1578年、織田信長は荒木村重の謀反により苦境に追い込まれた。いかにしてその状況を打破したのか。
歴史評論家の香原斗志さんは「村重配下の有力武将が信長に寝返ったことで、戦況が大きく変わった。そこにはイエズス会が大きくかかわっていた」という――。
■信長にとって荒木村重は敵にしてはいけない男だった
使者が飛び込んできて、「有岡城主、荒木村重様、謀反にござりまする」と伝え、羽柴秀吉(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀、のちの秀長)は青ざめた。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第22回「播磨大誤算」(6月7日放送)。
織田信長のもとにこの報がもたらされたのは、天正6年(1578)10月21日のことだった。『信長公記』によれば、信長はすぐには信じなかったという。その後、明智光秀ら重臣を遣わし、言い分があるなら申し出るように、また、野心がないなら出仕を続けるように、と伝えた。
それほど信長は村重を信頼し、敵に回してはいけない存在として重視していたということだ。なにしろ村重は、現在の大阪市北部と中部を含む要地である摂津の統治をまかされていたのである。だが、村重は翻意しなかった。
信長に謀反の一報が届く4日前の10月17日、村重は大坂本願寺の顕如と盟約を結んでいる。顕如は村重父子に宛てた起請文に、本願寺に忠誠を誓ったことへの評価と同時に、領地等については毛利氏の庇護下にいた将軍足利義昭に従うように書いている。
つまり村重は、本願寺、毛利氏、足利義昭による信長包囲網に加わる道を選んだのだ。
それは信長にとって、ひょっとすると天下統一が危うくなるほどの難題だった。実際、有岡城(兵庫県伊丹市)に立て籠もった村重とは、1年も攻防が繰り広げられた。だが、結果的に村重は、思ったほどの難敵にならずに済んだ。その背景には、ある武将の貢献と、その武将へのある団体からの説得があった。
■2人の武将の寝返り
「豊臣兄弟!」の第22回では、村重(トータス松本)の与力を務める高槻城(大阪府高槻市)の高山右近(市川知宏)と茨木城(同茨木市)の中川清秀(すがおゆうじ)が、毛利氏の使者として安国寺恵瓊(立川談春)を連れてきた。この2人が毛利と内通し、村重を信長から離反させようとした、という描写だ。しかし、『信長公記』には次のように書かれている。
〈高槻の城も茨木の城も堅固であるから簡単には攻め崩されまいと、荒木も家臣たちも思っていたところ、意外にも、杖とも柱とも頼りにしていた高山右近・中川清秀が織田方に寝返ってしまった〉(中川太古訳、以下同)
とくに高山右近の寝返りは手痛かった。その経緯については、別の箇所に次のように書かれている。
〈高槻の城主高山右近は吉利支丹(キリシタン)であった。信長は妙策を思いつき、伴天連(宣教師)を召し出して、「この際、高山が我らの味方になるよう取り計らってもらいたい。
実現したら、吉利支丹の教会をどこに建ててもよいぞ。もし引き受けなければ、吉利支丹を禁制とする」と申し渡した。伴天連はこれを承知し、佐久間信盛・羽柴秀吉・松井友閑・大津長治が同道して高槻へ行き、高山を説得した。高山はもちろん荒木村重に人質を提出していたが、人質を見殺しにしても信長方に付く方が将来のために良策であると判断し、伴天連の説得に応じて、高槻の城を明け渡した。信長は満足であった〉
右近を説得したのはバテレン、すなわちイエズス会の宣教師だったという。そうであるなら、信長の天下一統の過程で、高山右近と中川清秀、それにイエズス会の貢献度が非常に大きかった、ということになる。
■暗躍する宣教師
ただ、右近が「寝返る」までには、『信長公記』に書かれている以上に紆余曲折があったようだ。イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』には、その間の事情が詳述されており、概略は次のような話である。
村重が本願寺や毛利と結んで信長と敵対しようとしたとき、右近は理由を3つ挙げて反対したという。1つ目は、村重を一国の領主にまで引き立ててくれた信長への恩義があること。2つ目は、戦力を比較すれば信長への勝利は困難であること。3つ目は、信長が勝てば村重には想像を絶する懲罰が下されること、だった。

そして右近は、自分が信長に取り入っているのではないと証明するために、すでに渡してあった妹2人に加え、息子を人質として村重に差し出した。この人質問題が、以後しばらく右近を苦しめることになった。
右近に説得された村重は、一度は信長の許しを得ようと考えたが、有岡城の家臣たちがそれを許さず、不本意ながら謀反を貫徹する。その後、右近は尊敬する宣教師のオルガンティーノから、信長に敵対しないよう説かれた。信長もまたオルガンティーノを招き、脅しながらも右近を説得するように依頼した。だが、右近は3人の人質が気がかりで仕方ない。
一方、息子と同様にキリシタンであった父の高山友照は、2人の娘と孫が村重に殺されるのを恐れ、信長に味方するなどもってのほかだという立場だった。
