■「何もしないで死を待つなんてできない」
九州地方在住のハナエさん(仮名50代)は2月、“藁にもすがる思い”で上京した。
およそ半年前、胃がんの診断を受けて胃の4分の3を切除したが再発。CT検査の結果、腹膜播種(ふくまくはしゅ)が見つかり、主治医から「もうできることはありません」と宣告された。
腹膜播種は、胃や大腸、卵巣、膵臓などの原発がんからがん細胞が腹腔内にこぼれ落ち、「種をまく」ように腹膜全体に散らばってしまう現象だ。
診断が難しい上に、手術での切除は困難で、化学療法(抗がん剤)も効きにくいことから、特に胃がん、大腸がんでは「播種があったら諦める」傾向が日本ではある。ハナエさんの主治医もそうだったのだろう。
それから1カ月、インターネットで医療情報を検索しまくったハナエさんは、有償治験という特殊な形で国から許された“認可未満”の治療法にたどり着いた。提供するのは有名な大学病院で費用は1クール1万円ほど。重篤な副作用の報告はなく、半世紀で40万人以上が受けたというその治療法は、超高額な自由診療が乱立するがん領域で、唯一「怪しくない」と感じられた。
無論、起死回生は期待していない。
「効かないかもしれない。でも、何もしないで死を待つなんてできません。私はまだ歩けるし、動けるし、生きています。10代の娘もいます。今、死ぬわけにはいかないんです。私はどうしたらいいんでしょうか」
相談を受け、筆者が紹介したのが、国立国際医療センターの「腹膜センター」だった。
■余命宣告の5カ月後に亡くなった兄
胃がんや大腸がん、卵巣がんなどの患者にとって、腹膜播種は長らく“終末”を意味してきた。
がん細胞が腹腔内にこぼれ落ち、腹膜全体に散らばるこの状態は、診断が難しく、手術も抗がん剤も効きにくい。
事実、筆者の兄は3年前、大腸がんの腹膜播種が見つかって「余命半年」の宣告を受けた後、5カ月で亡くなった。切除手術を強く勧めてきた“名医”は、お腹を切り開き、腹膜播種を見つけると即座に手術から撤退。兄が麻酔から目覚めた時は既に、医局で一番若い医師に主治医は交代しており、以後、遺体となって退院する時まで名医は一度も病室に顔を見せなかった。関東地方の大学病院での話だ。
その大学病院が特に冷たいわけではない。大阪・関西万博の前年、がん撲滅を謳ったイベントに登壇した大腸がんの名医も、「先生が有望と考える先進医療を教えてほしい。標準治療がないのは知っています」という会場からの質問に「腹膜播種は治療法がありません」と、あっさり回答していた。
希望を持たせるのはよくないとでも思っているかのようだった。
このように日本では、腹膜播種が見つかった時点で「もうできることはありません」と告げられるケースが今も少なくない。
■「医師自身が立ち向かおうとしない」
しかし、その常識を覆そうと奮闘する医師がいる。2026年1月、国立国際医療センターに新設された「腹膜センター」の初代センター長・合田良政医師だ。
「腹膜播種は確かに手強い。しかし世界では治療の挑戦が続いているのに、日本では医師自身が立ち向かおうとしない現実があります」(合田医師)
腹膜センターができる前から、合田医師は年間150件ものセカンドオピニオンに応えてきた。「紹介状を書いてもらえないまま、来るのが遅れた」「主治医に“もう治療は無理”と言われた」という患者が後を絶たない現状について「もう少し早く来てくれたら助けられたかもしれない症例も少なからずあります。とても残念です」と語る。
“腹膜播種に立ち向かう医師に辿り着けない”背景には、情報が医療現場にすら届いていないという構造的な問題がある。
■歩みを止めなかった医師がいる
腹膜播種の治療として、日本でも一時期注目を集めた治療がある。「完全減量切除(CRS)+術中腹腔内温熱化学療法(HIPEC)」だ。
腹膜播種の手術では、仮に腹膜内のがんを、目に見える限り徹底的に切除できたとしても、目に見えない微小病変は残っているおそれがあるため再発リスクを完全に除去することはできない。
