつ伏せになって丸まり、組んだ両手で首の後ろ側を、両ヒジで顔をガード」。
なぜ3段階に分かれているのだろうか。
簡単に解説すると、まず、クマは人間を見かけても、積極的に襲ってくることはまれだ。
そのため、クマを見つけても、十分な距離がある場合は、お互いそっと離れることが可能だと考えられる。
一方、近距離で遭遇した場合、クマに背中を向けると襲ってくる習性があるため、慌てて逃げようとしてクマに背中を向けるのはむしろ危険である。
クマから目をそらさず、じっと見ながら、後ずさりして安全な距離まで離れることで危険を回避できるとされている。
■ある妊婦を襲った突然のクマ被害
ただ、クマによる襲撃の大半は、事前にクマを見つけられず、「突然クマが襲ってきた」ケースだとされている。
この場合はクマからの攻撃にどう耐えるかが問題となる。
クマの戦闘能力は非常に高いため、中途半端に戦うと致命傷を受ける可能性が大きい。ナタや杖などで戦い勝利した事例もあるが、原則として、クマとは絶対に戦ってはならない。戦うかわりに「うつ伏せで首の後ろを守る姿勢」をとり、多少のケガは覚悟し、致命傷だけは避けましょう、という対処法となっている。
東京都環境局のHPに書かれているこの対処法は、日本中で広く教えられているものだ。
一方で、少々誤解されているフシもあるように感じる。
クマに遭遇した際、最初から「うつ伏せで首の後ろを守る」が最善と思いこんでいる人が少なからずいるのではないだろうか。
最初からこれをやるのは、ほぼ「死んだフリ」をするのに等しい。その結果どうなるか。実際の事件をもとに考えてみたい。
2025年9月、中国・甘粛省に住む張さん(22歳)は当時、妊娠14週目だった。安定期に入り、つわりも落ち着いてきて体調は良かった。
中国・甘粛省をご存知の方はどのくらいいるだろうか。甘粛省は中国西北部に位置する省で、省都は「蘭州ラーメン」で有名な蘭州だ。
人口は約2500万人。西にはあの新疆ウイグル自治区が位置する。
■鋭いキバが、張さんの右目と左耳に刺さり…
甘粛省は歴史的にはシルクロードの要衝として栄えてきた。世界史で勉強する「敦煌」は甘粛省にある。
シルクロードというと、砂漠をキャラバンが旅するイメージもあると思うが、実際、甘粛省の大半は内陸性気候で、砂漠地帯が多い。
そんな甘粛省に住む張さんは22歳の女性で、夫との間に2人の息子がいた。夫は日雇い労働者で、張さんは家で子育てをしながら、牛の放牧で家計を支えてきた。
そんな張さんがクマに襲われたのは、2025年9月7日の午後だった。
張さんが牛を連れて帰路についていると、背後4~5メートルの距離に、突然クマが現れた。
クマの気配に気づいた張さんが後ろを振り返る。と、その瞬間、クマは唸り声を上げて張さんに飛びかかった。
クマは張さんの背中を爪でひっかく。服がたちまち引き裂かれ、張さんは苦痛にうめいた。
クマはさらに、張さんの頭部、顔面に激しく噛みついた。クマの鋭いキバが、張さんの右目と左耳に深く刺さると、目から血が噴き出した。
クマはそれでも攻撃をやめない。
■激痛に耐えて「死んだフリ」を続けた
張さんは咄嗟に、「死んだフリ」をすることに決めた。
地面に横たわり、身体をみじんも動かさないようにつとめた。呼吸すら止めていたという。
ただ、クマがそれで退散したわけではなかった。しばらくの間、クマは張さんが本当に死んだのかどうか確かめていたという。
クマは前足の爪で張さんの腕に触れ、引っかき傷を負わせた。張さんは苦痛を覚えるも、「死んだフリ」を続けた。
最後は張さんの忍耐強さが勝った。クマは張さんが死んだと判断したのか、やがてその場を去っていった。
張さんはクマが十分遠ざかるまで、息を止め死んだふりを続けた。クマの気配が消え、安全を確信できるまで待ってから、張さんはその場から逃げた。
襲撃現場は張さんの自宅からわずか数百メートルの距離だったという。
張さんの顔はクマの攻撃で腫れ上がっていた。キバが深く刺さった右目は全く見えず、左目もケガを負っていたが、右目にくらべれば傷は浅そうだった。
ただ、両目をケガしていて、周囲がまるで見えない。張さんが強引に指で左目をこじ開けると、辛うじて道が見えた。そんな状態で激痛に耐えながら帰宅し、近くの住民に助けを求めたという。
■病院で医師から告げられたこと
張さん自身の証言によると、そのあたりでは牧場や村の近くにクマがよく出没しており、以前にもクマに襲われ亡くなった人がいると聞いていたという。
張さん自身も、牛の放牧中に、遠くからクマの姿を2回ほど見たことがあった。ただ、その時のクマは張さんをただ見つめるだけで襲ってはこなかった。
張さんの村の高齢者から「クマに襲われたらすぐ死んだフリをすれば逃げるチャンスがある」と聞いていた。
張さんは「その言葉を覚えていたから命拾いしました」と話している。
事件発生から約20分後、張さんの夫が事件を聞いて慌てて駆けつけた。
夫は張さんを町の保健所へ連れて行った。張さんはそこではじめて傷の処置と止血を受けた。
その後、車で街の病院へ行き、診察を受けたが、医師から「傷が極めて深いため、眼球を維持できない可能性が高い。眼球を摘出して義眼を入れるしかない」と告げられたという。
