■「厄介者扱い」だった少年時代
2028年のNHKの大河ドラマは、中濱万次郎(ジョン万次郎)を主人公とする「ジョン万」の放送が決定。2027年の大河ドラマが、幕末の武士・小栗忠順を主人公にした「逆賊の幕臣」なので、2年連続で幕末を舞台とした作品が描かれることになった。
激動の時代を駆け抜けた志士たちの生き様を知ることは、変化の絶えない現代を生き抜くうえでも、大きなヒントになることだろう。「維新の三傑」の一人で大久保利通の盟友、西郷隆盛をピックアップする。
敬天愛人――天を敬い、人を愛する。
西郷が好んでよく使う言葉として知られているが、少年時代の西郷は全くその境地に至っていなかった。
文政10(1828)年、薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛(諱は隆盛)とマサの長男として西郷は生まれた。
藩の財政が苦しかったため、西郷家も貧しく、弟や妹とともに、西郷自身も傘の骨を作る内職に励んだ。食事もままならなかったが、身体が弱かった西郷に、母は鰹節の煮汁をよく飲ませたという。
地域の男子だけを集めた薩摩藩の教育システム「郷中教育」で学んだ西郷は、そこで自分より3つ年下の大久保利通と出会う。貧しい家柄のこの2人が、近代日本の出発点となる大改革を成し遂げるなど、当時は誰も想像しなかったに違いない。
それどころか、西郷は近所から厄介な子どもだと恐れられていた。
■「暴れ馬」で手がつけられないほどキレる
なにしろ、怒ったときは、烈火のごとくにキレまくる。鞘から刀身を少し出して鞘に収めて音を出して、「いつでも斬ってやるぞ」と威嚇するのが常だったというから、温和な「西郷さん」のイメージとは随分違う。
ケンカを吹っかけられれば、公衆の面前で相手を投げ飛ばしてしまい、そのことから恨みを買って、のちに襲われて刀傷を負うこともあった。
そんな暴れん坊が「このままではいけない」と考えたのは、西郷が19歳の時に下加治屋町郷中の「二才頭(にせがしら)」を務めることになり、同世代のリーダーとして仲間を束ねなければならなくなったからだ。
西郷は、円了無参(えんりょうむさん)という禅僧の門を叩いて、精神を落ちつけるべく禅を学んだ。そうまでしなくてはならないほど、若き日の西郷は暴れ馬だったのだ。
若き日の西郷が出世するきっかけとなったのは、23歳のときに、薩摩藩の藩主に島津斉彬が43歳(満41歳)で就任したことだ。斉彬から「藩士から広く意見を求める」と布告されると、西郷はそれに応えて、藩政改革や農政改革についての意見書をたびたび提出するようになる。
その意見書が斉彬の目に留まり、西郷は庭方役に抜擢される。「庭方役」とはその名の通り、庭の掃除や警備を行う役職だが、斉彬は西郷を自分の傍に置くべく、その役目を与えたのである。西郷は斉彬の片腕となり、江戸や京都で一橋慶喜を将軍にするための擁立運動に、粉骨砕身することとなった。
だが、ここから西郷の人生は暗転する。
■恩人の死に絶望し、自決しようとするも…
恩人の斉彬が49歳で急死してしまい、大老・井伊直弼の弾圧「安政の大獄」によって、西郷の身にも危険が迫る。西郷は絶望のなかで、同志である僧の月照とともに海に身投げを決行するも、自分だけが助かっている。
1人だけ死にきれずに生き残った西郷。一時は後を追うことさえ考えたが、現場にかけつけた大久保から「あなただけが生き残ったのは、天が、国家のために力を尽くさせようとしているから」と説得されて、自決を思いとどまっている。
生き残っていることを幕府に知られないほうがよいと判断した薩摩藩によって、西郷は31歳で奄美大島に送られることになった。
島で西郷は、島民たちが薩摩藩に砂糖の生産を強いられた挙句、搾取されていると知って激怒。役人の島民たちへの暴力に立ち向かうなど、西郷らしい正義感も発揮している。
しかしながら、西郷が島民たちと心をともにしたとは言い難かった。当時、西郷が書いた手紙によると、島の住民とは言葉が通じにくく「交わりは極めて難儀」と本音を漏らしている。
湿潤な気候も肌に合わず、体調不良に苦しめられた西郷。少しでも状況を変えるため「せめて転居させてほしい」と親交のある代官に願い出たほどである。
■ストレスフルな島生活で「豚同様」に
西郷といえば、恰幅のいい体格で知られているが、島に流される前はスマートだったという。寝て食ってばかりの島での生活が、西郷を不健康な肥満体へと変貌させたようだ。大久保らへの手紙で「豚同様にて」と自虐的に近況を報告している。
現地で結婚して子どもをもうけたかと思うと、狩りや釣りを始めるなど、島の生活にも少しずつ慣れた西郷。それでも島生活の始まりから一貫して、帰藩を願い続けたのである。
一方の薩摩藩では、大久保が趣味の囲碁を通じて、斉彬の弟・久光と接点を持ち、重用されるようになった。西郷の苦境を案じた大久保は、船が出るたびに衣類や生活必需品を送り届けた。また西郷の復帰に備えてのことだろう、頻繁に手紙で社会情勢を知らせている。
そんな大久保だから、久光によって小納戸頭取に任命されると、すぐさま「西郷の帰藩を許してほしい」と働きかけている。この頃、久光は亡き兄・斉彬の遺志を継いで、朝廷と幕府が手を結ぶ「公武合体政策」の実現と幕政改革を促すために、兵を率いて上京することを計画していた。
それには、斉彬とともに京に上ったことがある西郷の経験が必要だ、と大久保は久光を説得。大久保の努力が実り、西郷は島からの帰還が許されることになる。
ところが、せっかく島から戻って来たにもかかわらず、わずか5カ月後に、34歳の西郷は2度目の島流しとなってしまう。原因はあろうことか、久光への暴言である。
■ついに久光の堪忍袋の緒が切れる
西郷は久光の上洛計画を本人から聞かされると、それに反対し久光にこう言い放った。
