※本稿は、呉座勇一『軍師の日本史』(角川新書)の一部を再編集したものです。
■武士たちは陣形をどこまで作っていたのか
やがて時代は中世へと移り、武士が社会の主役になる。武士たちは陣形を作ったのだろうか。
歴史研究家の乃至政彦(ないしまさひこ)氏は、『保元(ほうげん)物語』や『平家(へいけ)物語』に魚鱗の陣・鶴翼の陣の記述があることに注目し、12世紀後半段階で武士が陣形を用いていた可能性を指摘する。
しかし『保元物語』や『平家物語』は後代に成立した軍記物であり、作者が当時の実情をどこまで把握していたか疑わしいし、文学的脚色の恐れも拭えない。なお魚鱗の陣、鶴翼の陣は、中国の政治書『帝範(ていはん)』などに見える。
同様の問題は、南北朝内乱を描いた南北朝時代の軍記物『太平記(たいへいき)』についても言える。『太平記』には陣形として「魚鱗」「鶴翼」が頻出し、中国の兵法書『六韜』に見える「鳥雲(ちょううん)の陣」も登場する。これらを信用すれば、南北朝時代の武士たちは中国の兵法書を学んでおり、その知識に基づいて陣形を組んでいたことになる。
■南北朝時代になかった中国兵法書の種類
『太平記』には軍記物の特性上、合戦を主材とする章段が多い。その合戦譚においては、戦術・戦略面への言及もしばしばなされる。
実は『太平記』の特徴の1つは、膨大な漢籍(中国の書物)の引用である。中国古典を延々と引用して、話の本筋から脱線することも珍しくない。『太平記』作者が自身の知識を基に軍議の場面を脚色した可能性があり、当時の武士が漢籍を縦横に引用して、中国の兵法に基づいて軍議を行っていたことの証拠にはならない。
南北朝時代の武将で、当代一級の文化人でもあった今川了俊(いまがわりょうしゅん)は『了俊大草紙(おおぞうし)』において、「兵法事。今、天下に人の用いるところの兵書は、四十二ヶ条なり…(中略)…兵法の事は皆真言にて左右なく行いがたき事なり」と記している。
南北朝時代に流行した兵法書は呪術的な『張良一巻書』であり、『孫子』などの合理的・現実的な中国兵法書ではなかったのである。
■陣形を作らない理由
なぜ中世武士は陣形を作らなかったのか。それは、この時代の軍隊は、中小規模の個別の武士団の寄せ集めにすぎず、統率がとれていなかったからである。
蒙古(もうこ)襲来の折に防戦した肥後(ひご)国(現在の熊本県)の御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)が自分の武功を描いた絵巻『蒙古襲来絵詞(えことば)』によれば、文永11年(1274)の文永の役における竹崎季長部隊の構成・装備は次のようなものであった。
竹崎五郎兵衛尉季長(乗馬・弓矢・兜・大鎧)
姉聟 三井三郎資長(乗馬・弓矢・兜・大鎧)
郎党 藤源太資光(乗馬・弓矢・烏帽子・腹巻)
郎党 氏名不明(乗馬・弓矢・烏帽子・腹巻)
旗指 三郎二郎資安(乗馬・旗・烏帽子・腹巻)
同絵巻によれば、竹崎季長ら五人は、先駆け(敵陣一番乗り)の功を立てるため、他の部隊と合流することなく、単独で行動している。
全体の勝利など考慮せず自身の武功を最優先する季長の行動は、『平家物語』に見える宇治川(うじかわ)合戦の佐々木(ささき)・梶原(かじわら)の先陣争い(佐々木高綱(たかつな)が先行する梶原景季(かげすえ)に対し「馬の腹帯がゆるんでいますよ」とウソをつき、梶原が腹帯に気を取られているうちに佐々木が抜き去り敵陣に一番乗りしたという逸話)を想起させる。
このように小武士団が連携せずに思い思いに戦っているような状況では、全軍を有機的に動かすことなど不可能である。
■惣領と弟、若党で構成された一家の兵力
文永の役の2年後の建治(けんじ)2年(1276)、幕府が高麗(こうらい)征伐計画を立てて西国の武士に動員可能兵力を報告するよう命じた際に、筑前国(現在の福岡県)の中村続(なかむらつづく)という御家人が提出した報告書が残っている。その要点は以下のようなものであった(「広瀬文書」)。
続(乗馬・鎧)
舎弟(しゃてい)三郎並(ならぶ)(乗馬・腹巻)
若党(わかとう)五郎大郎(乗馬)
<歩兵>又二郎 源三法蓮入道 源藤次 源藤四郎 又太郎 散大郎 犬二郎
惣領(そうりょう)(一家の主(あるじ))の続と弟の並、そして若党(上級従者)の三人が騎兵、七人が歩兵という構成である。何とも頼りないが、これでも多い方で、同時期に肥後国の定愉(じょうゆ)という武士が申告した兵力は、自分と郎従(ろうじゅう)(上級従者)一人と所従(しょじゅう)(下級従者)三人であった(「石清水(いわしみず)文書」)。
馬は一頭しかないとのことなので、騎兵は定愉一人ということになる。また、弓も二張しかないので、定愉と郎従の二人しか装備できない。
したがって所従三人は戦力としてはほとんど期待できず、主人である定愉の馬の口を取ったり、定愉が倒した敵にトドメを刺して首を取ったりする程度のことしかできないだろう。
■騎兵と歩兵が混在する武士団の実態
騎馬武者が歩兵の従者と共に行動する点も、律令国家の軍隊とは大きく異なる。騎兵隊と歩兵隊を分けて運用するということは行われなかった。
当時の軍隊には、このような小武士団が多数含まれており、隊列を組むこともなく、それぞれが周囲を出し抜いて手柄を立てようとしたのである。
もちろん共同で訓練することもないのだから、陣形以前の問題と言える。まして「軍師」が中国兵法に基づいて全軍を一元的に作戦指揮することなどあり得ない。
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呉座 勇一(ござ・ゆういち)
国際日本文化研究センター研究部准教授
1980年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)(東京大学)。著書『応仁の乱戦国時代を生んだ大乱』がベストセラーとなる。『戦争の日本中世史―「下剋上」は本当にあったのか―』で角川財団学芸賞を受賞。主な著書に『一揆の原理日本中世の一揆から現代のSNSまで』『頼朝と義時武家政権の誕生』『動乱の日本戦国史桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』『日本史敗者の条件』などがある。
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(国際日本文化研究センター研究部准教授 呉座 勇一)

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