■“名将”として語り継がれる別所長治
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。6月21日放送の第24回「軍師官兵衛!」では、三木合戦がクライマックスを迎える。
秀吉(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀)が信長(小栗旬)から攻略を命じられたのは、別所長治(下川恭平)が叔父の別所賀相(田中美央)とともに立て籠もる三木城である。陣中で半兵衛(菅田将暉)が没し、官兵衛(倉悠貴)が軍師として覚醒する戦いだ。
この合戦は、1577年、出陣した秀吉と賀相が加古川城で会談(加古川評定)したのをきっかけに関係が悪化。翌1578年に、それまで織田に服属を決めていた別所氏が当主の長治を中心に離反して始まったもの。名族である別所氏の当主の離反に、多くの国人や本願寺勢力なども同調、それまで順調に進んでいた播磨攻略の勢力図が完全に塗り変わってしまい始まったものだ。
長治らは、毛利氏からの援軍を期待して三木城に籠城。戦いは2年あまりに及び、三木城は食料も枯渇し「三木の干殺し」と呼ばれる悲惨な戦いとなり長治の切腹によって終結したものだ。
切腹に際して長治は「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」すなわち、誰も恨まないと遺し、現代まで名将として語り継がれている。
■信長とは“良好な関係”
この戦いにおいて、一度は服属を決めていた別所氏がなぜ離反したのかが、歴史上の大きな謎となってきた。従来から唱えられてきたのは秀吉の無礼が原因だったとするものだ。
実のところ、別所氏は当初から信長とは良好な関係を築いており、播磨攻めの時も率先して恭順を決めている。別所譜代の家臣だった来野弥一右衛門の記した『別所長治記』は落城からしばらく後に成立したものとされている。そこには、こんな文がある。
信長、西国手遣の企てあるに依て、先づ別所を近づけ、魁を頼み度し由を申し送らる。播州一国の事は云うに及ばず、その外「賞は」功に依る可し、と云々。長治辞するに能はず。一味同心して、時日を移さず、近辺の城主人質にとり、信長へ使者を以て、国人ども味方に参りたり。此の上は大将一人給はる可し。長治西国「へ」の魁仕る可し、と申し遣はさる。信長、侍大将の内、西国退治の大将は、心かさ有りて、勇にも「謀にも」達したる者は、羽柴筑前守たる可し、と即ち、仰せ付けらる。
(「別所長治記」『戦国史料叢書 第2期 第7』人物往来社、1966年)
筆者訳:
信長公は、西国攻略を計画するにあたり、まず(播磨の有力者である)別所氏を味方に引き入れ、その先陣役を頼みたい旨を伝えてきた。信長公は「播州一国を任せることはもちろん、それ以外にも功績に応じて十分に恩賞を与える」と約束した。長治もこれを断ることができず、一族で相談の上、即座に近隣の城主たちから人質を取り、使者を信長公のもとへ送って「国人衆たちは皆、味方に加わりました。この上は、我らを指揮する大将を一人派遣していただきたい。長治が西国攻めの先陣を務めましょう」と申し入れた。
■こじれ始めは“秀吉との打ち合わせ以降”
これに対し、信長公は「西国攻めの大将には、志が高く、武勇にも知略にも優れた羽柴筑前守(秀吉)が適任である」として、ただちに秀吉を任命した。秀吉はすぐさま出陣し、天正6年(1578年)3月4日、西国平定のために都を出発した。
ここからは、長治が信長に従うことには迷いがなかったこと。その上で、大将を寄越してくれたら先陣となると、やる気まで見せている。そこで、信長はさっそく秀吉に播磨に赴くよう命じたという流れだ。
この時点ではどこにも離反する理由がない。
或時、山城守・三宅治忠両人、軍評定のため秀吉の館に行きけるに、秀吉の曰く、長治、西国の案内者有る可きと宣ふに付き、信長公の代官として下向す。各の軍立ての次第、不日に敵を虜にする謀計もやある、と問はれければ、西国発向の先手、別所家に仰せ付けられる。我等存ずる旨は、今度の御合戦は、一国一城の小ぜり合ひとは、各別也。輝元は大身なり。万死一生の合戦、五度も十度もなくては叶ふまじきか。御手間とられ候はんと存ずる。
