■「あの写真、遺影にちょうどいいね」
白髪にスーツの男は、会議室の椅子に腰を落ち着けるなり、本気とも冗談ともつかないことを話し始めた。
「こないだの記事に載せていただいた、私一人の写真があったじゃないですか。あれ、家内と一緒に見ながら『遺影にちょうどいいね』と話してたんですよ」
関西訛りでそう言って笑ったのは、瀬戸山隆三である。別の企画でインタビューをしてから約1カ月が経ち、その記事が公開された直後のタイミングだった。「よかったら紙で焼いたやつをいただこうかなと」。飄々とした口調に、ますます冗談か本気か分からなくなった。
2004年、瀬戸山は球界再編騒動の渦中で経営側の労使交渉窓口を務め、世間から激しいバッシングを浴びた。あれから22年――。屈託のない表情が、過ぎた年月の長さを物語る。
だが、ひとたび往時の記憶を紐解き始めると、その瞳は、数々の修羅場を潜り抜けてきた実務家らしい冷徹な眼光を取り戻した。
■騒動の1年前から水面下で進んでいた
2000年代初頭、パ・リーグ各球団は深刻な経営難に陥っていた。
「2003年から、そういう雰囲気はあったんです」。騒動が表面化するのは2004年6月、日本経済新聞がオリックスと近鉄による球団合併交渉をスクープしてからだが、その1年以上前から前触れはあったのだ。
2003年当時、瀬戸山はダイエーの球団代表を務めていた。各球団の代表者が集まる会議の席上、頻繁に議題に上っていたのが近鉄の動向だった。
「近鉄さんがとにかく大変だと。本体の立て直しが急務。野球どころではない状況だった」
親会社の近畿日本鉄道はレジャー事業の不振などから財政健全化に向けたリストラを迫られていた。毎年大きな赤字を垂れ流す球団にも厳しい目が向けられた。
それでも保有継続を念頭にさまざまな策が講じられた。その一つがアコムとの連携だ。2002年11月、推定2億円でスポンサー契約を交わしたのに続き、さらに踏み込んだ提携案が具体的に検討された。
■渡邉恒雄を中心に密かに進んだ球界再編計画
「年間40億~50億円の赤字のうち30億円ほどをアコムさんに出していただく案でした。その代わり、ユニフォームや本拠地・大阪ドームを含めて、アコム色がかなり強くなる。パ・リーグとしては『先立つものがなければどうしようもない。協力します』と後押しするスタンスでした」
30億円規模の提携とは、球団名称の命名権売却プランを指す。近鉄は2004年1月31日、同日の朝日新聞報道を追認する形でこの計画を公表した。しかし、セ・リーグ球団などから猛反発を受け、わずか5日後に撤回。近鉄が自助努力で生き残る道が、事実上閉ざされた。
同じ時期、球界中枢では「10球団による1リーグ制」への移行を見据えた地殻変動が始まっていた。
水面下に漂う不穏な空気がだんだんと濃くなるのを、瀬戸山は肌で感じていた。そして事態が動くにつれ、「ごく限られた人間による『密室』の議論で全てが決められている」との認識を深めていくことになる。
思惑を共有する面々が結びつき、外から見えない形で方針を固め、実行に移していく。
一握りのオーナーたちが描いたシナリオは、それだけにとどまらなかった。
■大物政治家も「密室」の謀議に参加
標的となったのは、かねて身売りの噂が囁かれていたダイエー。その統合相手として浮上したのがロッテだった。
この件には、「密室」に名を連ねるもう一人の重要人物が深く関わっていた。ロッテ球団社長の濱本英輔。ロッテグループは、土地対策をはじめとする税務・経営上の事情から、国税庁の要職経験者を役員として迎え入れることを常としていた。2003年にロッテ本体の副社長に就任し、翌年、球団社長の座に就いた濱本もまた、元国税庁長官という異色の経歴を持つ男だった。
かたや瀬戸山は2003年限りでダイエーを退団後、2004年2月にロッテ球団代表に就任した。必然的に濱本とは近い関係となり、球界再編騒動の間も行動を共にすることが多かった。
「濱本さんは、いわば『お上(かみ)』の人。私は一緒にナベツネ(渡邉恒雄)さんのところへ行ったこともありますが、お上ですから、立場はナベツネさんより上なんです。やはり国税庁長官というのはそれほど凄いんですよ」
ナベツネに対等以上に渡り合えるほどの発言力を持つ濱本。さらに、時の政権中枢にいた大物政治家も「密室」の謀議に参加していたという。メディア、鉄道、財界の巨頭たちに、官僚機構と政治権力のトップが加わる。それは、外野の声など一顧だにしない、まさに「無敵」の陣営と言えた。
瀬戸山を球界再編の濁流へと巻き込んでいったのは、ほかでもない濱本だった。
■「利用されたのか」瀬戸山を襲った疑念