「あなたのような地五郎(田舎者)に、斉彬公の代わりは務まるはずもない」
西郷の言い分にも一理ある。斉彬の死後、藩主の座は弟の久光ではなく、久光の子である忠義へと引き継がれた。忠義がまだ幼いため、藩主の父である久光が実権を握ってはいたものの、対外的には、藩主の身内に過ぎない。
つまり西郷は「官位を持たず藩主でもない久光には、中央政局で発言する資格すらなく、相手にされないだろう」と考えて、率直にそれを告げたのである。京で実際に奔走したことがある西郷ならではの見解だったが、西郷復帰のために東奔西走した大久保は、久光の横で青ざめたことだろう。
久光は西郷への怒りをいったん抑えて、挙兵上京に踏み切るが「下関で私の到着を待つように」という命令を、西郷は無視。勝手に大阪へと行ってしまうと、久光の堪忍袋の緒は完全に切れた。西郷は捕縛されて、再び島流しにされている。
西郷は徳之島に流されて75日間を過ごしたのちに、さらに南西へ70キロ離れた沖永良部島に配流。
■つらい獄中生活で『言志四録』に光を見た
絶望のなか、西郷が読み耽った本が『言志四録』だ。 『言志四録』 とは、幕末の儒学者、佐藤一斎が書いた『言志録』『言志後録』『言志晩録』『言志耋(てつ)録』の四書の総称だ。
それぞれ執筆時期が異なり、42歳から11年を費やして書いたのが『言志録』、57歳から10年かけたのが『言志後録』、67歳から12年かけたのが『言志晩録』、そして、80歳から2年かけたのが『言志耋録』となる。
佐藤一斎は幕府の学問所である昌平黌(しょうへいこう)の儒官、つまり総長として、門弟3000人を育てたともいわれている。実に40年もかけて書かれた『言志四録』は、そんな一斎の後半生を凝縮した箴言録といえるだろう。
島で西郷は「このままここで人生が終わるのか」という苦悩もあったに違いない。そんなときには、『言志耋録』の次のような言葉が、西郷の心の支えになったことだろう(『[現代語抄訳]言志四録』佐藤一斎著、岬龍一郎訳、PHP研究所より)。
「人から中傷されようが誉められようが、得しようと損しようと、そんなものは人生の雲や霧のようなものである。ましてや、このようなもので心を暗くし、道を迷ってはつまらない。この雲や霧をさらりと払いのければ、よく晴れた青空のように人生は明るいものとなる」
■高官たちが贅沢に走っても質素倹約を貫く
生きていれば、雨の日や曇りの日もある。人に褒められたかと思えば、一転して批判されることになったりもするが、一喜一憂するのはナンセンスだ。
『言志四録』に励まされながら、西郷が島でひたすら待っていると、薩摩ではイギリスと一戦を交えるという薩英戦争が勃発。大国相手に苦戦しつつも、若手藩士たちのグループ「精忠組」が活躍すると、藩内で「西郷待望論」が高まっていく。久光はかつて自分を愚弄した西郷の復帰を認めざるを得なくなった。
その後、西郷が大久保とともに倒幕の中心メンバーとなったことを思うと、絶望のなかで西郷を支えた『言志録』は結果的に、明治維新の原動力となったといえそうだ。
■最期の戦いでも肌身離さず持っていた
明治維新後も、『言志録』が西郷に及ぼした影響は大きかった。
西郷は『言志録』にある言葉のなかから、特に心に響いた101カ条を抜粋して書き写して『南洲手抄言志録』としてまとめている。『南洲手抄言志録』では、次のような言葉がセレクションされている(前掲書より)。
「私利私欲で頑張っている人を見て、志の実現を果たしている人と見てはならない」
明治政府の高官たちがぜいたくに走るなか、一人で質素倹約を貫いた姿勢、そして、仲間である士族のために立ち上がり、西南戦争で散った最期……。
まさに西郷は生涯をかけて『言志録』の実践者となったといってよいだろう。西郷は西南戦争のときにも、戦場で『南洲手抄言志録』を肌身離さず持っていたという。
【参考文献】
西郷隆盛著『大西郷全集』(大西郷全集刊行会)
西郷隆盛著、山田済斎編『西郷南洲遺訓』(岩波文庫)
日本史籍協会編『島津久光公実紀』(東京大学出版会)
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
勝田孫彌著『大久保利通傳』(マツノ書店)
佐藤一斎著、岬龍一郎訳『[現代語抄訳]言志四録』(PHP研究所)
真山知幸著『偉人 大久保利通』(草思社)
真山知幸著『本を読む人だけが、“自分の壁”を突破できる』(青春出版社)
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真山 知幸(まやま・ともゆき)
伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
1979年、兵庫県生まれ。2002年、同志社大学法学部法律学科卒業。2026年、京都芸術大学大学院芸術研究科(通信教育)文化遺産領域文化遺産分野を修了。上京後、業界誌出版社の編集長を経て、2020年に独立。偉人や歴史、名言などをテーマに執筆や講演活動を行う。『ざんねんな偉人伝』シリーズ(学研)のほか、『偉人 大久保利通』(草思社)、『大器晩成列伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『本を読む人だけが、“自分の壁”を突破できる』(青春出版社)など著作は60冊以上。「東洋経済オンラインアワード」で、2021年にニューウェーブ賞、2024年にロングランヒット賞受賞。
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(伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA) 真山 知幸)

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