(中略)
「侯」と、云々。秀吉聞き給ひ、さやうに延び延びの手立ては、対様の人数にては然る可くもあらん「が」、彼は大勢、此方は小勢なり。賢人の前に小人久しく居ては、其の恥を顕はすといへ。かやうの軍には責めかゝりて、五度も三度も強き働きをして、敵に臆病神を付けねば、急に勝利を得る事難し、と宣ふ時、治忠重ねて、強き働き計りにて、落着の勝ちは成り難る。
筆者訳:
ある時、山城守と三宅治忠の両名が、軍評定(作戦会議)のために秀吉の館へ赴いた。
これに対し(別所側は)、「西国攻略の先陣は、別所家に仰せ付けられております。我々が考えるに、今度の合戦は一国一城の小競り合いとはわけが違います。毛利輝元は大勢力です。死を覚悟した激しい合戦を五度も十度も繰り返さなければ、勝利は叶わないでしょう。(慎重に構えなければ)手間取ることになると存じます」と答えた。
(中略)
秀吉はこれを聞くと、「そのように先延ばしにするような戦術は、相手側の人数(毛利軍)と対等であればよいかもしれないが、敵は大勢であり、こちらは小勢である。(そんな状況で)賢者の前に小人が長く居座れば、結局は自分の恥をさらすことになる。このような軍戦においては、攻めかかって五度も十度も猛烈な働きを見せ、敵に臆病神を植え付けなければ、ただちに勝利を得ることは難しい」と宣した。
これに対して、治忠が重ねて「強引な働きばかりでは、腰を据えた(確実な)勝利を得ることは難しい」と反論した。
■別所氏「筋を通して」、秀吉は「スルー」
つまり、別所氏は西国の事情に通じた身として、大軍である毛利に対して慎重な戦術を求めている。対する秀吉は短期決戦をすべきと主張をしているわけだ。ようは秀吉には別所氏の意見が国人の村争いみたいな戦略に見えたのだろう。ついに、秀吉はこんなことをいってしまった。
秀吉宣ふは、各は先手(の)役にて候へば、働き等の事、随分精を入れられ候へ。勝利を得る下知は、大将役に此方より差図申す可し、とにくていに宣ふ故、両人閉口して、帰城あって、別所の一族・家老の面々参会して、是を評定す。
筆者訳:
(柔剛強弱を使い分けるのが名将である)と(三宅治忠が)申し述べたところ、秀吉が宣ったことには「皆さんは先手の役目なのですから、現場の働きについては、存分に力を発揮してください。ただし、勝利を得るための指示(下知)は、大将であるこの私から指示します」と、取り付く島もない言い方で言い放ったため、両人は言葉を失い(閉口して)、帰城して別所の一族・家老の面々と参会し、この件を評定した。
これを読むと、どっちも間違ったことはいってない。しかし、秀吉は大きなミスを犯している。別所氏が求めているのは、筋を通してほしいということだ。信長につくことを決めて周囲の国人共々従った。
■“別所の家臣に、我が物顔で振る舞っている”
秀吉にしてみれば「これだから、田舎の村争い程度しか経験がない人たちは困るなあ」程度のことだったのだろう。しかし、別所氏にとっては一大事だった。
これで「信長はいいけど、部下の秀吉というのは失礼なヤツだな」くらいで治めておけばよかった。しかし、そうはならなかった。
山城守申されけるは、今度、秀吉当国へ下向「して」、近国他国に威を振ひ、別所の家臣に向かひ、遠慮も無く、我意を振る舞ふのみならず、剰へ、我が下人のごとくに挨拶し、国人に首を上げさせぬようにすること、心底を察するに、信長の謀計と存ずる。
筆者訳:
山城守が(評定の席で)申し述べたことには、「今回の秀吉の当国(播磨)への下向についてだが、近隣諸国に対して威勢を振るうだけでなく、我ら別所の家臣に対してすら、遠慮もなく我が物顔で振る舞っている。それだけではない、あまつさえ、まるで自分たちの下人のようにあしらい、我ら国人衆に頭を上げさせまいとする態度を見ていると、その底意を察するに、これは信長公による(別所家を骨抜きにするための)謀計であると確信する」。