オリックス・近鉄の合併交渉が報じられた直後、瀬戸山はロッテ本社に呼び出された。待ち受けていたのは、重光昭夫オーナー代行と濱本だ。昭夫は父・武雄オーナーと同様、球団経営に積極的には関与していなかった。ほとんど口を開かない昭夫を横目に、濱本がその場の会話を主導した。
「合併の話がもう一つある。
王貞治監督のもと強豪チームとなったダイエーは、地元福岡で絶大な人気を誇っていた。単体では赤字経営だったものの、高い集客力やチーム力を考えれば、他球団より遥かに優良な資産だった。
問題は親会社だった。ダイエー本体は巨額の有利子負債にあえぎ、産業再生機構の支援を仰がねばならないほどの経営危機に陥っていた。
「合併に備えて両球団選手の“要・不要リスト”を作成せよ」
濱本からそんな命を受けた瀬戸山は、怒りをあらわにした。ダイエー退団後、オーナー直々に熱心な誘いを受けた。だからこそ別の進路を断ってまで千葉にやってきたのだ。あの熱は、結局のところ、ダイエーとの合併交渉をスムーズに進めるためのパイプ役として自分を見込んでのことだったのか――。そんな不信感が頭をよぎった。
■「選手を選べ」と言われ返した覚悟の言葉
「ロッテを立て直すために来たんです。そんな選手のリストを作るなんてことは、今、私がすることではない。
憤る瀬戸山を、濱本は「球界のためだから」と同じ言葉を繰り返して押しとどめた。
会議を終え、改めて両球団の合併を思い浮かべた。千葉と福岡という本拠地の距離。ボビー・バレンタインと王という二人の名将。そして、両チームの選手たち。それらを一体どうやって1つにまとめるというのか。どれだけ考えても、現実味は1ミリも湧いてこなかった。
やがて、球界再編のより深部へと引き込む第二の波が瀬戸山を襲う。
ある日、プロ野球選手会事務局長の松原徹から電話が入った。「一体どうなっているのか全く分からない。誰も会ってくれない。瀬戸山さん、とにかく一度会ってください」。
選手会が瀬戸山を頼ったのは、彼がNPBの「選手関係委員長」を務めていたからにほかならない。選手関係委員長とは、最低年俸の引き上げなど労組(選手会)側からの要求を受け止め、オーナー会議に諮るための、経営側の労使交渉窓口だ。
12球団の代表者には親会社からの出向者など「お飾り」の人物も少なくない中、瀬戸山は契約更改などの厳しい現場を潜り抜けてきた、きっての実務家だった。適任者としてダイエー在籍時から長くこの委員長を務め、一度は退任したものの、ロッテ入団後に再び同職に就いていた。
■「こんなん野球界の問題ちゃうねん!」
松原や選手会長の古田敦也らの訪問を受けたときのことを、瀬戸山が思い返す。
「彼ら曰く、コミッショナーもオーナーも門前払い。瀬戸山のところくらいしか行く場所がない、ということだったのでしょう。選手会側がアクションを起こした本当の始まりだったと思う。彼らは『合併を1年間凍結し、その間に選手会も交えた話し合いの場を作ってほしい』と強く訴えていた」
選手や裏方スタッフの雇用に直結する球団統合を、現場への説明なしに「密室」で進めることは筋が通らない。経営が成り立たないのであれば、相応の猶予を設け、当事者である選手も交えて議論すべきではないか――。
選手会の主張は真っ当であり、瀬戸山自身、現場を無視して強行突破を図る球界の現状に強い疑問を抱いていた。なればこそ、意を決して根來泰周コミッショナーのもとへ足を運んだ。
当初、根來の反応は穏やかだった。共に関西出身とあって、「あんまり立ち入らんほうがええよ」と優しく諭した。
だが、瀬戸山はしつこかった。「これは球界全体で解決すべき問題ですよ。このまま放置して一体どうするつもりですか」。正面から言葉を重ねるうち根來は激高。こう言い放った。
「こんなん野球界の問題ちゃうねん。商法上の問題や。あんたに法律のことなんか分かれへんやろ!」
東京高検検事長などを歴任した、法曹界の重鎮としてのプライドがのぞく強烈な一言だった。「それ以降、根來さんは口をきいてくれませんでした」と瀬戸山は苦笑する。
■「1リーグ10球団制」を印象付けた会議
水面下の動きは報道によって徐々に表面化し、世間を巻き込み始めていた。世論の風向きを決定づけたのが、7月上旬に立て続けに起きた2つの出来事だ。
まずは7日のオーナー会議。直前にライブドアが近鉄買収へ名乗りを上げたことに加え、西武オーナーの堤が26年ぶりに出席するとあって、会議は異様な注目を集めていた。
その席上で衝撃的な発言が飛び出す。堤が突如「もう1組の合併が進行中」と明かしたのだ。「西武、ダイエー、日本ハム、ロッテ。どことどこが一緒になれるか模索している」。オリックス・近鉄に続く合併となれば、パ・リーグは4球団に減る。堤の発言は、「1リーグ10球団制」への移行が既定のレールに乗ったことを世間に強く印象づけた。
