「豊臣兄弟!」(NHK)で人気俳優・菅田将暉が好演している竹中半兵衛。半兵衛が最期を迎えた地を訪れた古城探訪家の今泉慎一さんは「秀吉が三木城攻めのため築いた付城のすぐそばに半兵衛の陣があったが驚くほど小さかった」という――。

■秀吉の「最もツイていない時期」
第16回:平井山之上付城(羽柴秀吉本陣)・平井村中村間ノ山付城(竹中半兵衛陣所/いずれも兵庫県三木市)
運がいい。そして、勘もいい。今風に言えば、戦国武将で最も「持ってる」男が豊臣秀吉だということは、おそらく誰もが納得すると思われる。一介の庶民の出自ながら、織田信長の草履取りを皮切りに天下人まで成り上がったのだから。秀吉の人生は、運と勘の良さに背中を押された“勝負”の連続で、かつ、それに勝ち続けてきた。
信長より中国方面軍の大将に任命された秀吉は、1577(天正5)年10月より播磨侵攻を開始。立場的には、織田家中で最大のライバルで、北陸方面軍を任されていた柴田勝家と肩を並べたのだから大出世だ。緒戦は快進撃を続け、あっという間に播磨の大半を手中に収める。北隣の但馬国も弟・秀長が平定。秀吉たちは姫路城(図表1③兵庫県姫路市本町68)に拠点を置いた。
だがここから一転、坂道を転げ落ちるように状況は暗転する。きっかけは、1578(天正6)年の別所長治の謀反。
そして秀吉の成り上がりストーリーの中で、最も“どん底”の時期を迎えることになる。とことんツイていない出来事が連続してしまうのだ。
■尼子を見捨て「播磨大誤算」が始まる
第一の不運は、この謀反により、西播磨の上月城(こうづきじょう)(図表1①兵庫県佐用町上月)を見殺しにせざるを得なかったこと。前年に攻略したばかりの同城は対毛利の最前線で、城を任せたのは尼子(あまご)勝久(かつひさ)、山中鹿之介。10年越しの仇敵打倒に燃える彼等ほど、この役にふさわしいものもいない。
秀吉もきっとそう考えていたはずだが、長治謀反により殿・信長から非情の命令が下る。毛利家の反攻が迫る上月城を捨て、長治の三木城(図表1②兵庫県三木市上の丸町5)に全軍を向けよ、と。秀吉がその指令を聞いてなんと言ったかは不明だが、平成なら「ちょ待てよ」、昭和なら「そりゃないぜセニョリータ」だ。
しかし殿の命令は絶対だ。前年、手取川の合戦では無断で戦線離脱し、“激おこ”信長からカミナリを食らったばかりでもある(おそらく創作だが、「豊臣兄弟!」では死罪を申しつけられている)。やむなく撤退、そして上月城は落城し、勝久、鹿之介も散ってしまう。これが「第一の不運」だ。

■裏切り続出、降りかかる不運
とはいえ、三木合戦は圧倒的な大軍で攻めることができた。三木城(図表2①)は7500に対し、織田軍は数万。しかも三木城の7500には非戦闘員も含まれていた。繰り返し嫡男・信忠を援軍に向かわせるなど、信長は秀吉を全面的に後押ししている。
この状況を見る限り、圧倒的兵力差でわけなくひねりつぶせそうな気がするが、三木合戦は2年近くも続いてしまう。攻城戦は兵力差が相当あっても守備側有利のため、力攻めは犠牲が大きい。そこで慎重を期し兵糧攻めを選んだとはいっても、2年はかかりすぎだ。その理由の一端は、このあと秀吉に降りかかってくる不運の連続にある。
■三木城を囲むも、荒木村重が離反
まず、先の布陣図にも書かれている味方だったはずの荒木村重が離反してしまう。開戦から約半年後、1578(天正6)年10月のことだ。さらに村重の籠る有岡城(兵庫県伊丹市伊丹1-12-12)へ説得に差し向けた秀吉の片腕・黒田官兵衛が幽閉されてしまう。第二、第三の不運が立て続けに訪れてしまったのだ。

秀吉以下の織田軍は大軍で三木城を囲んでいたとはいえ、三木城への兵糧補給ルートは活きていた。なんとか断ち切りたいが、村重の裏切りで背後を脅かされては迂闊(うかつ)に動けない。さらに頼れる片腕も失ってしまっては泣きっ面に蜂だ。こうして三木合戦は長期化を余儀なくされてしまう。
■秀吉初の茶会を開催、規格外の付城
三木合戦では、秀吉は三木城の約3km西方に本陣を構えていた。平井山之上付城(つけじろ)(図表2②兵庫県三木市平井)、通称秀吉本陣は、前線基地として築かれた付城にしてはかなりの規格外だ。東西約400m、南北約300mもの巨城は、三木合戦が本格化する直前、1578(天正6)年7月下旬~8月中旬に築かれている。
■秀吉は付城や軍用路を整備
規格外なのは規模だけではない。「太閤道」と呼ばれる整備された軍用路、畝状竪堀群や各尾根の堀切など、極めて精緻な防御構造が随所に見られる。そのおかげか、1578(天正6)年10月22日には別所軍が来襲するも返り討ちにしている。
なお、別所軍来襲から1週間ほど前の10月15日には、茶人・津田(つだ)宗及(そうぎゅう)を招いて、城内で茶会も開催されている。これは秀吉史上、初めての茶会だったという。