■右近の人質だけは助かった
その後も宣教師や修道士はあの手この手で右近を説得し、右近はある日、以下のような解決策に思い至る。
出家して教会での奉仕活動に専念することにし、領土も家臣も捨てて城を離れる。それなら右近が寝返ったことにならず、村重は右近の息子や妹を殺さないだろうし、信長を裏切ったことにもならないから、信長も宣教師に危害を加えないだろう――。それを実行に移した右近だったが、信長から直接、自分に奉仕するよう説得されると、受け入れている。
その後、高槻城へ戻った右近は家臣から歓待されたが、右近も父も、自分たちの子供が殺されはしないかという憂慮をいだき続けた。
実際、有岡城内では、敵になった右近の息子と妹を串刺しにして磔刑にすべきだ、という意見が上がっていた。村重が止めたが、それでも処刑を断行しようとする者がいた。ところが、実行する直前に起きた戦闘で、その者が偶然にも戦死したという。
こうして右近の息子と妹は生き永らえた。その後、村重らが有岡城を捨てて逃げ、残された人たちは信長の命で処刑される。だが、信長は右近の父の友照、右近の息子と2人の妹は救うように命じた。この期におよんでようやく、右近は憂慮から解放されたのである。
■宣教師が信長にあたえた影響
「豊臣兄弟!」はどういうわけか、宣教師や南蛮商人が登場しないばかりか、気配すら感じられない。だが、信長は記録にあるだけでも宣教師と30回以上も長時間の会話を交わしており、フロイスだけでも18回も対面している。そして海外の品々ばかりか知識も積極的に取り入れようとした。
また、『日本史』に記録された発言から、信長は自分がヨーロッパの王にも比肩し得る君主だと、諸外国に伝わることを願っていたとわかる。実際、信長は海外進出を目論んでいたと考えられている。
秀吉の朝鮮出兵とは異なる巨大艦隊による進出で、貿易の範囲にとどめるつもりだったか、侵略まで考えていたのか、そこはわからない。
ただ、そういう信長だから宣教師との交流が活発で、宣教師が信長に影響をあたえることや、政治的な役割を果たすことは少なからずあった。その一つが高山右近の説得だった。
右近はキリシタンだったので、フロイスが美化した面はある。むろん美化は捏造とは違うが、歴史研究者は「盛っている」からとフロイスの記述を軽視する傾向がある。しかし、国内の史料のほとんども、ときの権力者を美化している。むしろ、宣教師は国内の権力者に忖度する必要がなかった分、状況をより生々しく伝えていることが多い。
■光秀と戦ったのは秀吉でなく右近だった
さて、結果的にイエズス会は信長に恩義を売り、寝返った高山右近と中川清秀も(清秀にはイエズス会は関与していないが)、信長に恩を売ったことになる。だが、その信長は右近と清秀が荒木村重に離反してから3年余りのちの天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で斃れる。
その直後、右近と清秀の2人は、今度は羽柴秀吉に大変な恩義を売っているのである。
備中高松城(岡山市北区)を攻略中だった秀吉は、本能寺の変の急報を受けると、いわゆる「中国大返し」で東に進軍し、6月13日には山崎(京都府大山崎町)に布陣した、とされてきた。だが最近、中京大学の馬部隆弘教授が秀吉の書状を入手し、秀吉は山崎の合戦に間に合っていなかった、と指摘している。

秀吉は14日の戦闘を想定していたが、秀吉が到着前の13日、明智光秀が出撃してしまったので、摂津に領地をもつ3人、池田恒興および右近と清秀が戦って、光秀の軍を破ったというのだ。
だが、じつはフロイスの『』だけは、秀吉は間に合わなかったと記していた。右近は光秀の軍が迫っているのを知り、3里(12キロ)以上後方にいる秀吉に急報したが、光秀は進軍してきた。そこで右近は秀吉を待つべきでないと判断し、光秀の軍に突撃した、と書かれている。だが、多くの研究者は、右近を美化するためのフロイスの捏造と決めつけ、無視していたのである。
■簡単に恩人を追放する天下人
山崎で戦ったのが右近らであるなら、秀吉が天下を獲れたのは右近らの功績によることになる。また、さかのぼれば、イエズス会が右近を説得したからこそ、秀吉は大いに助けられた、と捉えることもできる。
だが、秀吉のそんな恩人の一人の中川清秀は柴田勝家と戦った賤ヶ岳合戦で、池田恒興は織田信雄および徳川家康と戦った小牧・長久手合戦で戦死。一人残った高山右近は、天正15年(1587)にバテレン追放令を出した秀吉により、領地を没収されてしまう。
すべてを自分の利益になるように巧妙に誘導する秀吉には、恩義もへったくれもなく、大いなる恩人の右近も、その前では例外ではなかった。いずれにせよ、一般に思われている以上に宣教師とキリシタン大名が大きな影響をあたえたのが、信長や秀吉の時代だったのである。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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