■豊臣政権を作った「影の功労者」
現代の企業経営者に、「あなたの会社で最も重要な人材は誰ですか」と尋ねるとしよう。多くの社長は営業成績トップの社員や優秀な役員、次期経営者候補、新たな技術を開発して特許を取得してきた社員などを挙げるだろう。
しかし、自らが起業して会社を発展させてきた創業経営者はべつの返事をするかもしれない。「自分が見落としている危険を教えてくれる人」「社内外の人間関係を円滑にする人」あるいは「有事の際に冷静な判断ができる人」だろうか。
戦国時代後期、豊臣秀吉には天下取りの過程で実弟・豊臣秀長や、川並衆と呼ばれる木曽川筋の土豪のリーダーだった蜂須賀小六正勝、まだ無名の若武者だった加藤清正や福島正則ら多くのスタッフがいた。その中でも、後の豊臣政権成立に尽力した立役者の一人は「天才軍師」と讃えられた竹中半兵衛であろう。
■複数の記録に残る「たった16人のクーデター」
竹中半兵衛(重治)は、天文13年(1544年)美濃斎藤氏の家臣で美濃国大野郡大御堂城城主・竹中重元の長男として生まれた。弘治2年(1556年)長良川の戦いでは斎藤道三方の父に代わって城代を務めて義龍軍を撃退。後に臣従して、菩提山城に移った。
斎藤義龍の死後はその子・龍興に仕えた。道三の娘婿・織田信長が美濃に侵攻したときは半兵衛が創案した「十面埋伏(じゅうめんまいふく)の陣」と呼ばれる伏兵戦術でこれを撃退した。
20歳の半兵衛は、小姓として龍興に仕えていた弟・久作の病気見舞いという名目で手練れの部下16人とクーデターを起こし、龍興を城外に逃亡させたという。いわば、日本版のトロイの木馬である。あまりにできすぎた話ではあるが、このことは同時代の美濃出身で甲斐の国の名刹・恵林寺の住職となった快川和尚の手紙ほか複数の記録がある。早速隣国の信長が美濃の国半国を褒美として与えるので城を譲れと持ち掛けるが、半兵衛は潔く稲葉山城を龍興に返還し隠遁する。
■実際に得意としたのは「調略活動」
隣国近江の浅井氏の食客となり小さな領地を与えられているところに、織田家中で頭角を現してきた羽柴秀吉が何度も訪問して部下に迎えたという(この話は『太閤記』の名場面であるが、『三国志』における諸葛孔明と劉備の「三顧の礼」の翻案らしい)。実際のところは元亀元年(1570年)夏の織田軍の浅井攻めで秀吉が「美濃国人竹中氏、牧村氏、丸毛氏」を与力に加えたいと信長に要請して許されたと半兵衛の長男・重門の著した『豊鑑』に記されている。
その後は巷間伝わるような戦場での天才的軍略ではなく調略活動で活躍し、浅井方の豪族の切り崩しを図った。中国毛利攻めでも、備前八幡山城の調略と宇喜多直家の毛利方からの離反など直接の戦いを避けることを得意としていた。
のちに信長に謀反を起こした荒木村重に対し、帰服説得のために訪れた同僚の黒田官兵衛が捕縛・監禁された時のこと。半兵衛は、帰ってこない官兵衛が謀反に加わったと思い込んだ信長の目を盗み、殺害を命じられた人質の官兵衛嫡男・松寿丸を自らの領内に匿ったという。
しかし中国出陣前から体調を崩していた半兵衛は官兵衛が解放される前に、播磨三木城の包囲中に病に倒れ、陣中にて天正7年(1579年)6月13日に死去。
■両兵衛に共通する「資質」とは
戦闘にあたって、指揮官にその方法を進言するのは軍師の仕事である。その典型として先述した三国志の伝説的名軍師・諸葛亮孔明が思い浮かぶ。
わが国では古くは日本に唐の国から孫子の兵法を伝えた吉備真備、平安時代末期の治承・寿永の乱で源義経についた梶原景時(もっとも義経はその意見を全く聞かなかった)、室町から戦国時代では関東に山内上杉氏の覇権を確立しながら、後にその才を妬んだ主君に討たれた太田道灌、今川義元の指導僧から宰相となった太原雪斎(崇孚)、武田信玄に川中島で啄木鳥の戦法を進言した山本勘助、そして豊臣秀吉の天下取りを助けた両兵衛こと竹中半兵衛(重門)と黒田官兵衛(如水)が思い浮かぶ。
しかしながら、戦国時代における狭義の軍師の任務は出陣に伴う風水占いと決戦日時の決定、陣立て、凱旋時の敵将の首実検など陰陽師に近い仕事が中心であった。現代の我々が想像する参謀本部的な仕事は副次的である。先に述べた両兵衛の作戦談をはじめ、甲州流軍学や北条流軍学、宇佐美流軍学、山鹿流軍学などはすべて平和になった江戸時代の産物である。
