NHK「豊臣兄弟!」では、竹中半兵衛の死後、黒田官兵衛が秀吉を支える軍師として描かれる。官兵衛はかつて大河ドラマの主人公になり、“天才”のイメージが根強いが、それは本当なのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、史料をもとに実像に迫る――。
■天才軍師イメージは“黒田家の3代藩主”発
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。半兵衛(菅田将暉)の死後、6月21日放送の第24回からはいよいよ官兵衛(倉悠貴)が実力を発揮することになる。秀吉を支えた軍師として歴史に名を残す男だが、その生涯には、しくじりもけっこう多い。
6月14日放送の第23回では、荒木村重(トータス松本)を説得するために有岡城に乗り込んだのはよいが、捕らえられて幽閉。おまけに、織田のほうでは裏切ったのではないかと疑われて、家族を処刑されそうになっている。
その生涯の後半、関ヶ原の戦いにおいては、戦乱は長く続くと判断。東軍として九州に勢力を拡大しようとするが、短期間で決着がついてしまったために野望は潰えた。その後、福岡藩は幕末まで命脈を保ったのだから、終わり良ければすべてよし……ではあるけど、天才軍師にしてはミスりまくりである。そんなミスだらけの男がなぜ、秀吉の軍師として出世することができたのだろうか?
そもそも、官兵衛が半兵衛亡き後の秀吉を支えた天才軍師……という見方は疑ったほうがよい。このイメージの源流となっているのは『黒田家譜』である。これは、3代藩主・黒田光之の命により、儒学者・貝原益軒が編纂したもので完成したのは1688年のことである。

つまり、現場を知った上で記した史料ではない。かつ、藩主の命で公式にまとめられた黒田家の歴史なのだから、当然バイアスが入っている。それも、いかに当家は素晴らしい業績をあげてきたかという感じで……。
■宇喜多氏の調略で“信長は強い、毛利なんてダメ”
だから、官兵衛は登場早々から大活躍だ。例えば、秀吉に仕えて間もない官兵衛が信長より朱印状を得て、宇喜多氏(文中では浮田)の調略にあたった事蹟では次のように記されている。
然る所に孝高手立を廻らし、ひそかに浮田へ申遣されけるは、輝元大身なれ共、天下を取べき力量なくして、我分国の外に手を出す事成難し(中略)只今の時勢を考るに、信長既に天下の都を領して、四方に下知をなし、分国多くして敵国次第に帰服し、殊に、武器勝れ、其下の大身なる士にも武勇の名有者多し。旁以て当代の天下の主と可成人なり。(中略)
宇喜多直家家老を集め、此事いかがあるべきと詮議せられけるが、君臣共に皆孝高の異見に随て、毛利家を背て、信長へ属したるが宜しかるべしと議定し、家臣花房志摩守を使者として、孝高を頼み、信長公へ降参を乞ければ……(貝原益軒 編著『黒田家譜』歴史図書社、1980年)
筆者訳
そうしたところ、官兵衛(孝高)は策を巡らし、密かに宇喜多直家へと(次のような書状を)送り届けた。
「毛利輝元は大名としては大勢力ですが、天下を取るほどの器量(実力や器)はありません。ですから、自国の領国(中国地方)の外にまで勢力を伸ばすことなど到底不可能です。(中略)
現在の天下の情勢を考えますに、織田信長公はすでに天下の中心である京都を支配し、四方の諸大名に命令を下しております。織田の領国は増え続け、敵国は次々と降伏しており、特に織田軍の武器(鉄砲など)は優れ、その配下にある大身(有力)な武将たちにも、武勇の誉れ高い者が大勢揃っています。
これらを総合して考えれば、信長公こそがまさに現代の『天下の主』になるべき御方(勝ち組)なのです」(中略)
これ(官兵衛からの手紙)を受けた宇喜多直家は、家老たちを集めて「この件をどうすべきか」と会議を開いた。すると、主君(直家)も家臣たちも全員が、ことごとく官兵衛の意見(時勢の分析)に納得し、「毛利家に背いて、織田信長公に味方するのが最善である」と決定した。
そして、宇喜多家の家臣である花房志摩守を使者として派遣し、官兵衛を仲介役として頼み込んで、信長公への降伏を願い出たのであった……。

