■日米両国で副社長を務めた唯一の人物
発祥の地のアメリカでは創業99年、日本でも53年と、セブン‐イレブンには長い歴史がある。そんな日米双方で副社長(アメリカではExecutive Vice President=EVP)を務めた唯一無二の人物がいる。野田靜真氏がその人。小売業の常識を変えた企業の中枢で、長年にわたり主役であり続けた男だ。
セブン‐イレブンの副社長は、単なる名誉職ではない。明確な次期社長ポストである。それにもかかわらず、野田氏は昨年5月、ひっそりと椅子取りゲームの舞台を降りた。その事実に、筆者はある種の違和感を覚えた。
行動力、判断力、人望――リーダーに必要な要素を、野田氏はほぼすべて兼ね備えていた。
セブン‐イレブンの歴史はすでに多くの媒体に取り上げられ、語り尽くされた感がある。だが、野田靜真というアングルから切り取れば、これまで見えなかった姿が浮かび上がるかもしれない。そんな想いに駆られたのが、この取材の出発点だ。
あらかじめ明かしておくと、筆者はセブン‐イレブン・ジャパンに30年間在籍した元社員である。同じゾーンマネジャーとして先輩の野田氏に羨望の眼差しを向け、僭越ながら、時に部下として支えたつもりだ。だが、あらためて一人の取材者として向き合うと、現役時代に触れてきた事実の一つひとつが、点と点から線へと繋がり、深く得心する。元部下ゆえ多少の身びいきはあるかもしれないが、ここでは野田氏のキャリアを辿りながら、元社員だからこその視点もあるはずと信じ、リーダーのあり方を問い直してみたい。
■新日鉄を辞めてセブン‐イレブンへ
はじめに、セブン‐イレブン・ジャパン入社までの半生を簡単に振り返る。
その後、地元ゆかりの新日鉄(現・日本製鉄)に就職。野球で培ったリーダーシップを買われ、労働組合青年局員に抜擢される。そこで、自分が組合幹部を経て左派系政治家になることを期待されていると知った。だが、それは野田氏の描く人生とは大きく異なっていた。それが26歳で転職を決意した理由である。
転職先に選んだセブン‐イレブン・ジャパンは、1986年当時、急成長の真っ只中。創業者・鈴木敏文氏(当時社長)はすでにカリスマとして君臨していた。
■「広島の売り上げを伸ばして会社を見返したい」
セブン‐イレブンに入社して、トレーニングストア(直営店)での研修を終えた後、OFCとしての配属先は広島地区だった。当時の広島地区はまだ店舗数が少ないうえ売り上げも低い。野田氏は一瞬、「左遷されたのか……」と思ったそうだ。会社から自分はさほど期待されていない気がして、こう思ったという。
「広島地区の売り上げを伸ばして会社を見返したい」
それが野田氏にとっての最初のモチベーションだった。そんなとき偶然、担当店オーナーが大阪出身で「関西には恵方巻という風習がある」と聞かされた。きっかけは何でもよかった。売り上げを上げる起爆剤として「恵方巻を予約商材として取り組んでみよう」という話になった。
いまでこそ恵方巻は、全国のコンビニチェーンやスーパーがこぞって取り組む一大商材。
■「やってみたら、あっという間に完売」
野田氏はまず、怪訝な反応を示す製造工場(デイリーメーカー)に「切っていない巻き寿司を10本だけ納品してほしい」と頼み込んだ。広島では馴染みのない風習だったため、店頭ではPOPに恵方巻の由来や食べ方を書き込み、売場を丁寧に作り込んだ。そのときの状況を野田氏は興奮気味に語る。
「やってみたら、あっという間に完売したんです。たった1店の取り組みだったので、翌年は担当エリアの8店すべてで20本ずつ販売したらこれも完売。3年目にはディストリクトマネジャー(DM・地区責任者)が方針を出してくれて、地区80店で1店平均30本を販売しました。これも、やっぱり完売でした」
なぜ、こうも売れたのだろう……。野田氏に問うと、ある仮説があったことを教えてくれた。
「節分って、家庭では豆以外に何を食べているんだろう? 恵方巻は、豆と食べるにはちょうどよい量です。