■気圧の変化を避け、車で1000km移動
諦められない夫は、張さんをすぐ西安の病院へ転院させた。西安は四川省の省都で、甘粛省からは隣の省にあたる。広い中国のこと、移動距離は約1000kmにものぼる。
傷病者にその距離を移動させる場合、通常は飛行機移動となるが、飛行機には離陸・着陸の間に高度が変わり機内の気圧が変化するという問題があった。気圧が変われば、張さんの眼圧・頭蓋内圧が上昇し、眼球のケガに悪影響を及ぼす可能性があるわけだ。
そのため張さんの夫と親族は、車での移動を選択し、張さんを車に乗せ、西安まで約1000kmの距離を、約40時間かけて移動した。
張さんが西安市人民医院の救急科に到着したのは9月9日の早朝だった。
入院時、張さんの頭部には多数の開放性創傷があった。開放性創傷とは、皮膚が破れて皮下組織や筋肉が露出している状態を指す。
また、張さんの右眼球はすでに脱け落ち、光の感覚もなかった。
また、左耳の耳たぶに裂傷があったほか、外耳道(耳の穴)の中にも裂傷があり、鼓膜穿孔(鼓膜に穴が空いた状態)だった。クマが張さんの耳を攻撃し、キバか爪が耳の中まで到達していたらしい。
また、この時、張さんが妊娠14週であることが確認されている。
■6時間に及ぶ大手術で一命を取り留める
中国国営放送「CCTV」の記事には、西安の病院で治療を受ける張さんの痛々しい姿がモザイク加工された写真で掲載されている。
病院はすぐ手術することにした。張さんが妊娠14週目である点が心配されたが、妊娠中期に入り、麻酔が胎児に影響する時期は過ぎていると判断された。
9月9日午後1時、手術が開始された。張さんの傷の範囲と程度は、術前の予想より深刻で、眼部・耳部・鼻骨・頬骨などに複数の裂傷と骨折が見つかった。
手術は6時間にも及び、張さんは1400mlの輸血を受けた。ICUで数日過ごした後、一般病棟に移り、9月18日には無事退院したという。
張さんの夫は、「張さんの右目の眼球は残っていたが、99%の確率で右目が見えなくなると言われました」と証言している。
「妻はとても美しく、勤勉な女性。クマに襲われても、勇敢で強いところを見せてくれた。視力が残る可能性が1%しかなくても、私と家族は最大限の努力をして、妻の治療を続けます。耳の治療や顔の回復も含めて……」
■死んだフリは本当に有効だったのか
さて、張さんがクマに襲われ、咄嗟に「死んだフリ」をしたことについては、中国国内でも評価が分かれている。
中国ポータルサイト「捜狐」に掲載された記事は、甘粛省で張さんを襲ったクマは、アジア黒熊(ツキノワグマも含まれる)で、人間への攻撃性が低かったため、「死んだフリ」が有効だったと分析している。ただし「死んだフリ」が常に有効なわけではないとも指摘している。
一方、中国メディア「人民網」は、クマに「死んだフリ」は非常に危険な行為だと指摘している。
陝西省動物研究所の研究員・金学林氏によれば、「張さんが黒熊に襲われた後に『死んだふり』をしたのは、実は非常に危険な行為です。なぜなら黒熊は雑食性で、腐った死骸を好んで食べるからです」という。
さて、張さんの対処法は果たして適切だったのだろうか。
このケースでは、張さんがクマに気づいた直後に襲われているため、「後ずさりして距離を取る」のは不可能だったと考えられる。
つまり、クマに襲われてしまっているため、張さんとしては、「死んだフリ」すなわち「うつ伏せの防御姿勢」しか対処法がなかった、と考えられる。
■間違った防御姿勢はむしろ逆効果
ただ、張さんが眼球や耳に重症を負った点が注目される。先にあげた東京都環境局のHPの対処法では、「両ヒジで顔をガード」することになっている。
もし張さんが「両ヒジで顔をガード」していれば、耳・眼球への被害は避けられたか、軽減された可能性が考えられるだろう。
つまり、正しい方法の「死んだフリ」をしていなかったことが、張さんの被害を悪化させた可能性があるということだ。
クマと遭遇する状況は様々であり、状況ごとに最適な対処法は異なってくる。
「いつでもこれをやれば大丈夫」という方法はないため、ケースバイケースで判断せざるを得ない。
ただ、それでも対処法の基本を正しく理解し、普段から準備していれば、いざという時に命拾いしたり、重症を避けられる場合もあるはずだ。
山間部に住む方、普段からよく山に行かれる方だけでなく、広く一般の方も、クマに出会った時の対処法について、知っておいて損はないだろう。
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中野 タツヤ(なかの・たつや)
ライター、作家
出版社で書籍・Web編集者として活躍したのち独立。ヒグマ関連記事を多数手掛けた経験をもとに、日本および世界のクマ事件や、社会・行政側の対応について取材している。2026年秋に初の小説作品『もしもヒグマが港区にあらわれたら(仮)』を刊行予定。tatsu_naka1226@ymail.ne.jp
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(ライター、作家 中野 タツヤ)

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