■黒田家が“自慢したいがための書物”
どうだろう? 現代語訳してみると、改めてご都合主義的な展開が浮かび上がってくる。宇喜多直家といえば、主家を乗っ取り、親類すら謀殺し、状況に応じて東(織田)と西(毛利)を天秤にかけ続けた、戦国時代屈指の謀略のプロである。
それが、播磨の国人に毛が生えたレベルの家老が「信長は強い、毛利なんてダメだぞ」と語ったところで、すぐに納得するものだろうか? もうこれだけで『黒田家譜』が「当家は、秀吉に天下を取らせた天才軍師の家系である」ということを自慢したいがための書物であることがみえてくる。
しかも、書いたのが当時では随一の儒学者にして物知りだった貝原益軒だったのが強い。
この味方につく可能性が極めて低い敵を弁舌だけで帰服させるのは、中国史の文献での定番である。例えば『三国志演義』における、赤壁の戦いの前段が、それだ。ここで孔明は孫権に対して、劉備と共に曹操軍と戦うべき理由を説き、納得させている。孔明の天才軍師ぶりを語るエピソードの一つだ。
このエピソード、官兵衛のエピソードとどことなく似ている。
パクってというより、事実をもとにプロットを利用して、官兵衛の活躍を説明しているように見えるのだ。
これによって「官兵衛はすごい」とわかりやすく理解できるのだから、貝原益軒の筆は冴えている。となると、もっとも優れていたのは「黒田家の歴史をまとめるなら、名高い貝原益軒先生に描いて貰うといいでしょう」と提案した名も無き家臣ではなかろうか。
■「地元の便利な協力者」だったのではないか
もちろん、秀吉が官兵衛を有能な軍師として重用していたのは事実である。『黒田家文書』を見ると、播磨への出陣後、秀吉は味方した官兵衛に感謝の書状を送っているし、所領を与えることや、人質を粗略に扱わないことについて起請文まで認(したた)めている。
とはいえ、これはあくまで官兵衛の利用価値を期待してのものにすぎないともいえる。そもそも、最初から「国人の家老がいきなり味方についてきた」のだから当然である。秀吉にしてみれば、播磨に乗り込んだ時点で官兵衛は「向こうから転がり込んできた地元の人脈」だ。
姫路城を提供され、土地勘のある案内役までついてきたのだから、感謝の書状を送るのは当たり前で、むしろ送らない理由がない。起請文だって「大事に使いますから逃げないでね」という引き留め工作と読める。つまり官兵衛は、天才軍師として抜擢されたのではなく、最初から「地元の便利な協力者」として使われ始めたのである。
なにしろ、ちょっと角度を変えてみると「こいつ才能があるのに、ミスばかりしてない?」としかみえないのだ。

■村重の謀反で、もとの主君・小寺政職が裏切った
まず、もともとの主君である小寺政職の問題だ。官兵衛は1577年にいち早く、主君を口説き織田につくことを決めた。これを進言したのだから、機を見るに敏な人物であることは確かだろう。しかし、アフターケアはまったくなっていない。翌1578年に村重が謀反を起こすと政職は、これに呼応してすぐさま裏切っているのである。この裏切りに際しての官兵衛の立ち振る舞いを『黒田家譜』では、こう書いている。
孝高小寺を諫て曰、我子を信長公へ人質に参らせ置たれば、夫を捨て候に不便に存じ、ひとへにかように申にはあらず。信長終に天下の主と成給ふべき人なり。
筆者訳
官兵衛(孝高)は、主君の小寺政職を諫めて言った。
「私は自分の子供(のちの黒田長政)を信長公へ人質として差し出しておりますが、その我が子を見捨てるのが不憫に思うから、ただそれだけの私情でこのようなことを申し上げているのではありません。信長公というお方は、最終的には必ずや天下の主(支配者)におなりになるべき人物だからこそ(裏切ってはならないと)申し上げているのです」

しかし、意志を変えぬ政職に官兵衛は、ついにこう決意する。
■“官兵衛は高潔であり、被害者だった”というロジック
小寺殿に叛き合戦に及ばん事不義の至なり。
当家の運尽きずば我身に災難なかるべし。若小寺殿にうたがはれ討るるとも、我不義にあらず。運命の寄る所なれば、なげくべき道に非ず。元より武門に生れては、義にあたりて命を惜むべきにあらずと宣へば、職隆も孝高が覚悟尤もなり。一筋に信長公を主君と仰ぎ、又小寺殿を旗頭と頼む上は、彌信長公に二心なく、又小寺殿に背かざるが、只今当然の義理なり。
筆者訳
「(かと言って)今さら小寺殿に反旗を翻し、戦を交えるなどということは、不義の極み(臣下にあるまじき不忠)である。我が黒田家の武運がまだ尽きていないのであれば、私の身に災難など降りかからないはずだ。もし小寺殿に(織田への内通を)疑われて討たれるようなことがあろうとも、私自身が不義を働いたわけではない。すべては運命の行き着くところなのだから、嘆くようなことではない。もともと武人の家に生まれたからには、大義を前にして命を惜しむべきではない」

これまた貝原益軒の才能が溢れる記述である。ようは「子供がかわいいからじゃないです、信長様が勝ち組だからです!」と政職を説得したが果たせなかった。かくなる上は裏切るしか無いのだが「殺されたら運命だから仕方ない……俺たちは信長にも、小寺にも背かない」と決断したと言い張っているのだ。

