投資の世界には「卵は一つのカゴに盛るな」というリスク分散の鉄則がある。富裕層マーケティングを長く手掛ける西田理一郎さんは「これは金融資産や不動産に限った話ではない。
時代はついに、国籍までもを分散して持つフェーズに入った」という――。
■暗号資産で「国籍」を買う時代がやってきた
昔は国籍というものは、空気のようなものだった。あるいは水道の蛇口のようなもの、と言ってもいい。ひねれば出るし、止めようと思っても止まらない。生まれたときからそこにあり、日常ではまったく意識しない。けれど、蛇口を失ってはじめて、人は水がどれほど貴重なものかを知る。
いま、アメリカをはじめとする世界の富裕層が直面しているのは、まさにその「水枯れへの恐怖」である。
彼らは「国籍とは何か」を愛国心の言葉ではなく、供給不安に備えるインフラの言葉で考え始めた。祖国を信じないというより、祖国“だけ”を信じるには、世界があまりにも複雑で不安定になりすぎたのである。
富裕層は株式や債券への投資先を分散するように、居住地も、税務も、教育機会も、そして最後に「国籍」までも分散するようになった。感情より先に、バランスシートが時代の不穏な変化を敏感に嗅ぎ取ってしまったのだ。
投資の世界における基本原則に「卵は一つのカゴに盛るな」というものがある。
これを私たち個人の「人生の総リスク」に当てはめて考えてみたい。
個人の人生におけるリスクの大きさは、極論すれば「国家そのものの地政学リスク」に「自分のその国への依存度」を掛け合わせたもので決まる。
もし、あなたの全財産、仕事による収入、そして住む場所のすべてが「ひとつの国家」に100%集中していればどうなるか。その国で起きる政治不安、急激な増税、インフレ、あるいはパンデミック時の国境封鎖といったカントリーリスクの直撃を、避ける術はどこにもない。
国家への依存度が100%である以上、国家の危機がそのまま「個人の危機」に直結してしまうのだ。
この「国家への依存度」という数字を意図的に引き下げ、リスクを分散させるための最も根本的な解決策であり、究極のヘッジこそが、富裕層が実践する「第二の国籍の取得」なのである。
■国籍取得のビジネス化が進んでいる
その変化を、実に現代的な顔つきで売っているのが「CitizenX」のようなサービスだ。
彼らは露骨なほど正直に、国籍を「人生最大級の重要資産の一つ」と位置づける。そして、その取得プロセスを、かつての胡散臭い移民仲介業者の世界から完全に引き剥がし、スイスのプライバシー法、エンドツーエンド暗号化、24時間対応のコンシェルジュ、総額の事前完全開示、そしてスマートフォンのダッシュボード上での進捗管理へと置き換えている。
しかも支払いはドルやユーロといった法定通貨だけでなく、暗号資産、ステーブルコインにも対応している。
ここには象徴的な転倒がある。
国籍という、近代国家がもっとも重々しく扱ってきた権威的な制度が、いまや「ホワイトグローブ(最上級)の資産管理サービス」として見事に再設計されているのだ。
昔は国境が人を選んだ。いまは人が、ユーザーインターフェース(UI)とユーザーエクスペリエンス(UX)の良い国家を選び始めている。
言ってしまえば、これは国籍の「D2C(Direct to Consumer)化」である。
「隠れコストはありません」「家族を追加すればその場で総額が分かります」「審査の進行状況はダッシュボードでいつでも確認できます」「個人情報は最新の暗号化技術で安全です」――。説明文を読んでいると、国籍を取得しているというより、上場前の有望なフィンテック企業の未公開株を買っているような気分になる。
しかし重要なのは、その手続きの軽やかさが国家の本質を裏切っていないことだ。むしろ逆で、国籍とは何なのか、その本質を極限までむき出しにしている。
国家とは、歴史的な理念であると同時に、巨大な「サービス提供体」でもある。移動の自由、居住の権利、高度な医療や教育へのアクセス、税務上の優遇措置、資産保全の法的枠組み、そして緊急時の安全な退避経路。富裕層は、そのさまざまなサービスのパッケージから「愛国心」という幻想を抜き去り、“機能”だけを純粋に抽出しているのである。
■海外に移住する富裕層が急増している
では、彼らは何に怯え、いくら払って国籍を買っているのか。
答えは案外、陰謀めいてはいない。
富裕層が第二、第三、第四の市民権(Citizenship by Investment = CBI)を集めている理由は、国内の政情不安や国際的な不確実性へのヘッジであり、いわば「パスポート・ポートフォリオ」の構築である。
富裕層の移住支援を手がける英コンサルティング会社、ヘンリー&パートナーズが発表したデータや予測によれば、国境を越えて移住するミリオネア(100万ドル以上の投資可能資産を持つ富裕層)の数は、2013年の5万1000人から、2024年には12万8000人規模へと急増し、2025年から2026年にかけてもこの高水準のトレンドが継続している。
とくに驚くべきは、海外市民権を求めるアメリカの富裕層の問い合わせが近年爆発的に増加しており、ヘンリー&パートナーズへの申請においてアメリカ人が占める割合は2024年に全体の約23%に達し、2025年にはさらに30%超に拡大している。同社では、アメリカ人クライアント数が2位以下の4カ国籍合計に匹敵するという。
■マルタが塞がり、主戦場はポルトガル、トルコへ
具体的な金額を見てみよう。
カリブ海の島国(アンティグア・バーブーダ、ドミニカ国、グレナダなど)は、長らく10万ドル台からの「格安」で市民権を販売してきたが、国際的な圧力もあり、近年は最低投資額を約20万ドル~23万5000ドル(約3500万円強)へと引き上げている。
一方で、富裕層にとっての“最高峰”は常にヨーロッパだった。特にEU圏内への自由なアクセスという圧倒的な特権を持つマルタの市民権プログラムは、総額約100万ユーロ(約1億6000万円)以上を積める超富裕層に大人気だった。しかし、欧州司法裁判所がこの「ゴールデンパスポート」をEU法違反とする判決を下し、実質的にこのルートは塞がれてしまった。
冒頭で述べた「水枯れへの恐怖」とはまさにこれだ。国家が提供する究極のプレミアムチケットは、いつでも買えるわけではない。マルタの蛇口が止められたことで、世界のミリオネアたちは今、強烈なFOMO(取り残される恐怖)に駆られている。