たとえば、胃がんであれば腹膜播種が少量しか認めない場合でも約30~50%、大腸がんであればごくわずかな腹膜播種しか認めない患者で約20~30%、卵巣がんでは約30~70%で再発すると報告されている。
病変を徹底的に切除した後、抗がん剤を混ぜた温かい薬液で腹腔内を“洗う”ように循環させて、目に見えない病変を死滅させるこのHIPECは、大ヒットした医療ドラマでも「失敗しない女性医師」が絶望的な患者を救う手術として描かれ、視聴者に強烈な印象を残した。
実際、海外では腹膜偽粘液腫などで標準治療として定着している国もある。合田医師もかつて保険収載に向けて先進医療として実施し、標準治療よりも高い5年生存率を達成したが、合併症がやや多いことがネックとなり、保険収載は適わなかった。
さらに、大腸がん腹膜播種に対するHIPECについては、「治療効果が証明できなかった」ことから近年は実施できていない。(腹膜偽粘液種に対しては自由診療で受けることができる)
それでも、彼は歩みを止めなかった。
「私は今、大腸がん腹膜播種に対するHIPEC復活をめざして準備しています。腹膜疾患の治療を、日本でも前に進めなければならない」
その信念が、腹膜センター設立の原動力となった。
■欧米で普及する治療法を、日本で
腹膜センターで、合田医師が新たに挑むのが、欧米で急速に普及する新しい治療法「PIPAC(加圧腹腔内エアロゾル化学療法)」だ。
PIPACは、従来の腹腔内化学療法を物理学的に進化させた治療で、腹膜播種に対する“第三の選択肢”として期待されている。
●PIPACの優位なポイント①
抗がん剤を霧状(エアロゾル)にすることで腹膜全体に均一に届けることができる。
液体の抗がん剤は重力で下に溜まり、腹膜の凹凸に入り込まないが、PIPACなら抗がん剤を5~50ミクロンの微細な霧にして散布し、腹腔内に均一に広げることができる。
●PIPACの優位なポイント②
加圧して噴霧することで薬剤を腹膜に深く浸透させられる。
腹腔内を10~12mmHgに加圧することで、薬剤が腹膜表面に押し付けられるため、浸透深度は従来の3~10倍に増えると報告されている。
●PIPACの優位なポイント③
抗がん剤の使用量が、全身化学療法の5~10%の低用量で済む。
局所濃度は高いまま、全身副作用は少ない。
“効かせたい場所には濃く、体全体には薄く”という理想的な薬剤分布が得られる。
●PIPACの優位なポイント④
腹腔鏡で行うため、繰り返し施行できる。6~8週間ごとに施行可能なことから、
◎腫瘍の進行抑制
◎全身化学療法の補強
◎状態改善後のCRS+HIPECへの橋渡し
といった治療戦略の幅が広がる。
●欧州ではすでに臨床応用が進む
卵巣がん・胃がん・大腸がんの腹膜転移に対して、腫瘍縮小や症状改善の症例が多数報告されている。
合田医師は言う。
「まずは当院で安全に施行できることを証明し、先進医療につなげたい。その準備として昨年、センターの医療チームがフランスに赴き、PIPACの開始に必須であるトレーニングコースの受講とライセンスを取得しました。
今後数カ月以内に、当院の倫理委員会の承認を受けて、5人の患者さん限定で『実施可能性評価試験』を行います」
もちろん、早く先進医療として認められてほしいが、これまでは諦めるしかなかった日本でPIPAC導入を目指す公的な病院が現れたこと自体が、腹膜播種の患者にとって大きな希望なのではないだろうか。
■がん患者が直面する壁
「どうして、私みたいな普通の人間でも、そんな治療法を見つけられる世の中になっていないんでしょう」
腹膜センターを紹介した際、冒頭のハナエさんは苦しそうにつぶやいた。
胃がんや大腸がんで腹膜播種と診断された患者が最初に直面するのは、「どの診療科に相談したらいいか分からない」という壁だ。腹膜疾患はまだ有力な「標準治療」が定まっていないため、外科・腫瘍内科・婦人科・放射線科・病理・緩和ケアなど扱う診療科が分かれており、「誰が診るべきか」が曖昧になりやすい。その結果、診断・治療の遅れや選択肢の見落としが起きやすい領域でもある。
さらに深刻なのは、主治医自身が診断・治療の選択肢があることを知らないケースだ。