つまり、主君を説得できなかったのは、無能だからではない。官兵衛が高潔であり、被害者だったのだと、力技なロジックに持ち込んでいるのである。
■“赴いた理由”がわからないのに、「政職の策略」と説明
しかし、当時の秀吉からしてみれば「なんか、優秀そうに見えたけどマヌケだな……」とみえたのではなかろうか。ここで官兵衛の評価はだだ下がりになっていたとしても、おかしくはない。それが、有岡城への突入へと繋がったと考えるのが自然だろう。
そして、この有岡城もしくじりの極みである。創作ではさまざまな描かれ方をするが、史料では官兵衛がなぜ説得に赴いたかは明らかではない。
それを『黒田家譜』では、政職の策略だったと説明している。
小寺氏孝高に申されけるは、我今度信長に叛き、毛利に属せんと思ふも、元来我等荒木と一味にて、彼俄に志を変じて我をすすめし故なり。荒木元の如く再信長へ心を属せば、我も信長へ属すべし。貴殿は先荒木が許へ行て、いかにしても彼を諫め、信長方へ引入れ候と申されければ、孝高荒木が心底計り難く、此事如何あらんと思ひ給ひしかども、信長公への忠節なれば、辞するにおよばずして、十月下旬伊丹へ行き、町より城内へ使を遣わし、事の由を云入給ひければ、荒木孝高を城内へ招入れ、力者をあまたかくし置、押へて生捕りにして、其儘城中に禁獄し置ける。
筆者訳
主君の小寺政職は、官兵衛(孝高)にこう言った。
「私が今回、信長を裏切って毛利に味方しようと思ったのも、もともと我らは荒木村重と同盟(一味)であり、その荒木が急に方針を変えて、私に(裏切りを)勧めてきたからなのだ。もし荒木が元のように再び信長へ心を戻す(織田側に帰順する)というなら、私も信長に従おう。だから貴殿(官兵衛)、まずは荒木のところへ行って、どうにかして彼を説得し、信長方に引き戻してきてくれ」
官兵衛は「荒木の本当の狙いは測りがたい(怪しい)。この任務は一体どうなることか……」と不安に思ったものの、「信長公への忠義のためだ」と思えば辞退することもできず、10月下旬に伊丹(有岡城)へと向かった。
城下町から城内へ使いを出して「(説得に)参りました」と伝えたところ、荒木村重は官兵衛を城内へ招き入れ、あらかじめ屈強な大男(力者)を大勢隠しておいて、一斉に官兵衛を押さえつけて生け捕りにし、そのまま城の中に監禁(禁獄)してしまった。

■天才軍師なのに「罠だ」と見抜けなかった
この記述の通りだとすると、官兵衛は完全な間抜けである。もう意見が相違して対立している政職に「実はこういうことなのだ」と説明されたのを真に受けて「そんなに上手く説得できるものかな」と自信がないくせに、ノコノコ入城し、捕まってしまったというわけだ。
いやいや、天才軍師なら、政職が「荒木を説得してくれたなら」といった時点で「これは罠だな」と察するところだろう。もし、本人が気づかなくても周りの家臣とかが止めるはず。なのに、ノコノコと出向くし、いきなり城内に自分から入っている。いくらなんでもノープランすぎる。
結局、得意な弁舌も計略も発揮することができずに、隠れていた大勢の筋肉モリモリの大男たちに取り押さえられるのは、シュール過ぎてほとんどマンガである。
しかも、これまた貝原益軒は、官兵衛がノープランな間抜けとは書かずに信長への忠義があったから云々と理由をつけて、こんな卑怯な罠を仕掛けた政職こそが悪人という流れに持ち込もうとしている。「○○社(大企業)と弊社サービスの活用検討を開始(=契約ではなく話しただけ)」とか無理矢理なプレスリリースを出してしまうスタートアップみたいだ。
■後世に名を残したのは、貝原益軒のおかげ
それでも、官兵衛は幸運だった。監禁されたものの生き延びたし、出てきたら半兵衛が死んでいたので空いている軍師のポストにうまく収まることができた。
しかし、軍師とはいえ、その後は重く用いられたとは言い難い。その切れ者過ぎるところを秀吉に警戒されたという節もあるが、実のところ「頭脳は完璧なのに、任せたらミスる」ポンコツぶりを見抜かれていたのではなかろうか。
それでも官兵衛が「天才軍師」として後世に名を残したのは、ひとえに貝原益軒のおかげである。益軒は三国志演義のプロットを拝借し、失敗を高潔な倫理に変換し、間抜けな捕縛劇を忠義の物語に仕立て上げた。その筆力は本物だった。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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