■“秀吉の城割り”に不満、説明不足がアダに
いくらなんでも、そこまで怒らなくても……と思うのだが、どんどんテンションは上がっていく。『別所長治記』には、「信長は謀略ばかりやるので、家来まで軽薄だ」「別所も滅ぼして秀吉に与える気だ」などという記述が続く。
ついには、中国の歴史を引き合いに「項梁は実力者であっても、大将を起用する際に人を選ばず、結果として滅びた」などとまでいい、秀吉がごとき成り上がりに従うのは、名家である別所に対する冒涜とまで言いつのるのだ(項梁は項羽の叔父。秦打倒の兵を集めて連勝するが慢心した結果、秦に逆襲され敗死した)。
これだけだと、たかが一言でキレすぎに見える。しかし2024年2月、兵庫県立歴史博物館と東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授による共同調査で、新たな事実が明らかになっている。秀吉と信長の側近とが交わした書状には、秀吉が別所方の城をいくつか破城(城割り)したことへの不満が離反の一因だったという経緯も記されていたのだ。
秀吉にしてみれば、対毛利戦を念頭に城を整理するのは戦略上当然のことである。でも、説明が決定的に不足していた。それが別所氏の怒りに火をつけた。
本来、秀吉や小一郎はそういう細かいところに気が回る性格のはずだ。となると、後に陣中で没することになる半兵衛は、この時点ですでに十分な働きができない状態にあり、秀吉の司令部が機能不全に陥っていたのではないか。
■長治は“家臣団に押し切られた”か
さらに、不満を抱えていた別所氏の離反を後押しした背景には、この年の10月に荒木村重が離反し、摂津から播磨にかけての情勢がさらに複雑なものとなっていたこともあると考えられる。
長治が期待したのは、村重が有岡城で抵抗を続け、三木城も持ちこたえている間に毛利の援軍が到来することだった。ところが毛利の動きは緩慢で、上月城に進軍したはいいが、それ以上東進することなく撤退してしまった。
つまり、別所氏の離反は、かなり自分たちに有利に事が進むという希望的観測の積み重ねにすぎなかった。
こんな投機的な寝返りを主張する家臣団に、長治は押し切られたというのが正解だろう。というのも『別所長治記』を読むと、離反の過程から戦いの後半にかけて、長治が能動的に動いたり何かを決めている記述が驚くほど少ない。『別所長治記』という長治を主役とした記録であるにもかかわらず、動きまくっているのは叔父の賀相(山城守)の方なのだ。
こうしてみると、結局のところ、三木合戦とは「全員が判断を誤り続けた2年間」だった。
秀吉は正論を言いながら相手のプライドを踏み潰し、荒木村重は離反して希望を与えておきながら、城を捨てて逃亡する始末。毛利も来る来ると期待させるだけで来なかった。天才軍師だったはずの半兵衛は、すでに病に倒れ、その才能を発揮できる状態になかった。
■唯一決められたのは「自分の最期」
こんな中で、長治は一度も自分で状況を動かすことができなかった。叔父の賀相が動き、家臣団が動き、周囲の情勢が動いた。長治はその都度、波に飲まれるしかなかった。
唯一、自分で決めたのは死に方だけだった。
ここで効いてくるのが冒頭でも記した辞世「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」である。
恨む相手ならいくらでもいたはずだ。無断で城を壊した秀吉、来なかった毛利、勝手に逃亡した村重、そして何より引きずり込んだ叔父の賀相。それでも「誰も恨まない」と書いた。何も決められなかった男が、最後の最後に一行だけ、自分の言葉を残したのだ。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)

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