※本稿は、尾谷昌則『その言葉の本当の思惑を見抜く 言語学』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。
■会話をうまく進めるための原理原則
言語学者のポール・グライスは、「人間の会話がうまく成立するとき、そこには1つの大前提がある」と考えました。それは、会話に参加する人同士が話の目的や方向性をある程度共有し、「お互いに協力して会話を進めよう」という協調的な姿勢をとることが期待されている、ということです。
グライスはこれを「協調の原理」(Cooperative Principle)と名づけました。この原理は、具体的には以下の4つの原則に細分化されており、円滑な会話というものはこの4つの原則を守っているものであるとグライスが説明したため、日本語ではちょっと意訳して「会話の原則」と呼んだりもします。
① 量の原則(Maxim of Quantity)
・必要な量の情報を発話に盛り込め
・必要以上の情報を発話に盛り込むな
② 質の原則(Maxim of Quality)
・間違っていると思うことを言うな
・十分な証拠のないことを言うな
③ 関連性の原則(Maxim of Relation)
・関連のあることを話せ
④ 方法の原則(Maxim of Manner)
・ハッキリしない表現は避けよ
・解釈が分かれるような言い方をするな
・簡潔に話せ
・順序よく話せ
しかし、会話をスムーズに成立させるための原理・原則を守るだけでは、人間関係までうまくいくとは限りません。ここで鍵になるのが、ポライトネス(丁寧さ)です。
■「どうしても引っかかる」部下の答え方
例えば、次の会話例で考えてみてください。
上司A:山下くん、ちょっとお願いがあるんだけど、明日の会議資料にこのデータが必要だから、悪いけど、少し残業してもらえないかな。
部下B:イヤです。私、残業したくないんで。
残業を依頼する上司Aの発話を、上記の「協調の原理」に当てはめると次のようになります。
①量の原則(必要な量の情報を発話に盛り込め)
→過不足のない情報量を盛り込んでいる
②質の原則(間違っていると思うことを言うな)
→真実を述べていて、情報の信憑性(しんぴょうせい)に問題はない
③関連性の原則(関連のあることを話せ)
→職場で仕事(残業)の話をしている
④方法の原則(解釈が分かれるような言い方をするな)
→誤解を生まない明瞭な述べ方をしている
つまり、4つの原則をすべて綺麗に守った模範的な言い方であり、いかにも職場で耳にしそうな発話です。
一方で、部下Bはどうでしょうか。この発話は、必要最低限の情報量を盛り込んでいますし(量の原則)、述べている内容も真実だと信じられるものです(質の原則)。上司Aの発話とも関連性がありますし(関連性の原則)、誤解を生まない明瞭な言い方もしています(方法の原則)。
つまり、4つの原則を綺麗に守ってはいるのですが……実際の会話において、こんな発話をする部下はいないでしょう(最近のZ世代にはいると聞いたことがありますが……)。
■丁寧に会話する重要性
問題は、いくら真実であるとはいえ、「イヤです」という明確な拒否姿勢を見せている点です。こうもストレートに本音を述べてしまっては、会話自体は成立しても、人間関係は破綻するでしょう。グライスが考えた4つの原則は、会話という情報のやりとりを破綻なくスムーズに成立させるために必要な原則です。
しかし、それさえ守っていれば対話、つまり会話をとおして共通理解を深めることまでうまくいくとは限りません。このような場面であれば、真実を述べること(=質の原則)を多少犠牲にしてでも、人間関係に摩擦が生じないような、丁寧な言い方を選ぶ必要があります。
実は、グライス自身も4つの原則とは別に「丁寧にせよ(Be polite.)」という社会的性質に基づく原則を立てることも考えられると認めています。
しかし、詳しい分析はしていません。
■「丁寧」は不確定要素
これは、物理学で喩(たと)えるとわかりやすいでしょう。ボールを、ある強さの力で放り投げたとき、摩擦や空気抵抗などを考慮しなくてよい理想的な環境であれば、「慣性の法則」に従ってボールは一定のスピードで、同じ方向へ飛行し続けます。
しかし、空中には空気があり、風があり、地球上であれば重力もありますので、そういった外的条件の影響を受ければ、いずれボールの移動スピードは落ち、地面に落下することになります。そういった不確定要素をいちいち考慮していては、ボールの速度や弾道は計算できません。「丁寧にせよ」というのも、この不確定要素のような扱いにされてしまったわけです。
