■なぜ「秀吉の右腕」は関ヶ原で家康に与したのか
「軍師官兵衛!」。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第24回(6月21日放送)のサブタイトルである。実際、黒田孝高、通称「官兵衛」といえば(記事内ではわかりやすさを優先して官兵衛と記す)、羽柴秀吉の天下一統を支えた無二の「軍師」として知られる。
最初に少しだけ留保をつけておくと、官兵衛が本当に「軍師」、すなわち、秀吉の近くに仕えて作戦や計略を立案する参謀だったのかについては、疑問を呈する声が近年高まっている。
というのも、戦国時代には「軍師」なる概念はなかった。では、なぜ「軍師官兵衛」といわれるのかといえば、貝原益軒がまとめた『黒田家譜』をもとに、明治以降に書かれた伝記や小説を通じてイメージがつくられたと考えられる。そもそも『黒田家譜』は、官兵衛の死後数十年も経ってからまとめられているうえに、黒田家の正史なので、内容はかなり「盛られて」いる。
だからといって、秀吉の天下一統に対する官兵衛の貢献度が、小さかったということにはならない。「軍師」ではなかったかもしれないが、秀吉の絶大な信頼を勝ちとり、まさに右腕として近くに仕え、軍事から諸大名との交渉まで、多方面にわたって支え続けた。貢献度がきわめて高かったことはまちがいない。
だが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、官兵衛がくみしたのは徳川家康が総大将を務める東軍だった。
■「秀長と同じくらい信頼している」
秀吉との関係が深まるのは、天正5年(1577)、信長の命令で秀吉が播磨(兵庫県南西部)に進駐してからだ。すでに信長には臣従していた官兵衛だが、自身の居城の姫路城(兵庫県姫路市)に秀吉を招き入れ、本営としてその本丸を提供したという。
荒木村重が信長に謀反を起こした際、村重を翻意させるために有岡城(兵庫県伊丹市)に乗り込み、そのまま1年ほど幽閉された話はよく知られる。そうした調略活動はいくつも行っており、天正7年(1579)に宇喜多直家が毛利方から織田側に寝返ったのも、官兵衛がひそかに交渉を重ねた結果だという。
だから秀吉はそのころ、官兵衛に宛てた自筆の書状に「その方の儀は、我ら弟の小一郎め同然に心安く存じ候間(貴殿のことは、私の弟の小一郎と同じように信頼している)」と書いている。文字どおりに秀吉の右腕だった秀長と同じくらい信頼している、というのだから、かなりの信頼度だろう。実際、この時点ではまだ新参者だった官兵衛が、秀吉の一門や蜂須賀正勝ら古参の家臣に次ぐ高い地位を得ていた。
天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が起きると、秀吉の「中国大返し」に際し、姫路で兵員や兵站を集めるうえで、官兵衛が大きな力を果たした。また、明智光秀を破った山崎合戦にも従軍している。
■秀吉との関係にヒビが入った出来事
ところで、本能寺の変が起きたとき、秀吉は中国地方で毛利氏と対峙していたが、その後も、秀吉が織田家内部の主導権争いを有利に進めるために、毛利家との交渉が非常に重要だった。
また、秀吉が柴田勝家と対立すれば、賤ヶ岳合戦をはじめとする一連の戦いに従軍し、大坂築城に際しては石垣の工事などを担当し、紀州(和歌山県)の根来衆や雑賀衆が一揆を起こせば、その鎮圧に駆り出されている。
秀長が総大将を務めた四国出兵では、城の引き取りや受け渡しに勤しみ、九州出兵では、九州の諸勢力に接して情報をとりまとめ、1カ月に3回ものペースで秀吉に注進した。それでいて、直接的な軍事行動も行っている。
軍師的な仕事も見られるものの、それ以前に、まさに何でも屋として秀吉のかゆいところに手が届く仕事を重ねていた。ただし、秀吉と常にうまくいっていた、というわけではなかった。
官兵衛は天正13年(1585)、洗礼を受けてキリシタンとなったが、2年後に秀吉はバテレン追放令を発している。そのとき棄教こそ迫られなかったが、かなりの不興を買った。官兵衛は九州平定後、秀吉から豊前(福岡県東部と大分県北西部)の6郡をあたえられた。だが、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの書簡によれば、官兵衛がキリスト教に執着しなければ、秀吉はもっと領地をあたえるつもりだったという。