その結果、現在の主戦場は「代替ルート」へと激しくシフトしている。
約50万ユーロ(約8000万円)のファンド投資で居住権を得て、10年後のEUパスポート取得を狙うポルトガルの「ゴールデンビザ」や、約40万ドル(約6000万円)の不動産購入で直接国籍が買え、アメリカ移住への足がかり(E-2ビザ)にもなるトルコに、莫大なマネーが雪崩れ込んでいるのだ。
富裕層は、単に景色がきれいだから彼らの国籍や居住権を買うわけではない。
100カ国以上へのビザなし渡航、欧州全体へのビジネスアクセス、子どもの教育の選択肢、老後の穏やかな生活、そして何より「何かあった時にいつでも脱出できる」という退路の確保である。
数億円の資産を持つ者にとって、1億円を投じて手に入れる第二国籍は、決して無駄な贅沢品ではない。自らの命と財産を守るための、最も確実な「非常口(エグジット)」なのだ。
■「祖国への裏切り」なのか
ここで面白いのは、国籍を爆買いしている富裕層が、決して自分の国籍(たとえばアメリカ)を見限ったわけではないという点だ。むしろアメリカ資本主義の恩恵を最大限に享受し、その価値を知り抜いた人々ほど、「これからの時代、アメリカのパスポート一枚だけではシナリオ管理ができなくなる」と冷静に理解し始めている。
絶対王者が完全に衰えたというより、世界情勢が複雑になりすぎて、王者のパスポートであってもカバーできない死角が生まれつつあるのだ。パンデミック時の国境封鎖、国内の深刻な政治的分断、急激な税制変更のリスク。これらに直面したとき、いくら銀行口座に数十億円があろうと、移動の自由が制限されればその価値は半減してしまう。
ここで、われわれは少しだけ立ち止まって考えるべきかもしれない。
お金で国籍を買うという行為に、どこか下品な匂いや倫理的な抵抗感を感じる人は少なくないだろう。「愛国心はどうした」「共同体への忠誠はどこへ行った」「国家をホテルのように選ぶな」――その感情はよくわかる。
だが、皮肉なのは、そういう道徳的な言葉がいちばん強く効いたのは、国家が個人の未来をある程度約束してくれた「古き良き時代」だけだったということだ。「教育を受ければ階層を上がれる」「真面目に働けば必ず報われる」「税を納めれば老後まで守られる」。そうした国家の物語が揺らいだ現代において、人は「よき国民」である前に「自らの家族の有能な管理者(マネージャー)」にならざるを得ない。
富裕層が第二国籍に走るのは、祖国への裏切りなどではない。国家が提供する「安心」が市場化され、相対化されたことに対する、最も率直で合理的な適応行動なのである。
■単なる“移住切符”ではない
ただし、ここで真に注目すべきなのは、節税効果や退避ルートの確保といった即物的なメリットだけではない。もっと深いところにある、「自分はどんな人生を生きる人間なのか」という自己定義を書き換える力である。
第二国籍の取得とは、法的なステータスの追加であると同時に、自分の人生の「自己叙述(ナラティブ)の編集権」を獲得することに他ならない。
「私はこの国にしか属せない人間ではない」「私は世界のどこにいても生きていける人間だ」「子どもには複数の国の教育回路を提供できる」「老後には複数の着地点がある」「危機のときには複数の出口がある」。こうした複数形の人生設計(マルチプル・オプション)を手に入れることは、そのまま「自分の物語」の書き方を根本から変える。