先に挙げた荒木村重の離反もこの月。1578(天正6)年10月は、戦況が大きく動いた月だといえる。終結はそれから1年以上もかかってしまうのだが……。
■ついに「最大の不運」に見舞われる
それから半年後の1579(天正7)年4月。信長の嫡男・信忠率いる2万の大軍が派遣され、翌月には東からの兵糧補給ルートを遮断する。徐々に信長軍が押しつつはあったが、別所軍の抵抗も激しく、戦線は膠着。
そんな中、第四の不運が降りかかる。そしてこれこそが、秀吉を失意のどん底に突き落とすことになる。官兵衛と並ぶ、いやそれ以上に片腕として全幅の信頼を置いていた竹中半兵衛が、1579(天正7)年6月13日、36歳の若さで病没してしまったのだ。その墓は秀吉本陣、平井山之上付城の西麓にある。
■頭脳で秀吉を支えた半兵衛、死す
半兵衛はその1年半ほど前の1577(天正5)年の冬に発病。肺の病だったといわれている。
ちょうど秀吉とともに上月城を攻め落とした頃だ。その後、三木合戦の最中に病状は悪化し、秀吉の勧めもあり治療のため陣を離れ京都へ。「豊臣兄弟!」で描かれるように、織田家の人質になっていた黒田官兵衛の嫡男を救おうとしたという伝承もある。しかし「武士たるもの、戦場で死にたい」と舞い戻ってくる。その時点で既に死を覚悟していたのだろう。
臨終の際、秀吉はその遺体にすがりつき、人目もはばからず泣き崩れたという。いまわの際に半兵衛は、主君・秀吉に対し「いずれは天下を取られるお方だ」と予言したという逸話も残っている。
官兵衛に続いて半兵衛まで。軍師として頼りにしていた“二兵衛”を失った秀吉は、奈落の底に突き落とされた気分だったに違いない。だが、この逆境こそが、秀吉の背中を押したのかもしれない。嘆(なげ)いてばかりいても状況は打破できない。いつも傍にいた両腕もいない。
もはや頼るのは自分自身しかない。三木合戦に決着をつける時が来たのだ、と。
折しも半兵衛が死んだ同月には、隣国の丹波では明智光秀が八上城の波多野秀治を下していた。天下人を目指すのであれば、不運を嘆いている暇はない。死を覚悟した決断こそが、今求められている。半兵衛の戦場帰還が、身をもってそれを教えてくれたのだ。秀吉は泣きながら、そう感じたのではないだろうか。
三木城が長期間にわたって籠城できたのは、外部からの兵糧補給が大きかった。そのルートは複数あったが、秀吉本陣の南麓を横切る東ルートは、1579(天正7)年5月、中継点だった淡河城(兵庫県神戸市北区淡河町380)を秀長が攻略していた。
さらに半兵衛の死後、秀吉もついに本格的に動き出す。同年10月頃には南ルート、明石道を見張る拠点を築く。八幡谷ノ上明石道付城(兵庫県三木市福井)は全長1km近くもある長大な山城で、明石道を見下ろす西側に土塁がビッシリ。こうして次々に補給ルートを断たれ、三木城の兵糧不足は深刻に。「三木の干し殺し」と呼ばれる飢餓状態へと陥った。
半兵衛の死から約半年後、1580(天正8)年1月、ついに三木城を落城に追い込む。別所長治は切腹となった。
■誰も訪れない名軍師の隠れ陣
ところで、三木合戦の際に半兵衛は、いったいどこにいたのだろうか。その場所はもちろん、秀吉のすぐそばだ。平井山之上付城からわずか0.5kmほど北に、平井村中村間ノ山付城(図表2③兵庫県三木市細川町)、伝・竹中半兵衛陣所はある。「伝」とある通り、あくまで伝承。確固たる資料の裏付けはないが、秀吉との関係性を考えると「さもありなん」と思えてくる。
墓地を訪れる人は日々絶えないようだが、陣まで訪れる人はほとんどいないのではなかろうか。県道513号からかなり細い道を入ってゆくため、非常にわかりにくいのもあるだろう。
ひっそりとした森の中に、平井村中村間ノ山付城は隠れるようにしてある。秀吉の片腕、往時は周辺の森も城域だったのだろうが、今や主郭と思われる土塁囲みの円形の曲輪ぐらいしか明確な遺構はない。
■最期を迎えたのは陣地か秀吉の下か
直径10mほどだろうか。驚くほど小さい。しかし周囲をしっかり土塁で固めてあるあたり、実に半兵衛らしい気もする。戦線復帰後、最期はここで迎えたのか、それとも秀吉本陣だったのか。確かめる術はない。
主郭の北側、土塁の向こう側を覗くと身がすくんだ。垂直、いやそれ以上に断崖がえぐれていた。
三木合戦から450年近くの間に、徐々に削られてここまでになったのだろう。半兵衛陣跡まで崩れ去るのも時間の問題かもしれない。迫り来る死期と対峙しつつもこの場に立っていた、半兵衛の面影と重ね合わせずにはいられない光景だ。
享年36歳。竹中家の居城である美濃・菩提山城を遠く離れ、半兵衛はどんな気持ちでこの世を去っていったのだろうか。
【参考記事】信長でも秀吉でもない…天才軍師・竹中半兵衛が守りをガチガチに固めた山城を息子から献上された武将の名前

----------

今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)

古城探訪家

1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。

----------

(古城探訪家 今泉 慎一)
編集部おすすめ