ハナエさんの主治医が言った「もうできることはありません」は、「標準治療では」できることがないという意味で、万策尽きたということではない。
「標準」と聞くと、上中下の「中」くらいの治療と思われがちだが、実際は、有効性と安全性が科学的に証明された「最良の治療法」を指す。診療ガイドラインには、これらの合意の内容が詳細にまとめられており、全国のがん治療を行う病院では、このガイドランに沿った標準治療が行われているし、標準治療は保険診療で受けることができる。
■医師たちをアップデートする使命
ただ、新しい治療法が標準治療と認められるには時間がかかるが、医療は日進月歩なので、「既に治験でいい治療成績が上がっている治療法」や「日本以外の国では普通に行われている治療法」が存在しないとは限らない。
主治医の「腹膜播種は治せない」という思い込みによって、患者の生きながらえる機会が阻まれるようなことは、なくしていかなくてはならない。
「紹介状を書いてもらえないまま、来るのが遅れた患者さんが後を絶ちません。もっと早く来てくれたら助けられたかもしれない症例も少なからずある」と合田医師は語る。
このため腹膜センターでは、全国の医療機関への情報提供も重要な使命として掲げている。
医師向けセミナーや症例共有会を通じて、かかりつけ医や地域の病院が「腹膜播種の治療選択肢がある」と知ること自体が、患者が諦めずに済む社会につながると考えているからだ。
去る5月27日には、「CRS(腫瘍減量手術)に馴染みのない先生方」を対象に、合田医師が司会/演者となり、腹膜播種の腹膜切除を伴うCRSについてのウェビナーを開催した。
「情報が届かないまま治療の機会を逃す患者さんを減らしたい」
■後日談――情報の壁に阻まれ、“届かなかった一歩”
腹膜センターへの紹介を申し出ると、ハナエさんは涙を流して喜んでくれた。諦めるしかない状況は、患者の身体が蝕まれる前に、心ががんで倒れてしまう。
筆者が状況を伝えると、合田医師はその日のうちに、医学的に可能な選択肢と受診の流れを簡潔に示してくれた。それは特別扱いではなく、相談があれば誰に対しても行う標準的な対応だという。
ハナエさんは安堵し、急いで外来予約を取った。しかし当日、彼女はインフルエンザで体調を崩して予約をキャンセルし、その後の連絡はぱったり途絶えた。
この出来事は、個人の不運というより、腹膜播種の治療情報が患者に届きにくいという構造的な問題を象徴しているように思う。
腹膜センターの設立には、こうした“情報の壁”を壊す狙いもある。
■がんと一緒に戦ってくれる医師がいる
腹膜播種と告げられた瞬間、多くの患者は深い絶望に沈む。
だが今年、腹膜疾患に特化した医療を提供する公的な拠点病院が日本に誕生した。
消化器がんに限らず、腹膜に関わるあらゆる疾患に対して、国内最高峰の体制で臨む腹膜センターだ。
その拠点は、全国の医療機関とつながり、患者が“正しい場所に辿り着ける社会”をつくろうとしている。
もし読者の周囲に、「もう治療法はありません」と言われた患者や家族がいたら――どうか伝えてほしい。
「まだ、諦めなくていい。一緒に腹膜播種と戦ってくれる医師はいるから」と。
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木原 洋美(きはら・ひろみ)
医療ジャーナリスト/コピーライター
コピーライターとして、ファッション、流通、環境保全から医療まで、幅広い分野のPRに関わった後、医療に軸足を移す。ダイヤモンド社、講談社、プレジデント社などの雑誌やWEBサイトに記事を執筆。近年は医療系のホームページ、動画の企画・制作も手掛けている。著書に『「がん」が生活習慣病になる日 遺伝子から線虫まで 早期発見時代はもう始まっている』(ダイヤモンド社)などがある。
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(医療ジャーナリスト/コピーライター 木原 洋美)

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