人は自由の翼を手に入れても、必ずしもすぐに遠くへ飛び立つわけではない。だが、「いつでも遠くへ行ける」と知った瞬間に、現在地の意味が劇的に変わる。嫌なことがあっても「ここしかないから我慢する」のではなく、「いざとなれば別の場所へ行けるが、あえていまはここを選ぶ」という主体的な決断に変わる。第二国籍とは、すぐに移住するための切符というより、いまいる場所で“追い詰められない自分”でいるための、強靭なメンタルコントロールの装置なのだ。
だからこそ、富裕層にとって国籍を買うことは、単なる資産防衛やビザなし渡航の拡張を超えた意味を持つ。少し文学的に言えば、それは「人生の単線化」に対する強烈な抵抗である。ひとつの会社に定年まで勤め上げ、ひとつの街にマイホームを持ち、ひとつの国家に人生のすべてを預ける――そういう20世紀的な一本線の物語は、たしかに美しかった。しかし21世紀を生き抜く富裕層は、その「美しさ」が、しばしば「脆さ」と同義であることを骨の髄まで知っている。
一本の太い線は、どこかがプツンと切れればすべてが終わる。しかし複数の細い線を持っていれば、何度でも結び直せる。彼らが数千万円、数億円を払って買っているのは、国籍そのものというより、人生の「編集可能性」であり、「再起動可能性」であり、何度でも人生の続編を描くことを許すライセンスなのである。

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西田 理一郎(にしだ・りいちろう)

価値共創プロデューサー、ディープルート 代表取締役

富裕層向けブランド体験の「物語」を紡ぐナラティブ・マーケティングをプロデュース。また、情報伝達を超えた行動を仕組化し、個の全盛時代において、ラグジュアリー市場での持続的成長を実現する知の「価値共創」戦略を構築する。プレミアムブランドの世界観を体現する戦略的プラットフォームの商品化を手がけ、ミシュラン・ガストロノミーから超高級ライフスタイルまで、文化的価値を経済価値に転換するマーケティング、ブランディングを専門とする。「to create a Real LIFE 敏腕マーケターが示唆するこれからの真の生き方とは」「Life is a Journey」「食と文化の交差点 ガストロノミーへの飽くなき情熱」などのメディア掲載・連載を通じて真のラグジュアリーとは「所有」ではなく「体験」であり、その体験に宿る物語こそがブランド価値の源泉である――という信念のもと、富裕層マーケティングの新境地を開拓し続けている。主要著書に『予測感性マーケティング』(幻冬舎)、『アフターコロナ時代のトラベルトランスフォーメーション』(ゴマブックス)、『GRAND MICHELIN ミシュラン調査員のことば[特別編集版]』(アンドエト)がある。個人サイト

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(価値共創プロデューサー、ディープルート 代表取締役 西田 理一郎)
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