しかし、科学技術の発達により、風速や風向きを考慮した弾道計算の精度は向上しています。同じように、会話の不確定要素である「丁寧にせよ」も、さまざまな研究が重ねられてきました。このポライトネスが人間の現実的な会話にとって欠かせない要素であることをこのあと見ていきます。
■丁寧な印象のままキッチリ断る回答例
その前に、先の例についてあらためて考えてみましょう。残業を依頼する上司への返答を以下のようにすれば、少しは丁寧になっていませんか。
上司A:山下くん、ちょっとお願いがあるんだけど、明日の会議資料にこのデータが必要だから、悪いけど、少し残業してもらえないかな。
部下B:う~ん、そうですよね、確かに今日中にやらないと明日の会議には間に合いませんよね……。でも、本当にすみません、今夜はちょっと残業が難しくて……。
先の例の断り方とは随分印象が違いますよね。それは、この発話の中にさまざまな配慮が込められているからです。
心の中ですでに断ることが決定事項になっている場合でも、まずは「う~ん」と悩むフリをし、「そうですよね、確かに今日中にやらないと明日の会議には間に合いませんよね」と言って上司と見解が共通していることを示し、「……」でさらに考えるフリをした上で、最終的に「でも」と断りを切り出しています。ここまでは、断るための前準備です。
いざ断る段階に入っても、先に「本当にすみません」と謝罪していますし、主観丸出しの「イヤだ」や「やりたくない」ではなく、「難しい」とやや客観的に表現することで拒絶の態度をぼかす配慮をしています。
「今夜は」という言葉も、「他の日ならば応じることができるのだけど」という対比のニュアンスを伝えることができますので、相手の依頼を全否定するわけではないという配慮を表現しています。
■日本語らしい「ちょっと」の使い方
さらに面白いのは「ちょっと難しい」と述べている点です。日本人は、依頼を断るときに「ちょっと無理」や「ちょっと困る」のようにやたら「ちょっと」を使用します。日本語を勉強中の外国人がこの表現を初めて聞くと、皆「どう解釈してよいかわからない」と困惑するといいます。
というのも、「ちょっと困る」は「困る度合いが小さい」という意味なのだから、つまりは「大して困らない」(だから、条件次第では依頼を引き受けてもよい)という解釈も成り立ってしまうからです。
しかし、仮に、「とても困る」と言ってしまうと、「絶対にやりたくない」という強い拒絶の意を伝えてしまうため、相手には「拒絶された」という強い心理的な負担をかけることになります。
そこで、あえて「ちょっと困る」と言うことで、拒絶されたという心理的負担をなるべく小さくしてあげようという配慮をしているわけですが、外国人にはそれが伝わりづらいようです。
勘の良い人ならお気づきかもしれませんが、先の例で、残業を依頼する側の上司も「ちょっとお願いがあるんだけど」と言っています。これも、自分の「お願い」によって相手に負担を与えるため、その負担をなるべく小さく見せようという配慮なのです。
■「丁寧さ」とは何か
こういった他者への配慮について考え、「ポライトネス(丁寧さ)の原理」を提唱したのがジェフリー・リーチです。彼は、グライスの4原則では足りない部分を補おうとして、「相手にとって好ましくないと考えられることはできるだけ小さく表現し、好ましいと考えられることはできるだけ大きく表現せよ」という原理を提唱しました。
ここでいう「大きく表現する」とは直接的にハッキリと述べること、「小さく表現する」とは遠回しにやんわりと述べることです。裏を返せば、相手が遠回しな言い方をしているときは、こちらにとって好ましくないことを伝えようとしている思惑がある、ということになります。
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尾谷 昌則(おだに・まさのり)
法政大学文学部教授
専門は言語学。特に若者言葉・新語・ネット語に代表されるような現代日本語の変化や、それらの表現が持つコミュニケーション上の機能・役割について研究。近年ではYouTubeチャンネル「ReHacQ-リハック-」、毎日新聞などで石丸構文や進次郎構文に代表される政治家の発言を分析し、親子の言語コミュニケーションについて取材を受け、上司とのコミュニケーションを扱ったネット番組(ABEMA)でも専門家として出演。
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(法政大学文学部教授 尾谷 昌則)

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