これまで、本能寺の変後に起きた山崎の合戦では、秀吉が明智光秀を破ったとされてきた。しかし、最新研究で秀吉はその戦いに間に合わなかったとされている。
歴史評論家の香原斗志さんは「代わりに光秀軍と戦い、勝利したのは荒木村重の元重臣だった」という――。
■織田信長を追い詰めた2つの謀反
荒木村重(トータス松本)が織田信長(小栗旬)に反旗をひるがえした。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第23回「さらば半兵衛」(6月14日放送)。
ドラマでは、明智光秀(要潤)が、居城の有岡城(兵庫県伊丹市)に説得に行ったが、村重は一度裏切った自分を信長が許すとは思えず、拒絶した。そこで、今度は黒田(小寺)官兵衛(倉悠貴)が乗り込んだが、有岡城に幽閉されてしまう。
当時の記録では、どんな状況だったのだろうか。村重の謀反が信長に伝えられたのは、天正6年(1578)10月21日だが、その半年ほど前の3月29日には、別所長治が裏切って三木城(兵庫県三木市)に籠城していた。実際、信長にとってかなりのショックだったと思われ、『信長公記』にも戸惑った様子が記されている。信長の命令で播磨平定の任に当たっていた羽柴秀吉にとっても、さすがにダブルの謀反は厳しく、かなり困難な局面を迎えることになった。
しかも、ともに単独で謀反を起こしたわけではなかった。それぞれが大坂本願寺および毛利氏、毛利氏の庇護下にいた足利義昭らによる反信長包囲網に参加する格好だったので、かなり手ごわかった。ことに村重は謀反を起こして以降、信長が長期にわたって対戦している本願寺へ、毛利水軍を介して兵糧や物資を運び込むのを助ける役割を果たした。
信長には手痛かった。
そのうえ村重の有岡城は、簡単に落とすことができないきわめて堅固な城だったのである。だが、信長方は、おそらく当初に想像したよりは簡単に、有岡城を攻略できた。その背景には、ある武将の裏切りがあった。
■荒木村重の有岡城は堅固だったが…
その前に、有岡城がどう堅固だったのかを説明しよう。
伊丹段丘が東に突出した位置、ちょうど現在のJR伊丹駅の周辺に主郭部があり、西側と南側には堀がめぐらされていた。その周囲は家臣団が住む侍町と、町人らが住む町屋地区に分かれ、それらすべてを包み込むように、東西約800メートル、南北約1700メートルにわたって、土塁と堀が取り囲んでいた。
つまり、のちの北条氏の小田原城や秀吉の大坂城のように、城下町をもすっぽり取り囲む総構によって守られていたのだ。そのうえ北、西、南の要所には3つの砦が構えられ、信長や嫡男の信忠の軍を寄せつけなかったのである。
だが、城は堅固だったものの、与力(より大きな大名に付属させられた部将)の2人が離脱したのが、なによりも手痛かった。『信長公記』にはこう書かれている。
〈高槻の城も茨木の城も堅固であるから簡単には攻め崩されまいと、荒木も家臣たちも思っていたところ、意外にも、杖とも柱とも頼りにしていた高山右近・中川清秀が織田方に寝返ってしまった〉(中川太古訳、以下同)
高槻城(大阪市高槻市)は高山右近の居城、茨木城(大阪市茨木市)は中川清秀の居城だった。

■謀反をけしかけた張本人なのに
キリシタン大名の高山右近は、最初から信長を裏切るべきではないと村重に主張し、村重が謀反を決断したのちは、イエズス会に説得されて信長につくという道を選んだ。
これに対して中川清秀の寝返りは、ある意味、たちが悪い。というのも村重は、信長への謀反を決断するに当たって、清秀に背中を押されたといわれるのだ。京都の豪商、立入宗継の日記『立入左京亮入道隆佐記』には、その経緯がおおむね以下のように記されている。
信長から謀反の疑いをかけられた村重は、母を人質に出して弁明しようと、安土城(滋賀県近江八幡市)に向かった。その途中で茨木城に立ち寄ったところ、城主の清秀は「安土に行けば、切腹させられるに違いない。だったら摂津で信長と一戦を交えるべきだ」と強く進言。それを受け入れた村重は安土に赴くのをやめ、有岡城に戻って籠城した――。
そうであるなら、清秀がけしかけたせいで、村重は信長に謀反を起こした、ということができる。ところが、そんな清秀が信長に寝返ってしまった。
■たった1週間で信長につくことを決断
中川清秀もいちおう茨木城に籠るには籠ったのだが、すぐに信長の調略を受け、開城している。それにあたっては、妹婿だった古田景安(のちの茶人として知られた古田織部)が説得に当たったともいわれるが、寝返りの決断はあまりにも早い。