鈴木敏文社長(1992年に会長に就任)からは常々「お客様の立場で考えなさい」と教えられていた。これは野田氏が自身の生活シーンから消費者目線で閃いたアイデアだったのである。それだけではない。恵方巻の取り組みは、従業員教育にも有効だと考えた。
■恵方巻が広がった本当の理由
「オーナーさんたちには“従業員全員参加型の経営”を実感してほしかったんです。そのためにはまず接客です。『いらっしゃいませ、今日はいい天気ですね』という挨拶も大事ですが、やっぱり商品を通じてお客様と会話してほしいじゃないですか。恵方巻は当時200円ほど。気軽におすすめできます。従業員が試食して、『これ美味しいですよ。こんなイベントがあるんですよ』とお客様に伝える。お客様は『知らなかったよ』と応えて会話が生まれます」
売り上げの低い広島地区のオーナーたちに成功体験を持ってほしい。
さらに実践の過程で経験したエピソードを聞かせてくれた。
■ライバル店に「一緒にやりませんか」
「当時、担当店の隣には回転寿司のチェーン店がありました。僕はそこの店長と仲が良かったんです。定期的に食べに行ったり、釣銭の貸し借りをしたり、お互いに助け合う関係でした。あるとき僕から切り出したんです。『セブン‐イレブンで恵方巻をやっているんだけど、本来はあなたのところがやるべきじゃないの?』と。回転寿司の店長は『そりゃそうだね!』と感心した様子でした」
後日、その店長は回転寿司チェーン本部の了解を得て、恵方巻を売ることになった。それだけでなく、野田氏は地域のフランチャイズチェーン協会の会合で、ローソン、ポプラといったコンビニ各社(ファミリーマートは当時未出店)の責任者に、『一緒にやりませんか』と声をかけた。
「それは面白い、やろう、やろう、と皆さん乗ってくれました。するとセブン‐イレブンだけでやっていたときには見向きもしなかった地元メディアが、急に取り上げ始めたんです」
評判は瞬く間に広島全域に広がった。セブン‐イレブン・ジャパン社内では、地域の成功事例は迅速に共有される。野田氏は幹部たちの前でケーススタディを発表して、恵方巻の取り組みは一気に全国へと広がった。
■「悪いときは一点突破しかない」
もちろん、野田氏は恵方巻だけをやっていたのではない。その総合的なリーダーシップとマネジメント手腕が高く評価されていた。だから、広島、福山、山口の地区責任者(DM)を務め、次々と売り上げを改善していった。ゾーンマネジャー(ZM・ゾーン統括責任者)への昇格も、もはや誰も驚かなかった。当時の野田氏には活力が漲っており、やり遂げた仕事が正しく評価される組織を、あたかも楽しんでいるかのようだった。
野田氏はこう振り返る。
「僕はいつも数字の悪いエリアばかり任されます。もう慣れていましたね。でも、どこへ行こうが“政策は3つ以上出さない”と決めていました。若い頃から“ランチェスターの法則”を勉強して、『悪いときは一点突破しかない』と考えていたからです。一点突破して成功体験をつくり、自信を持たせてから他の施策へ広げていく。これが僕の常套手段でした」
中でも野田氏が西東京ゾーンを任された当時、エリアの加盟店は約1000店。全国15(当時)ゾーンの中でも特別だった。鈴木会長の自宅がある、まさにお膝元。鈴木会長がつねに眼を光らせ、店に立ち寄っては「機会ロスが多い。だから成績が悪いんだ」と“有難い”指導が飛んでくる。「地道に改善していきます」などと悠長なことは言っていられず、成績が悪いと鈴木氏は、すぐにゾーンマネジャーの首を挿げ替えた。野田氏はそうして前任者が外されたあとの後釜だったのである。
ところが、着任した翌月には、西東京ゾーンは売上前年比を全国最下位からなんと2位に浮上させた。まさに奇跡の改善だった。野田氏は「ツイていた」と謙遜するが、たしかな理由があったことを筆者は知っている。
野田氏の真骨頂は突破力である。ゾーンマネジャーになって間もない頃、鈴木会長からこっぴどく「ぶっ飛ばされた」ことがあった。それが、野田氏に突破力(鈴木イズム)を植え付ける契機になった。
■「鈴木イズム」を植え付けられた「一撃」