この発言は単なるブラフであったことがのちに判明するが、堤がそうした言動に至った背景について、瀬戸山はこう見立てる。
「いっこうに進まないロッテ側の動きにしびれを切らし、早くしろとプレッシャーをかけたのではないか」
事実、瀬戸山のもとにはダイエー本体社長の高木邦夫から「ロッテとは一緒にならない。150%ない」と釘を刺す電話が入っていた。「密室」主導の合併プランは、完全に膠着状態に陥っていたのだ。
■記者の問いにナベツネの問題発言が飛び出す
さらに翌8日夜、騒動の最大の転換点となる言葉が飛び出した。記者からの「古田選手会長が直接の話し合いを希望しているが」との問いかけに、渡邉が答えた。
「無礼なことを言うな。分をわきまえないといかんよ。たかが選手が……」
この発言はセンセーショナルに報じられ、周りの声に一切耳を傾けず、自分たちの胸算用だけで物事を押し通そうとするオーナー陣の姿勢を象徴する一言として受け止められた。これを機にマスコミや世間の反発は急激に高まり、経営側への激しいバッシングの嵐が吹き荒れ始める。
やがて選手関係委員長を務める瀬戸山にまで、非難の矢が飛んでくるようになった。
当時は個人情報の管理が緩く、球団役員の連絡先などは調べればすぐに分かった。瀬戸山の自宅には度重なる無言電話がかかってくるようになり、ついには脅迫状まで届いた。
「ナベツネは難しいからお前を狙う」。そんな言葉とともに、瀬戸山の妻子の存在に触れ、「家族の行動はすべて調べてある。注意しろ」といった不気味な文言が記されていた。「悪者」のレッテルが否応なく貼られ始めていた。
■悪人役を背負わされた瀬戸山の苦悩
その後も球界の混迷は深まる一方だった。有力オーナーによる打算的な発言が飛び交い、1リーグ制移行か、2リーグ制維持かを巡る綱引きが続いたが、本質的な議論は深まらなかった。8月には、裏金問題の発覚によって渡邉が巨人オーナーを引責辞任。混乱に拍車がかかった。
一方、選手会と球団存続を願うファンは、署名活動やイベントを通じて結束を強めていた。
対話を拒み続ける経営側と、世論を味方につける選手会。両者の対比が鮮明になるほど、経営側の実務トップである瀬戸山は、いわば「悪人側の番頭」という役回りに嵌め込まれていった。選手会の思いを携え、コミッショナーに直談判したことを知る者は当事者以外いなかった。
そして9月に入り本格的な団体交渉が始まると、瀬戸山の苦しい立場を象徴する出来事が起きる。交渉後の会見での、古田による「握手拒否」の一幕である。
※肩書は当時。
※参考文献『2004年のプロ野球 球界再編20年目の真実』山室寛之著
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日比野 恭三(ひびの・きょうぞう)
ノンフィクションライター
1981年、宮崎県生まれ。東京大学中退後、広告代理店等での勤務を経て、2010年よりスポーツ総合誌『Sports Graphic Number』の編集者となり、同誌の編集および執筆に従事。16年にフリーとなり、野球やボクシングなどの競技、またスポーツビジネスを対象にライターとして活動中。近著に『ホークスメソッド 勝ち続けるチームのつくり方』(日経BP)。
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瀬戸山 隆三(せとやま・りゅうぞう)
実業家・プロスポーツ経営者
1953年生まれ。大阪市立大学商学部卒。1977年ダイエー入社。ダイエー神戸本店室課長などを経て、1988年より福岡ダイエーホークスに出向、球団総務課長となる。1993年シーズンオフに球団代表に就任。1996年より新設された「球団本部長」に就任。1999年球団代表に再登用される。その後、球団を退団するとともにダイエー本社も退社。福岡県内での企業経営を経て、2004年に千葉ロッテの球団代表に就任。2006年より千葉ロッテ球団社長。2011年より、千葉ロッテ取締役顧問。2012年よりオリックス・バファローズの執行役員球団本部長補佐、2013年に同球団の球団本部長になり、2016年に顧問に就任。現在は実業家・プロスポーツ経営者として講演活動を行い、経営者の育成に携わる。
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(ノンフィクションライター 日比野 恭三、実業家・プロスポーツ経営者 瀬戸山 隆三)

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