では彼らは何をしていたのか。真田信繁(幸村)や太田道灌など第一線の武将として戦闘行為に勇名をはせた軍師もいたが、両兵衛の場合インテリジェンスを駆使して、敵方の調略を優先して彼我ともに損害を被る決戦を避けようとした。そして、どうしても避けられぬ時でもその損害を最小にする能力に長けていた。これは陣頭に立って采配を振るうことに比べて目立たないが大軍の戦略を維持するうえでは兵站と並んで必須の任務であり、これを任せられる人材は多くはない。
不治の病で死を覚悟した竹中半兵衛は自らと同じ資質の持ち主である黒田官兵衛を見出し、身の危険を顧みず後事を託したのであろう。
■竹中半兵衛が患った病の正体
では、半兵衛の生命を奪った病は何か。おそらくは結核だったのではないかといわれている。
若い時の半兵衛は女性のようにやさしい顔立ちで体格も優れていないため斎藤竜興や近習たちに軽んぜられていたという(新井白石『藩翰譜』)。陣中で自分の死期が近いことを悟った半兵衛は、三木城攻めが終わったら高野山金剛峰寺に僧として隠遁する準備をしていたともいう(同書)。
ただ、三木城はなかなか落ちず、静養中の洛北の別邸から平井山の陣中に戻った半兵衛は自らの持病は不治の病であり、静養して治るものではないので戦地に斃(たお)れても秀吉の役に立ちたいと述べた。そして戦場に近い与呂木の民家に床を延べさせたが、病床でも常に手足を動かして合戦に備えていた(『武功夜話』)。
■亡くなる直前に同僚にしたためた“遺書”
亡くなる直前には同僚の前野将衛門長康に「それがし帰陣以来、病臓にいりて聊かもって閉口、お役にも相立たず因伏し候も手肢上下歩行は異これなく候。(中略)当今乱国いまだ畿内治らずなお四強構えて譲らず前途冥々たり。我湖北の閑居を払って平天下道の志を得たりといえども病褥に座起すれば、雨滴むなしく骨力相無候。(中略)御主筑前様案じ入り候事に候、武辺功名は競わず明通安らん事乞い願居候」という遺書のような手紙をしたためている。
ただ、半兵衛の活躍や病に倒れてからの記録のほとんどが江戸時代になってからのものであり、同時代の一次資料は極めて少ない。半兵衛の同僚であった前野長康の事績を子孫が記したという前述の『武功夜話』に比較的詳しい記載があるが、この資料自体が偽書であるという批判もあって真偽のほどがはっきりしないのである。
言えることは若いころから蒲柳の質で、先陣に立って活躍するタイプではなかったこと、亡くなる数年前から慢性の消耗性疾患にかかり静養していたが死期を悟って戦場に戻ったこと、死の直前まで意識は清明で知力の衰えもないことであろうか。36歳という没年を考えると、結核が最も疑わしいが、喀血や慢性の咳嗽など特徴的な症状の記載はない。
■結核は現代でも最悪の場合、死に至る
結核は細菌の一種である結核菌による慢性感染症である。主に肺など呼吸器に発生するが、血流によって全身に播種する粟粒結核や脊椎に病巣を形成す脊椎カリエス、腎臓や消化管管、中枢神経にも病変が及び、現代でも放置すると死に至る。
エジプトのミイラには脊椎カリエスによる骨変形がみられるが,わが国では弥生時代以降にみられることから米作や馬とともに中国・朝鮮からもたらされたものらしい。欧州では18~19世紀の産業革命以降都市部で蔓延し、わが国でも江戸時代末期から明治期にかけて、国民病とまで言われるほど猛威をふるった。
1882年ドイツのロベルト・コッホが、結核菌を発見、1921年にはフランスのパスツール研究所で、ウシ型結核菌を弱毒化した生ワクチンであるBCGワクチンが開発され、第二次大戦後にはストレプトマイシンをはじめとする抗結核薬で不治の病ではなくなった。
■半兵衛が「後継者に」と見込んだ武将
戦国時代の日本では、結核はまだそれほど多くはなかったようであるが、「隔」の病に倒れた武田信玄やその側室で勝頼の母である諏訪御寮人など、結核と考えられる疾患で世を去った人は少なくない。当時の医学書である曲直瀬道三の『医学天正記』にも、結核(当時は労咳)に有効な処方はないとされている。
自らの病と死期を悟った竹中半兵衛は、年若い黒田官兵衛に自分と同じ資質を見出し、全力で後継を託したのではあるまいか。講義録や直接の指導記録などはないが、中国の毛利攻めで一緒に仕事をしながら業務を継承していったに違いない。それもあって、官兵衛は決して自分と秀吉を裏切ることはないという確信をもって人質の松寿丸を匿ったのであろう。