■官兵衛あっての天下統一だったが
とはいっても、秀吉は官兵衛に頼り続けた。九州平定後、佐々成政にあたえられた肥後(熊本県)は、一揆が勃発して大混乱に陥った。
天正17年(1585)5月、官兵衛はわずか数え40歳で、嫡男の長政に家督を譲ったとされる。以後、ますます秀吉に近侍するようになる。小田原攻めにも従軍したが、小田原城の開城後、長政が送った陣中見舞いへの返書に秀吉は、北条氏直が開城を決意したのは、官兵衛の考え抜かれた交渉のおかげだ、と述べている。
その後、秀吉の奥州仕置にも、その後の京都への凱旋にも、官兵衛はずっと近侍した。また、秀吉と毛利家をつなぐ役割も相変わらず担い続けた。それどころか、毛利ほどの大大名が官兵衛を介さずには秀吉と接触できなかったのである。
だが、秀吉とのあいだにすき間風が吹きかねないようなことも、少しずつ増えていった。長年親しくしてきた秀長が病死し、千利休は切腹させられた。官兵衛は羽柴秀次とも親しく交際してきたが、いわゆる秀次事件が起き、秀次は切腹し、その家族は斬殺された。その前に官兵衛自身も、秀吉に殺されそうになっている。
■秀吉末期におきた朝鮮出陣での混乱
朝鮮半島へと、本営の肥前名古屋城(佐賀県唐津市)から再度の渡海をした後のこと。
結果として官兵衛は、秀吉の軍令を執行せず名護屋に戻る恰好になったわけだが、これに秀吉が激怒した。独断で軍令を無視したと断定され、秀吉は対面も許さず、見せしめのためにも成敗しようとまでしている。秀吉の怒りが収まらないので、官兵衛は文禄2年(1593)の夏に剃髪した。
最終的に、長政に免じて助命はされたが、以後、官兵衛は長政がいる朝鮮半島に戻り、体調が悪化しても帰国しなかった。3年前後は朝鮮半島にとどまり、心配する秀次の説得にも応じなかったが、その秀次は前述のように悲惨な末期をたどった。官兵衛の心中はかなり複雑だったのではないだろうか。
しまいには長政までが、蔚山城合戦で臆病な行動をとったと糾弾され、秀吉への拝謁も許されなかった。慶長3年(1598)8月18日、秀吉が死んだのはそんな状況下だった。
■家康とも毛利とも関係を維持する
豊前の中津城(大分県中津市)で秀吉の訃報に接した官兵衛は、上京して世の中の様子を細かく取材している。世の趨勢を見極めようとしたのだと思われるが、まさに見極める能力があるから、秀吉に重用されたのだろう。
以後、官兵衛は長政とともに、家康との関係をひそかに深めていく。
ただし、家康一辺倒になったわけではない。長年、毛利氏との仲介役を務めてきた官兵衛は、毛利輝元のことも強く支持していた。また、官兵衛が加藤清正に宛てた書状には、清正の返書の内容から、亡き太閤の御恩をなにより尊重して行動すべきだ、と書かれていたと考えられる。
官兵衛が取った行動は、長政を家康の近くに置いて徳川家との連携を図りつつ、毛利家との関係も維持し、みずからはどう転んでもよいように臨戦態勢を取り続ける、というものだった。この男が秀吉の「軍師」であったかどうかはともかく、この冷静さと、情勢をしっかり見極めつつ、あらゆる可能性を想定しながら準備する姿勢は、「軍師」と呼ぶにふさわしいのではないだろうか。
■やはり「軍師」と言われるだけはある
こうして官兵衛の行動を追ってみればわかるが、要は、ずっと秀吉にべったりだったわけではない。秀吉のもとで全力を尽くしたほうが得なときはそうしている。だが、疑問が生じれば、朝鮮半島でのように「軍令を無視」し、そのために叱責されれば、秀吉との距離を取り続けた。
状況が見えているのである。だから秀吉の死後は、迷いながらも、秀吉の恩義に縛られるような愚は犯さない。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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