それは、野田氏が400万円の稟議を起案したときのことだった。「鈴木会長・要説明」の付箋のついた稟議書が差し戻されてきた。会長に直接説明しろということだ。400万円はゾーンマネジャーが扱う案件としてはさほど大きくない。それまでにも、もっと金額の大きい稟議が、すんなり通っていた。しかも、一介の新任ゾーンマネジャーが鈴木会長に直接説明することも珍しい。野田氏は恐る恐る会長室を訪ねて、来意を告げた。鈴木会長は稟議書を一瞥してからいきなり……。
「君は、400万円の利益を稼ぐために、どれぐらいの売り上げが必要か、わかっているのか! こんなもん、ダメに決まってるだろう!」
そう言って野田氏を怒鳴りつけた鈴木氏は、稟議書を自身のデスクの上に叩きつけた。添付資料の付いた数十枚にわたる分厚い稟議書は、勢い余って野田氏の胸に飛んできた。
「なぜ承認してもらえなかったのか、分かりませんでした。でも、加盟店や取引先にはすでに約束していた案件なので、私も引くわけにはいきませんでした」
その場はいったん退散し、後日、説得材料を整えてから再訪したが、それでも却下。3度目に会長室を訪れたとき、「そこまで言うなら、わかった」と、やっと承認印を押してくれた。
後年、野田氏は鈴木会長に「あのとき、なぜ却下されたのか?」を質問した。鈴木会長はもちろん覚えていなかったが、野田氏にこう語ってくれた。
「ほとんどの奴は一度怒鳴られたら、諦めてもう来なくなる。その程度の稟議だったということだ。本当に必要な稟議なら、逃げずにやって来るはずだ。君は、本当にやりたいと思ったから、何度怒られながらも持ってきたんだろう。だから僕は承認したんだと思う」
後の野田氏の仕事哲学に、大きな影響を与えた鈴木イズムの「一撃」だった。
■恵方巻ブームに自らブレーキを踏んだ
野田氏はその後、役員に昇格。セブン‐イレブン・インク(米国)のExecutive Vice President=EVP(日本では副社長格)、セブン‐イレブン・ジャパン(日本)オペレーション本部長、専務、副社長と、出世の階段を駆け上がった。誰の目にも、社長昇格は時間の問題だった。だが一方で、野田氏は会社を取り巻く環境が、かつてない変化に晒されていることを感じていた。
そう言えば、野田氏がオペレーション本部長の頃、自身が仕掛け人だった恵方巻は店頭販売がエスカレートし、見込みで大量発注し、大量に余ってしまうため、フードロス問題が取り沙汰されるようになっていた。野田氏は見込み発注をしている加盟店の実態を踏まえ、実際に予約を申し込んだお客様の数だけを発注するよう徹底。「フードロス8割削減」という方針を出した。結果的にフードロスは75%削減されたが、ブームを作った張本人が恵方巻拡販のブレーキを踏むという皮肉な結末だった。売り上げを伸ばそうと思っても、フルスイングできない時代に入っていったのである。それでも、社内には野田氏の号令であれば納得するという空気が漂っていた。ところがである。
周囲の期待とは裏腹に、会社の思惑と本人の想いとの間に微妙なズレが生じ始めていた。思い返すとあれはきっと2016年からだ。野田氏は、セブン‐イレブンという巨大組織の経営の大きなうねりの中へと巻き込まれていった。
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村尾 信一(むらお・しんいち)
フリーライター
1967年、大阪生まれ。95年に株式会社セブン‐イレブン・ジャパンへ中途入社。直営店(トレーニングストア)店長、ディストリクトマネジャー(DM・地区責任者)などを経て2011年より東北ゾーン、北海道ゾーンのゾーンマネジャー(ZM・統括責任者)として広域統括を担う。2025年7月退職後は、フリーライターとしてビジネス誌などへ寄稿。7月1日に著書『鈴木敏文の遺言』(ビジネス社)が発売される。
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(フリーライター 村尾 信一)

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