企業でも大学や研究所、医療機関でも、一定の領域で「余人をもって代えがたい」技能を持った人は必ず存在する。しかしながら、人間の寿命は限られており特に激務に集中できる時間はそう長くない。組織を個人の能力と頑張りだけで維持するのはおのずと限界があるので、専門的であればあるほど、同僚や後継者にその業務を伝承することの重要性は昔も今も変わらない。もちろんマニュアル化できることはそうしたほうが良いが、マニュアル化が難しい仕事、センスが必要な仕事はこれができる後継者を選んで育てることになる。
半兵衛と官兵衛は両者とも前線で武勇を競うタイプではなく、情報収集、交渉、調略を重視し、敵を滅ぼすより味方に引き入れることを好んだという。半兵衛は官兵衛の他に神子田正治を推挙したが、残念ながら神子田はその期待に添うことができなかった。神子田正治も才長けた人物だったが、一方では功名心もあって、小牧長久手の合戦で陣頭に立って大失策し秀吉幕下から追放されたという。後継者選びの難しさであろうか。
■天才軍師が残した「最大の遺産」
話が戻るが、結核は現在でもAIDS、マラリアとともに世界三大感染症の一つである。2020年代になっても途上国を中心に全世界では年間1000万人以上が新規に罹患し、10~15%は死亡している。先進国においても、途上国からの移民や難民の患者、さらにそうした人々からの二次感染が増えている。
結核には一定期間複数の抗菌薬を飲み続ける必要があるが、風邪だと思って自己判断や確定診断なしに一種類の抗菌薬を飲み続けると耐性結核が生じて治療が困難になる。
結核は少なくなっているが、肺がんや動脈硬化性疾患は増えており検診で自分の健康状態をチェックして少しでも異常があったら仕事を中断して療養に専念するあるいは仕事を減らして同僚後輩に任せていただきたい。
繰り返しになるが半兵衛が残した最大の遺産は奇策ではなく人材と組織管理だったともいえる。自らの寿命が限られていることを知った彼は、組織を自分一人の能力に依存させなかった。優れた後継者を見出し、その人物を信じ、時には命令に背いてでも守った。
秀吉軍団が半兵衛の死後も機能し続けた理由は、優れた軍略ではなく、人材と組織を残したことにあった。組織構築と運営の要は戦国時代も現代も変わらない。真に優れた指導者とは、自らが最前線で働き続ける人ではなく、自分がいなくても組織が動く仕組みを作る人なのである。
----------
早川 智(はやかわ・さとし)
日本大学総合科学研究所 教授
1958年岐阜県関市生まれ。83年日本大学医学部卒業、87年同大大学院修了。同大医学部助手、助教授、教授を歴任し、2024年4月より現職。専攻は、産婦人科感染症、感染免疫、粘膜免疫、医学史。日本産婦人科感染症学会理事長、日本臨床免疫学会監事、日本生殖免疫学会名誉会員。著書に『ミューズの病跡学I 音楽家編』『ミューズの病跡学II 美術家編』『源頼朝の歯周病 歴史を変えた偉人たちの疾患』(診断と治療社)、『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)などがある。
----------
(日本大学総合科学研究所 教授 早川 智)

![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 昼夜兼用立体 ハーブ&ユーカリの香り 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Q-T7qhTGL._SL500_.jpg)
![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 就寝立体タイプ 無香料 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51pV-1+GeGL._SL500_.jpg)







![NHKラジオ ラジオビジネス英語 2024年 9月号 [雑誌] (NHKテキスト)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Ku32P5LhL._SL500_.jpg)