村重の謀反を信長が知ったのは、前述のように天正6年(1578)10月21日だったが、その1週間後の10月28日には、清秀はもう寝返っていたのである。
そして以後は、かつての主人であるばかりか、自分が謀反に向けて背中を押した荒木村重を、一貫して攻撃する側に回った。信長にとってはじつに心強く、村重にとっては、あまりに手痛いことだったに違いない。
有岡城における攻防戦は、翌天正7年(1579)9月まで続く。だが、それはある時期から信長が持久戦を選択したからであり、中川清秀と高山右近が離脱した時点で、信長にきわめて有利な状況になっていた。その意味では清秀は、信長の天下一統への道のりにおいて、かなり大きく貢献したことになる。
清秀はその後、信長の家臣として、丹羽長秀や池田恒興の旗下で活躍している。村重を裏切るまでは摂津の一部将にすぎなかったのが、裏切ってからは、信長の軍事行動に積極的に参加しているのだ。たとえば、天正10年(1582)3月には武田勝頼を滅ぼす戦いにも従軍しており、信長への貢献度の高さと、清秀のしたたかさを物語っている。
■山崎合戦で光秀を破った男
したたかであると同時に、機を見るにも敏だったようだ。天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長が斃れると、すぐに秀吉についている。
もっとも、秀吉はいわゆる「中国大返し」の途中で、中川清秀と高山右近に「信長と信忠父子は無事に近江に逃れた」というニセ情報を伝えている(6月5日付の秀吉の書状が残っている)。
彼らが明智光秀に味方すれば、のちに信長から手痛い報復を受ける、と思わせたのだ。
それが功を奏してか否か、信長の三男の信孝を総大将とする四国出兵に加わる準備をしていた清秀は、秀吉に味方する決断をしている。
そして6月13日、清秀と高山右近は、「中国大返し」を終えた秀吉軍の先手として最前線に立ち、光秀を破る原動力になった――。そういわれてきたが、秀吉の書状をあらたに発見した中京大学の馬部隆弘教授が最近、秀吉は山崎の合戦に間に合わなかった、と指摘している。
山崎合戦の当日である6月13日に書かれたその書状で、秀吉は翌日に出陣する意向を示している。ところが光秀は、予想に反して13日に出撃してしまったため、摂津に領地をもつ清秀と右近、それに池田恒興が戦って、光秀の軍を破った、というのである。
じつは、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの『日本史』にだけは、秀吉は間に合わなかったと記されていた。右近は光秀の軍が迫っているのを知り、3里(12キロ)以上後方にいる秀吉に急報したが、光秀は進軍してきた。そこで右近らが光秀の軍に突撃したと書かれており、新発見の書状の内容と合致する。
■子孫は明治維新まで安定して存続
このように、荒木村重を裏切って以降の中川清秀は、かなり勢いづいていた。信長に信頼されて、軍事作戦に次々と従軍した。その信長が討たれると、山崎合戦に「遅参」した秀吉に代わって明智光秀と戦い、秀吉に大いなる恩を着せた。
秀吉が信長の後継者競争から一歩抜け出し、織田政権を簒奪する道を切り開くうえでの、最大の恩人ということもできる。
むろん清秀は、その後も秀吉に従った。だが、山崎合戦の翌年の天正11年(1583)、賤ヶ岳合戦で不運が訪れる。柴田勝家が越前(福井県北東部)から近江(滋賀県)に進軍すると、一度は降伏した織田信孝が4月16日、伊勢(三重県東部)の滝川一益と結んでふたたび挙兵したのだ。このため、秀吉はいったん美濃に進軍した。
秀吉が離れたのを好機と見た勝家は、佐久間盛政に大岩山砦(滋賀県長浜市)を攻撃するように命じた。その結果、砦は陥落し、守っていた中川清秀は討ち死にしてしまった。
その後、清秀の次男の秀成が文禄3年(1594)、豊後(大分県)の岡城(竹田市)に入封。秀成は関ヶ原合戦で東軍にくみしたため、そのまま所領を安堵され、一度も移封がないまま明治維新を迎えている。清秀は戦死しても、中川家はそのしたたかさを受け継ぎ、時代を越えて存続した。しかし、歴史に「もしも」と問うことが許されるなら、中川清秀は、生きていたらどこまで大きくなっただろうかと、想像が膨らむ部将である。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。
早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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